第六話 硝子職人の指と、笑わない貴族
雨が降る街は、音が鈍る。
石畳が濡れ、足音が吸われ、馬車の車輪が滑る。人々は外套を深く被り、目だけで道を譲り合う。
雨は優しい。だが、雨が優しい街は、裏で何かを隠していることが多い。
アッシュが辿り着いたのは、川沿いの中規模の街だった。
屋根は赤茶に統一され、壁は明るい灰色。窓には硝子がはまっている家が多い。硝子があるということは、金があるということだ。
街の門には看板が出ていた。
――硝子の都 レイフェルト
門番は銅貨を受け取り、あっさり通す。
通行税は安い。だが、安い税は別の場所で回収される。
街に入ると、すぐに硝子工房が並ぶ区画へ出た。
炉の熱が、雨の冷えを押し返す。職人の掛け声。鉄の道具が触れ合う音。硝子が冷えるときの、かすかな鳴き声。
人々は忙しそうだ。
だが、目が笑っていない。
アッシュは宿へ向かいながら、店先の貼り紙を眺める。
硝子の値段表、注文票、納期。どれも整っている。整っているが、端の方に小さく同じ印が押されている。
銀の封蝋。
貴族の紋章だ。
(誰かが握っている)
握っているのは工房ではない。
工房は作る側だ。握るのは売る側、配る側、決める側。
宿は工房区画の外れにあった。
女将は愛想はいいが、目の下に疲れが溜まっている。
「泊まり?」
「一晩」
「仕事で?」
「旅だ」
女将は頷いたが、すぐに声を落とした。
「なら、工房区画に長居しない方がいい。
ここは“都”だけど、都ってのは上が静かで、下が苦しい」
アッシュは鍵を受け取り、二階の部屋へ上がった。
窓から工房の煙突が見える。雨の中、煙は細く伸びていた。まるで息を潜めるように。
夜の前に酒場へ行く。
酒場は工房区画の境目にあり、職人が仕事帰りに寄る店だった。
濡れた外套が壁に掛けられ、床には泥。だが客の声は小さい。炉の音が大きい分、人の声が遠慮がちになる。
アッシュが席に着くと、店主が水を置いた。
その手が震えている。寒さではない。
「旅人か」
店主が言う。
「そうだ」
「……なら、聞かなかったことにしてくれ。ここは口が軽いと死ぬ。
死ぬって言っても、刃じゃない。仕事が消える」
仕事が消える。
紙や契約の話を経た後だと、その言葉が現実味を帯びる。
この街の裁きは、噂ではなく、注文票の形をしている。
隣の席に、指に包帯を巻いた男が座っていた。
硝子職人の手だ。火傷と切り傷。職人の勲章に見えるが、彼の顔は沈んでいる。
男は酒を飲まず、水を見つめて言った。
「……笑わない貴族がいる」
「誰だ」
男は少しだけ口元を歪めた。
「名は誰も口にしない。だが、紋章は皆知ってる。
銀の封蝋。
硝子を全部“買い取る”って言ってきた。買い取るって言えば聞こえはいいが……俺たちが売る先を奪っただけだ」
「値は?」
「最初は良かった。
だが、貴族が握ると値段が落ちる。落ちても誰も逆らえない。逆らえば“注文が消える”。
工房は生きるために、黙って値下げを受け入れる」
アッシュは水を飲む。
「領主は」
男は肩をすくめた。
「領主は貴族に頭が上がらない。
貴族は領主に金を渡してる。
俺たちは領主に税を払う。
どこにも出口がない」
出口がない街は、夜に息が詰まる。
息が詰まる街では、人は誰かを憎む。憎しみは簡単に刃になる。
アッシュは尋ねた。
「その貴族は、何を作らせている」
男の目が少しだけ鋭くなる。
「……硝子じゃない。
硝子みたいに見えるものだ。薄くて、硬くて、割れると粉になる。
