第四十二話 再計算の街
街に入る前から、匂いで分かった。
石畳の匂い、焼いた油の匂い、酒の匂い。
それらに混じって、紙の匂いがする。
湿った紙ではない。
新しい紙――乾いて、白く、数を待っている紙の匂いだ。
シュタインヴァルトより北、交易路の結び目にある都市。
名は ヴァルトシュタット。
ここは何かが止まれば、別の何かが動く。
動かしているのは人だが、動かされているのは欲だ。
門をくぐると、衛兵が二人いた。
だが検めは雑で、視線だけが鋭い。
「旅人か」
「通過だ」
「……通過者は増えたな」
衛兵が吐き捨てるように言う。
増えたのは旅人ではない。
回収から漏れた人間が、街道を漂っている。
アッシュは宿を取らなかった。
宿は名を残す。
今夜は名を残す夜ではない。
市場の端で、水を飲む。
石の水瓶から汲んだ水は冷たく、舌の奥が痺れる。
近くで、露店の男たちが小声で話している。
「……帳所が止まったってよ」
「馬鹿な。あんなの、止まるわけが」
「止まったんだと。だから今、こっちで作り直してる」
「誰が」
「会計の残りだ。
いや、残りっていうか……“新しい会計”だな」
新しい会計。
つまり、仕組みは死んでいない。
死んだふりをして、皮を替える。
アッシュは、露店の男に金を払って干し肉を買った。
味は濃い。
濃い味は、腐敗を隠す。
「帳所って、どこだ」
何気ない声で聞く。
露店の男は、顔を上げずに顎で示した。
「西区の石造りの館。
“評議会の臨時庁舎”って看板が出てる」
評議会。
その言葉を借りれば、何でも正当化できる。
西区へ向かう道は、妙に整っていた。
掃除が行き届き、溝の泥も掬われている。
整えるのは、歓迎ではない。
動線の固定だ。
石造りの館は、すぐ見つかった。
看板が大きい。
――臨時庁舎
――通行税・救済手続き
――登録窓口
救済。
美しい言葉だ。
入口に立つ男たちは、衛兵ではない。
武装していない。
だが、立ち方が揃っている。
命令が通っている立ち方。
アッシュは列に並ばず、脇道へ回った。
建物の裏手。
壁は厚いが、窓がある。
窓の内側には、灯り。
書き物机。
人影が忙しなく動く。
紙を運ぶ者。
印を押す者。
声を低く抑え、数字を読み上げる者。
その中心に、座っている男がいた。
年齢は四十前後。
髪は丁寧に整えられ、指は墨で黒い。
服は上質。
だが、飾りは無い。
飾りが無い上質さは、役職の匂いだ。
――書記。
そして、その机の上にあるのは、帳簿ではない。
新しい紙束。
白い紙束だ。
(これが核だ)
核は派手に座らない。
核は、書く。
アッシュは窓を離れ、さらに裏へ回った。
建物の裏門。
見張りは一人だけ。
眠そうな顔をしている。
眠いのではない。
疲れている。
数字を扱う者は、体力を削られる。
アッシュは近づき、声をかけた。
「水は」
男が振り返る。
「……誰だ」
「通過者だ。
喉が乾いた」
男は疑いながらも、首を振る。
「ここは窓口じゃない」
「知っている」
アッシュは言い、距離を詰める。
男が口を開きかけた瞬間、
アッシュの掌が男の顎を押し上げ、同時に首筋を締めた。
音が出ない。
抵抗は短い。
男が崩れる前に、アッシュは抱え、壁に沿わせて座らせた。
眠っているように見える形。
これが“暗殺者の礼儀”だ。
裏門から入る。
廊下は狭い。
声が響く造り。
だから、声は出さない。
階段を上がる。
二階。
机のある部屋の外へ。
扉の隙間から、声が聞こえる。
「印が足りません」
「予備を出せ」
「登録者が増えています。
