第四十六話 最後の暗殺
森を抜けると、古い橋があった。
川は浅く、流れも緩い。
だが橋だけが、異様に立派だ。
石積みが厚く、補修が重ねられている。
渡る必要はない。
だが、人は必ず渡る。
橋は、選ばせる場所だ。
アッシュは橋の下へ降りた。
水音に紛れ、息を潜める。
夜気が湿り、苔の匂いが濃い。
やがて、足音。
一人。
重くない。
だが、迷いが無い。
橋の中央で、足音が止まる。
「……来ないと思っていた」
声は女だった。
若くはない。
老いてもいない。
「だが、来ると分かっていた」
女は橋の欄干に手を置いた。
月明かりに照らされ、指が白い。
「誰だ」
アッシュが言う。
「名は無い」
また、その答え。
「私は、呼称」
呼称。
名を呼ぶ役割。
噂を固定し、物語を増幅する役目。
「お前が、最後か」
「最後ではない」
女は微笑んだ。
「ただの一つ。
残り続けるもの」
「仕組みは壊れた」
「仕組みは壊れる」
女は頷く。
「だが、人は語る」
「語らせない」
アッシュは橋の下から上がり、
女と向かい合った。
「どうやって」
「切る」
「何を」
「連なりを」
女は、少しだけ目を細めた。
「あなたは、本当に暗殺者ね」
「それしかできない」
「いいえ」
女は言った。
「あなたは、物語を殺す人」
その言葉は、褒め言葉ではない。
だが、否定でもない。
「人を殺せば、名は増える」
女は続ける。
「語られ、広まり、次が生まれる」
「だから、人は殺さない」
「違う」
女は首を振る。
「だから、役を殺す」
アッシュは刃を抜いた。
月が反射する。
「ここで私を殺せば、
『最後の語り部』という名が生まれる」
「生まれない」
アッシュは言った。
「ここは、橋の下だ」
女は、笑った。
「なるほど」
彼女は外套を脱いだ。
武器は無い。
逃げる気もない。
「では、どうぞ」
アッシュは踏み込んだ。
速い。
だが、派手ではない。
刃は女の喉を狙わない。
心臓も、肺も外す。
狙うのは――
声。
一瞬の接触。
刃が、女の喉元を浅く切る。
血は少ない。
だが、声は出ない。
女は目を見開き、
口を開く。
音が、出ない。
彼女は膝をつき、
橋の石に手をついた。
「……ああ……」
かすれた空気だけが漏れる。
アッシュは、彼女の背後へ回り、
短い針を打った。
眠りではない。
死でもない。
終わりだ。
女は、静かに倒れた。
橋の上を、風が渡る。
欄干が軋み、
水音が一定になる。
アッシュは女の外套を拾い、
川へ投げた。
流れる。
沈まない。
やがて、見えなくなる。
名は、残らない。
アッシュは橋を渡らなかった。
渡れば、語られる。
代わりに、川を越えた。
靴を濡らし、
痕跡を散らす。
夜が、軽くなる。
もう、追う者はいない。
模倣者は、道具を失った。
語り部は、声を失った。
残るのは――
何も起きない夜だ。
アッシュは歩く。
次で、終わる。
静かな夜を歩く者として。