窓に使うんじゃない。人に使う」
アッシュは答えを急がない。
人に使う硝子。
それは武器か、道具か、薬か、毒か。
店主が声を落とす。
「港の倉庫街に、貴族の私兵がいる。
そこに納める。
納期を守れって、脅しが来る」
アッシュは席を立った。
今夜、街を静かにするなら、まず倉庫街を見る必要がある。
雨はまだ降っていた。
倉庫街は川沿いにあり、荷の積み下ろし用の桟橋が並ぶ。普段なら夜でも灯りがあるはずだが、今夜は灯りが少ない。隠したいものがある夜の灯りだ。
倉庫の一つに、私兵が二人立っている。
革の胸当て、短槍、雨具。動きは固い。軍隊ではない。雇われの訓練だ。
アッシュは陰に身を置き、扉の隙間から中を見る。
中には木箱が積まれていた。
箱には硝子工房の印。そして銀の封蝋。
隣には別の箱。中身は硝子の薄板。窓硝子ではない。寸法が揃いすぎている。
そして、机の上に一枚の紙。
契約書のような書式。署名欄。押印欄。
紙の端に、こう書かれていた。
――「反射板」納入契約
――用途:照明補助
――納入先:ギルバート家
ギルバート。
主君の名が脳裏をよぎったが、アッシュはすぐにそれを払い落とした。
同じ名の家はある。世界は広い。だが、気になる。
私兵の一人が言った。
「明日の朝、貴族が来るらしい」
「笑わない貴族か」
「そうだ。
工房の代表を集めるって。納期が遅れてるらしい」
「遅れたら?」
「注文を切る。
工房を潰す。
職人は路上だ」
路上に放り出されれば、病む。盗む。死ぬ。
街は静かになる。人が消えるからだ。
(そういう静けさは要らない)
アッシュは倉庫を離れた。
今夜、誰かを殺す必要はない。だが、放置すれば街が死ぬ。
翌朝。
雨は小降りになり、街の空気が重く湿っていた。
広場に工房の代表が集められていた。
皆、硝子の粉が染みついた衣服。手は火傷と切り傷。彼らは頭を下げている。下げざるを得ない相手が来る。
貴族の馬車が入ってくる。
黒い馬。濃紺の幌。車輪は新しい。
馬車が止まると、男が降りた。
背が高く、衣服は上質。雨の泥が付かないよう、靴の手入れが完璧だ。
顔は整っているが、表情がない。笑わない貴族。
男は広場を見回し、淡々と言った。
「納期が遅れている」
工房の代表が頭を下げる。
「申し訳ありません。炉の具合が――」
「言い訳は不要だ。契約がある」
貴族は紙を掲げる。
契約書だ。文字は丁寧。条文は硬い。
そして、最後にこうある。
――納期遅延の場合、買い取り価格を三割減とする。
――再遅延の場合、契約を解除し、設備を差し押さえる。
設備差し押さえ。
つまり工房を奪う。
工房側がざわめく。
代表が言う。
「その条文は、聞いておりません」
「署名した」
「署名は……代筆で……」
貴族は首を傾げた。
「読めない者が署名するな」
冷たい。
だが、正しい顔をしている。
紙の正しさは、人の生活を潰す。
アッシュは群衆の端で見ていた。
彼の目は貴族ではなく、貴族の後ろに立つ従者を見る。
従者の手が汚れている。硝子粉ではない。墨だ。代筆の手。
従者が代筆し、職人に印を押させたのだろう。
(契約は、同意ではない)
貴族が言う。
「今日中に納めろ。できなければ、明日から価格はさらに下げる」
工房の代表が唇を噛む。
ここで逆らえば終わる。
だが従えば、じわじわと死ぬ。
その時、若い職人が一歩前に出た。
包帯の男だ。彼は声を上げた。
「俺たちの硝子は、窓のためだ!
