第四十七話 何も起きない夜
夜は、静かだった。
あれほど多くの声が重なり、
名が呼ばれ、
数が消えていった夜と同じとは思えないほど、
何も起きていない。
アッシュは川沿いの土手を歩いていた。
橋を越えなかった川だ。
流れは緩く、石に当たる水音が一定で、
聞いていれば眠ってしまいそうになる。
夜明けは近い。
空の端が、わずかに薄い。
(……終わった)
誰かに告げる言葉ではない。
胸の奥で、自然に落ちる判断だ。
帳塔は止まり、
書記は書けず、
調整官は死に、
呼称は声を失った。
だが、世界は変わっていない。
街は残り、
村も残り、
人は働き、
怒り、
迷い、
そしてまた取引を始める。
それでいい。
世界を変えるつもりは、最初からなかった。
土手の向こうに、小さな灯りが見えた。
旅人の焚き火だ。
三人ほど。
声は聞こえない。
ただ、火が揺れている。
アッシュは近づかない。
近づけば、名が生まれる。
通り過ぎる。
それだけだ。
しばらく歩くと、古い道標が立っていた。
文字は風雨で削られ、
どこへ続く道かは分からない。
アッシュは立ち止まり、
道標に触れた。
木は乾き、
ささくれている。
(これも、通過点だ)
外套の内ポケットに、
小さな布包みが残っている。
針。
粉。
刃。
どれも、もう使わない。
アッシュは布包みを取り出し、
川へ投げた。
沈まず、
流れ、
やがて闇に溶ける。
刃は――
しばらく考えてから、
腰の鞘から抜いた。
月明かりに、淡く光る。
この刃は、多くを切った。
人ではない。
役割を。
仕組みを。
連なりを。
アッシュは刃を地面に置き、
石を一つ拾って、刃先を叩いた。
乾いた音。
刃に、欠けが生まれる。
もう一度。
欠けが広がる。
三度目で、
刃は“使えない刃”になった。
アッシュはそれを拾い、
川へ放った。
今度は沈む。
ゆっくりと。
確実に。
夜風が吹く。
外套が揺れる。
アッシュは外套を脱がなかった。
捨てれば、誰かが拾う。
拾われれば、次の物語になる。
着たまま、歩く。
やがて、空が明るくなる。
夜と朝の境目。
鳥が一羽、鳴いた。
それを合図にするように、
街道の向こうから人影が現れる。
農夫だ。
荷を担ぎ、
眠そうに歩いている。
農夫はアッシュを見て、
一瞬だけ目を留めた。
だが、何も言わず、通り過ぎる。
呼ばれない。
止められない。
それでいい。
少し先で、子どもが二人、石を蹴って遊んでいた。
一人が、アッシュを見る。
「ねえ」
もう一人が言う。
「なに?」
「あの人、どこから来たんだろ」
子どもは、少し考えてから答える。
「どこからでも、いいんじゃない?」
アッシュは歩き続ける。
振り返らない。
名を呼ばれなかった。
それで十分だ。
街に入る手前で、
掲示板があった。
紙が貼られている。
――回収停止のお知らせ
――当面、選別業務は行いません
文字は雑で、
言い訳が多い。
だが、そこに
「代替案」は書かれていない。
アッシュはそれを一瞥し、
通り過ぎた。
止まらない。
止まる理由がない。
やがて、街道は分岐する。
東。
西。
南。
どれでもいい。
アッシュは、最も人の少ない道を選んだ。
歩きながら、
ふと、思う。
ノアは、どうしているだろう。
ミレイは、笑っているだろうか。
答えは、知らない。
知らなくていい。
知れば、次の帳簿になる。
夜は、もう終わった。
だが、夜はまた来る。
その時、
誰かが誰かを数にしようとするなら、
どこかで、また刃が動くかもしれない。
だが、それは
アッシュではない。
アッシュは、通過した。
名を残さず、
役割を残さず、
物語を残さず。
ただ、夜を歩いた。
静かな夜を歩く者として。
後書き
――静かな夜の、その後で
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
『静かな夜を歩く者』は、最初から最後まで、
「大きな勝利」も
「世界が救われる瞬間」も
描かない物語として書かれました。
主人公であるアッシュは、英雄ではありません。
彼自身も、一度たりとも英雄であろうとしませんでした。
彼が行ったのは、
悪を裁くことでも、
正義を示すことでもなく、
ただ「仕組みを止める」ことでした。
■ 正義について
物語の中で、
「正義」という言葉はほとんど使われていません。
それは意図的なものです。
正義は、立つ場所によって形を変えます。
村人の正義、
会計官の正義、
調整官の正義、
模倣者の正義。
どれも、その人にとっては本物です。
だからこそ、アッシュは
「正義」を名乗らない。
名乗った瞬間、
それは別の誰かを“数”にしてしまうからです。
■ 暗殺者であるということ
アッシュは、最後まで暗殺者でした。
悩みながらも、
葛藤しながらも、
結局は刃を使う人間です。
しかし彼が斬ったのは、
個人の善悪ではありません。
・帳簿を書く手
・指示を出す口
・名を増幅する役職
・連なりを維持する装置
そうした「人を数に変える働き」でした。
だから彼の暗殺は、派手ではなく、
語られず、
記録にも残らない。
必殺仕事人でありながら、
喝采も、拍手も、噂すら残らない。
それこそが、
この物語における暗殺の形でした。
■ なぜ、アッシュは消えたのか
ラストで、アッシュは死にません。
しかし、物語からは完全に姿を消します。
それは敗北ではありません。
逃避でもありません。
彼が生き続け、名を残せば、
必ず「次のアッシュ」が生まれます。
模倣者。
英雄志願者。
あるいは、正義を振りかざす者。
アッシュはそれを断ち切るため、
自らを出口から消しました。
世界を変えない代わりに、
世界が彼を利用できないようにした。
それが、彼なりの終わり方です。
■ 何も起きない夜について
最終話のタイトルは
「何も起きない夜」。
これは、物語としてはとても弱い言葉です。
しかし、この物語にとっては、
最大の到達点でした。
誰も消えない。
誰も選ばれない。
誰も数えられない。
それは奇跡ではなく、
ほんの一晩の静けさにすぎません。
けれど、
「その一晩があった」という事実だけで、
人は生き延びられる。
アッシュが残したのは、
希望ではなく、
余白でした。
■ 最後に
この物語は、
「強い人の話」ではありません。
「正しい人の話」でもありません。
ただ、
誰にも拍手されず、
誰にも感謝されず、
それでも歩き続けた人の話です。
もしこの物語を読み終えたあと、
夜が少しだけ静かに感じられたなら。
それが、アッシュの仕事の成果です。
長い時間、
静かな夜を一緒に歩いていただき、
本当にありがとうございました。
――またどこかで、
何も起きない夜に。