今日だけで三百を越えました」
「構わん。
数がある方が、回せる」
回せる。
回すために、人は数になる。
アッシュは呼吸を整えた。
この部屋の中にいるのは、五人。
書記が一人。
補助が四人。
全員を消す必要はない。
必要なのは――手だ。
書く手。
印を押す手。
仕組みを“再計算”する手。
扉を開ける。
ゆっくり。
部屋の全員が顔を上げる。
「誰だ!」
一人が叫び、もう一人が立ち上がる。
アッシュは答えない。
刃は抜かない。
代わりに、机の上へ歩く。
書記の男が、椅子を蹴って立ち上がった。
「止まれ!」
アッシュは止まらない。
紙束に手を伸ばす。
書記が、短剣を抜いた。
護身用だ。
だが、刃は刃だ。
「動くな!」
アッシュは紙束を掴み、持ち上げる。
重い。
白い紙は、未来の重量だ。
そして――
火を付けた。
灯りは部屋にある。
蝋燭が二本。
紙は燃えやすい。
書記が叫ぶ。
「何を――!」
火が走る。
紙が黒くなる。
数字になる前に、灰になる。
補助の一人が水を持ってくる。
だが、その水も帳簿のために使われる。
生活の水ではない。
アッシュは書記を見る。
「作り直すな」
書記は、目を見開いた。
「……お前が、影か」
「そう呼ぶなら、そうだ」
書記は歯を噛み、短剣を突き出した。
アッシュは半歩ずらし、短剣を外す。
外した刃は空を切り、勢いで書記の体勢が崩れる。
その瞬間、アッシュは書記の手首に指を当てた。
押す。
骨を折らない。
だが、腱に届く角度。
書記の手から短剣が落ちる。
落ちる前に、アッシュが受け、机に置く。
「……っ」
書記が息を呑む。
アッシュは、短い針を取り出した。
毒ではない。
眠りでもない。
痛みを奪う。
指先の感覚を奪う。
針が、書記の指の付け根へ沈む。
書記の顔が歪む。
「なにをした……」
「書けなくした」
アッシュは言った。
「印も押せない。
数も回せない」
補助たちが動こうとする。
だが、炎が机を舐め、近づけない。
火は、会計の敵だ。
事故が記録になるからだ。
アッシュは書記の耳元に言った。
「今夜、ここを閉じろ」
「閉じれば、街道が――」
「街道は、元から壊れている」
アッシュは淡々と言う。
「壊れているものを、紙で隠すな」
書記は膝をついた。
怒りではなく、理解でもなく、
ただ絶望で。
「……誰がお前を使っている」
「誰も」
アッシュは答える。
「通過者だ」
火が落ち着き、煙が天井へ溜まる。
補助の一人が咳き込む。
「助けろ!」
「助けない」
アッシュは言った。
「死なせないだけだ」
扉の外で、足音が増える。
見張りが気づいた。
アッシュは窓を開け、煙を逃がす。
逃がせば、火が強くなる。
だがそれでいい。
今夜の紙は、すべて灰になる。
アッシュは窓から外へ出た。
二階の縁。
下は裏庭。
着地は静か。
膝で衝撃を殺す。
背後で、怒鳴り声が上がる。
「逃がすな!」
だが、追う足音は揃っていない。
命令が混乱している。
帳簿が無いからだ。
アッシュは裏門を出て、細い路地へ消えた。
夜の街は、まだ眠らない。
だが、どこかで確実に「再計算」が止まった。
仕組みは、紙でできている。
紙は、燃える。
それだけのことだ。
アッシュは屋根の影に立ち、
遠くで上がる煙を見た。
(次は、裏切りだ)
会計は、必ず依頼を使う。
依頼主に“正義”の顔を被せ、
暗殺者を消耗させる。
そして、最後は――
暗殺者自身を回収する。
アッシュは息を吐き、街を出た。
次の夜へ。
裏切りの夜へ。
静かな夜を歩く者として。