人に使うためじゃない!」
広場が凍る。
正義を口にした者は、真っ先に裁かれる。
貴族の目がその男に向く。
「反抗か」
私兵が前に出る。
棒でも槍でもない。紙だ。契約書を広げ、指差す。
「反抗は契約違反。違反は解除理由になる」
解除。
解除されれば工房は奪われる。
アッシュは前に出た。
目立つ動きではない。だが、広場の空気が少し動いた。
貴族がアッシュを見る。
「誰だ」
「旅人だ」
「関係ない」
「ある」
アッシュは契約書を見た。
「この契約は、用途が違う」
貴族の眉が僅かに動く。
「用途?」
アッシュは言った。
「『照明補助』とある。
だが、あなたが求めているのは別の用途だ。
用途が違えば、契約は別になる」
貴族は薄く息を吐いた。
「証拠は?」
アッシュは答えない。
代わりに、従者の手を見た。墨の手。
そして、工房代表の手を見た。硝子粉の手。
署名の筆跡を見た。筆跡は同じ。工房の者の字ではない。
アッシュは言った。
「この署名は代筆だ。
代筆した者は、契約の説明義務を負う」
貴族は冷たく言う。
「代筆は違法ではない」
「説明せずに署名させるのは違法だ」
貴族の目が細くなる。
この街には法がある。だが法は貴族の味方だ。
それでも、法の“形”は守らねばならない。形が崩れれば、領主が困る。領主が困れば、貴族の取引も困る。
アッシュは続けた。
「さらに、納入先が『ギルバート家』とある。
この街の領主の許可を得ているか」
貴族の表情がわずかに硬くなる。
領主の許可。ここは領主の街だ。貴族が勝手に契約を結べば、領主の面子が潰れる。
貴族は私兵に目配せし、低い声で言った。
「……誰の差し金だ」
「差し金ではない」
アッシュは淡々と答える。
「紙の筋を通すだけだ」
貴族は沈黙した。
今ここで強行すれば、法の形が崩れる。形が崩れれば、契約は逆に自分を刺す。
貴族は言った。
「今日は引く。
だが、工房は逃げられない。
契約は、別の形で結び直す」
「結び直すなら、用途を書け」
アッシュが言うと、貴族は目を細め、何も言わず馬車へ戻った。
馬車が去ると、広場の空気が一気に抜けた。
工房の代表が膝をつく。
若い職人が息を吐く。
「……助かった」
「助かっていない」
アッシュは言った。
「貴族は引いただけだ。戻ってくる」
代表が震える声で言った。
「どうすればいい」
アッシュは倉庫街の方を見た。
「硝子は、売る相手を変えろ。
封蝋の印が押される前に、別の印を押せ」
「そんなことをしたら、貴族に潰される」
「潰すには理由が要る。
理由を与えるな。
契約ではなく、市場で売れ」
代表は唇を噛む。
しかし、目が少しだけ生き返る。市場に戻る。
契約に縛られた街で、市場へ戻るのは危険だが、唯一の出口でもある。
その夜、アッシュは倉庫街へ行った。
銀の封蝋が押された箱を、ただ眺める。
封蝋は割れば痕跡になる。
痕跡は争いを生む。
なら、割らずに“押し替える”。
アッシュは火を使わず、薬を使った。
封蝋を柔らかくする油。ゆっくりと染み込ませる。表面はそのまま、内側だけが緩む。
緩んだ封蝋は、そっと外せる。外しても割れない。割れないから、誰も気づかない。
封蝋を外し、別の封蝋を押す。
街の商会の印。これで箱は「商会の荷」になる。貴族の荷ではなくなる。
法は形を愛する。形が変われば、法の扱いも変わる。
翌朝、倉庫街の箱は商会の荷として運び出された。
貴族の私兵は止められない。止めれば、「商会の荷を奪った」ことになる。
領主が黙っていない。
工房の代表がアッシュに言った。
「あなたは……何者だ」
アッシュは答えない。
答えれば、名が契約になる。契約になれば、誰かの都合に使われる。
雨は上がり、街の空が少し明るくなっていた。
硝子の窓に光が反射し、通りに淡い白が落ちる。
職人たちの手は相変わらず傷だらけだ。
だが、目は少しだけ戻っている。自分で決める目だ。
アッシュは街を出た。
門を出るとき、門番が言った。
「……昨夜、何かあったのか」
アッシュは歩きながら答えた。
「硝子が、よく光っただけだ」
門番は意味が分からない顔をしたが、追わなかった。
次の街へ。次の夜へ。
静かな夜を歩く者として。




