第五話 契約の街で、誰も剣を抜かない
その街には、門がなかった。
代わりに、石柱が二本立っている。
街道の中央に、意味ありげに立てられた柱だ。柱の間を通る者は、皆そこで立ち止まり、脇にある机へ向かう。
机には帳面が置かれ、羽根ペンと墨壺が並んでいた。
その横に、短剣ではなく、短い棒が一本。裁きの道具ではない。署名の道具だ。
街の名は「エルツェン」。
石柱の上に刻まれた文言は短い。
――この街に入る者は、契約に従う。
アッシュは外套の裾を揺らし、柱の前に立った。
机の向こうに座っていたのは、年配の男だ。痩せているが背筋は伸び、衣服は地味だが清潔。商人でも兵でもない顔。帳面の番人だ。
「名を書く」
男は淡々と言った。
「通行証だ。名と、滞在日数。
この街では、剣より先に約束がある」
「書かなければ?」
「通れない。戻るか、迂回だ。
迂回は五日。戻るなら、今だ」
脅しではない。
事実を述べているだけの声だ。
アッシュは帳面を見た。
並ぶ名前。職。日付。滞在日数。
どれも丁寧な文字だ。文字が丁寧な街は、決まり事が多い。
彼は名を書かなかった。
代わりに、滞在日数だけを書いた。
――三日。
番人は眉を動かしたが、何も言わずに帳面を閉じた。
「剣は?」
「使わない」
「それは良い。
この街では、剣を抜いた者は契約違反だ」
「違反すると?」
「罰金だ」
「金で済む?」
「金で済む。
だが、払えなければ――」
男は言葉を切った。
「……街を出る」
それは穏やかな追放だった。
血は出ない。だが、仕事は失われる。信用も失われる。
アッシュは頷き、街に入った。
エルツェンは整っていた。
通りは広く、排水溝があり、家々の壁は白い。看板の文字は揃い、露店の位置も決まっている。
雑多さがない代わりに、息苦しさがある。
人々は笑っている。
だが、その笑いは決まった時間、決まった場所でだけ生まれる。
宿に入ると、女将が帳面を出した。
「名と、日数」
「三日」
「剣は?」
「使わない」
女将は満足そうに頷いた。
「良い旅人だ。
夜は静かだから、眠れるよ」
眠れる。
それは、この街の売り文句だ。
部屋に入ると、窓の外から鐘の音が聞こえた。
時刻を告げる鐘ではない。合図だ。
通りを見ると、人々が一斉に店を閉め始める。
露店が片付けられ、看板が裏返され、扉が閉まる。
夜間営業禁止。
それも契約だ。
アッシュは外套を羽織り、通りを歩いた。
誰も止めない。ただ、誰も話しかけない。
広場に着くと、中央に大きな掲示板があった。
紙ではない。木の板に、刻まれている。
――本日の契約違反
――器物破損:銅貨五枚
――騒音:銅貨三枚
――無許可集会:銀貨一枚
名前はない。
罪だけがある。
(人を裁かない代わりに、行為を裁く)
合理的だ。
合理的で、冷たい。
その時、広場の端で小さな揉め事が起きた。
若い男が、別の男の腕を掴んでいる。
「返せ。それは俺の店のだ」
「契約だ。置き忘れた物は、拾った者の物」
「そんな条文は――」
「ある」
若い男は掲示板を指す。
確かに、細かい文字で刻まれている。
――放置物の所有権は、拾得者に移る。
掴まれていた男は、袋を抱えたまま動かない。
周囲の人々は見ているが、止めない。止める理由がない。
アッシュは近づいた。
「それは食料か」
袋の口から、乾燥肉が見えた。
「そうだ」
「店の物か」
掴んでいる男が言う。
「そうだ。朝、運び込んだ。
だが昼に忙しくて、通りに置いたままにした」
「契約違反だな」
男は歯噛みする。
「分かっている! だが――」
「契約だ」
拾った男が言う。
その言い方には、悪意がない。ただ、当然だという響きがある。
アッシュは二人を見比べた。
「金で解決できる」
掴んでいる男が言う。
「買い戻す。倍払う」
拾った男は首を振る。
「要らない。
今夜の分が欲しい」
今夜の分。
つまり食料だ。金ではない。
掴んでいる男は黙り込む。
彼もまた、今夜の分を失えば困る。
契約は、両者に平等だ。
平等だが、救わない。
アッシュは口を開いた。
「分けるという条文は?」
二人が掲示板を見る。
だが、そんな条文はない。
アッシュは続けた。
「では、違反金は?」
「……銅貨五枚」
「誰が払う?」
「置き忘れた側だ」
掴んでいる男が言う。
「なら、払え」
「払えば、袋は?」
「返らない」
契約だ。
アッシュは外套の内側から銅貨を五枚出し、掲示板の前に置いた。
「違反金だ」
二人が驚く。
「何だあんた」
「旅人だ」
「関係ないだろ」
「ある」
アッシュは袋を見る。
「分けろ」
拾った男は戸惑う。
「契約にない」
「だが、違反金は払われた」
「……」
「金は街のものだ。
袋は、今夜のものだ」
沈黙。
周囲の人々が見ている。契約の街では、見られていることが圧力になる。
拾った男は、袋を開け、乾燥肉を半分取り出した。
残りを抱え、立ち去る。
掴んでいた男は、肉を受け取り、深く頭を下げた。
「助かった」
「違う」
アッシュは言った。
「契約が、少し緩んだだけだ」
男は意味が分からない顔をした。
だが、肉を抱えて去った。
夜。
街は本当に静かだった。
だが、静かすぎる夜は、別の音を拾う。
遠くで、誰かが泣いている。
声を殺した泣き声だ。
アッシュは音の方へ向かった。
契約違反になるが、罰金で済む。
泣いていたのは、細身の女だった。
裏通りの壁にもたれ、肩を震わせている。
「どうした」
女は顔を上げ、慌てて言った。
「何でもない。
契約違反よ。泣くのは禁止」
「何があった」
女は躊躇い、やがて言った。
「夫が……追い出された」
「違反か」
「ええ。
『無許可集会』」
無許可集会。
便利な罪だ。話し合いも、相談も、集まれば罪になる。
「夫は、何をした」
「……賃金の話をしただけ」
アッシュは周囲を見る。
誰もいない。だが、窓は閉じられている。聞いている耳はある。
「どこへ行った」
「街の外。
今夜のうちに」
女の声は震えている。
この街の外は、夜は危険だ。野盗も、獣もいる。
「追放は、いつ」
「鐘が三度鳴ったら」
アッシュは空を見た。
二度目の鐘が、もうすぐだ。
(殺す話ではない)
ここで剣を抜けば、契約違反。
違反すれば、罰金。罰金を払えなければ、追放。
だが、剣を抜かなくても、追放は起きる。
アッシュは掲示板へ向かった。
刻まれた文字を見る。
――無許可集会:銀貨一枚
――違反三度で追放
「銀貨一枚」
女が言った。
「払えない。
もう、全部払った」
アッシュは女を見る。
「一度目か」
「……二度目」
二度目。
次で追放だ。
鐘が鳴った。二度目。
街の番人が現れる。
剣は持たない。帳面を持っている。
「違反者は?」
女が震えながら手を挙げる。
「……私の夫です」
番人は帳面を見る。
「名は」
女が名を言う。
番人は刻む。刻む音が、やけに大きい。
アッシュは前に出た。
「集会は、何人からだ」
番人が答える。
「二人以上」
「なら、これは?」
アッシュは女の肩に手を置く。
「二人だ。
今、集会になった」
番人は顔を上げる。
「違反だ」
「そうだ」
アッシュは銀貨を一枚置いた。
「違反金」
番人は受け取る。
「記録する」
「記録は、行為に対してだ」
「そうだ」
「行為は、今起きた」
番人は一瞬、迷った。
帳面には、女の名がすでにある。だが、それは“夫の違反”だ。
「……二度目」
「一度目だ」
アッシュは言った。
「今夜、初めて二人になった」
番人は周囲を見る。
見ている人はいない。だが、掲示板は見ている。
番人は帳面に線を引き、書き直した。
「……一度目」
女が息を呑む。
「次は?」
番人が言う。
「次は、追放だ」
アッシュは頷いた。
「分かった」
鐘が三度鳴る。
だが、追放は起きない。
女はその場に崩れ落ちた。
泣き声は出ない。代わりに、深い呼吸が漏れる。
「ありがとう……」
「感謝は要らない」
アッシュは言った。
「契約を、使っただけだ」
夜が明ける。
エルツェンの街は、今日も整っている。
契約は残る。制度も残る。
だが、昨夜、いくつかの“使われ方”が変わった。
掲示板の前で、男が言う。
「分ける、って条文はないが……
昨日は、分けたな」
別の女が言う。
「契約って、守るだけじゃないのね」
小さな変化だ。
だが、契約の街では、前例がすべてだ。
アッシュは街門へ向かった。
石柱の前で、番人が帳面を開く。
「もう出るのか」
「三日はいない」
「契約違反だ」
「罰金は?」
番人は帳面を見、首を振る。
「……要らない」
アッシュは外へ出た。
エルツェンの街は、相変わらず整っている。
だが、その整い方は、少しだけ変わる。
剣を抜かず、血も流さず。
それでも、夜は少し静かになった。
アッシュは歩き出す。
次の街へ。次の夜へ。
静かな夜を歩く者として。
夜は、まだ続きます。




