第四十一話 止まった数と、動き出す人
帳塔を出たとき、夜はまだ壊れていなかった。
星は見えず、風は一定で、
森も街道も、何事もなかったかのようにそこにある。
だが――
数だけが、止まっている。
アッシュは振り返らなかった。
塔を見返せば、そこに意味を与えてしまう。
意味は、次の帳簿になる。
歩き出す。
北へ続く道ではなく、横へ逸れる獣道。
会計の流れは止めたが、会計の人間は残っている。
彼らは今、自分が何をしていいのか分からない。
それが、いちばん危ない。
夜明け前、森の縁に灯りが見えた。
小さな野営だ。
焚き火は低く、隠す気はないが、誇示もしていない。
人が三人。
武装は軽い。
兵でも処理班でもない。
アッシュは、姿を見せた。
驚きはあったが、剣は抜かれない。
抜けない理由がある。
命令がない。
「……あんた」
一人が声を出した。
「帳塔の方から来たな」
「来た」
「……何が起きた」
「止まった」
それ以上、説明しない。
だが、それで通じる。
三人は顔を見合わせる。
「……更新が、来ない」
別の男が言う。
「今夜分が、来ない」
「だから、ここにいる」
アッシュは言った。
「次を待っている」
沈黙。
焚き火が、ぱちりと鳴った。
「次は、どうなる」
最初に話した男が問う。
アッシュは答える。
「決めろ」
「……俺たちが?」
「そうだ」
三人は、困惑する。
彼らは決める側ではない。
流す側だった。
「決めたことが、帳簿になってきた」
男が言う。
「それが無いなら……」
「戻れ」
アッシュは言った。
「村へ。
街へ。
名前のある場所へ」
三人のうち、一人が笑った。
「簡単に言うな」
「簡単だ」
アッシュは言う。
「ただ、怖いだけだ」
男は、笑うのをやめた。
「……あんたは、怖くないのか」
「怖い」
即答だった。
「だが、歩く」
三人は、それ以上何も言わなかった。
夜明け前、焚き火を消し、それぞれ別の方向へ散っていく。
命令のない人間は、ばらける。
それが、人だ。
アッシュは、さらに南へ向かった。
北は、もう危険だ。
止まった直後の場所は、
「元に戻そう」とする力が集中する。
昼、丘の上から村が見えた。
昨日、止めた村とは違う。
だが、似ている。
鐘楼。
広場。
集会所。
秩序の形は、どこも同じだ。
村に入ると、騒ぎが起きていた。
怒鳴り声ではない。
混乱だ。
「帳所から、人が来ない!」
「どうする!」
「今夜の分は!」
アッシュは、人混みの端に立つ。
中央には、村長らしき男。
「落ち着け!」
男が叫ぶ。
「今夜は、様子を見る!」
誰かが言う。
「様子見って、どういうことだ!」
「余りは、どうする!」
その言葉で、空気が張り詰める。
余り。
その概念だけが、仕組みから独立して歩いている。
アッシュは、一歩前に出た。
「余りは、余っていない」
声は大きくない。
だが、近くの者には届く。
村長が振り返る。
「……旅の方?」
「通過者だ」
「今は忙しい」
「知っている」
アッシュは言う。
「だから、短く言う」
人々が、自然と静かになる。
「帳所は、止まった」
ざわめき。
「今夜、回収は来ない」
ざわめきが、大きくなる。
「代わりは、無い」
沈黙。
「決めるのは、お前たちだ」
誰かが叫ぶ。
「そんなの、無理だ!」
「今まで、やってこなかった!」
アッシュは答える。
「だからだ」
「何が!」
「今まで、やってこなかったから、
ここまで来た」
村長が、額の汗を拭う。
「……今夜、誰も出さなければ」
「何も起きない」
「明日は?」
「分からない」
正直な言葉。
「だが」
アッシュは続ける。
「今夜、誰かを出せば、
それはもう“取引”じゃない」
「じゃあ、何だ」
「殺しだ」
言葉が、広場に落ちる。
人々は、目を逸らす。
だが、誰も否定しない。
村長が、長く息を吐いた。
「……今夜は、出さない」
誰かが泣き、
誰かが安堵し、
誰かが、まだ迷っている。
アッシュは、それ以上関わらない。
決めた以上、後は彼らの時間だ。
村を出るとき、子どもが一人、追いかけてきた。
「ねえ!」
アッシュは、立ち止まる。
「あなた、怪物なの?」
「違う」
「英雄?」
「違う」
「じゃあ、なに?」
アッシュは少し考え、答えた。
「通る人だ」
子どもは首を傾げた。
「……また来る?」
「来ない」
「でも、忘れない」
子どもは、そう言って走って戻った。
夕方、風が変わった。
湿り気を帯び、雲が低い。
遠くで、鐘が鳴った。
一つ。
二つ。
誰が鳴らしたのか、分からない。
だが、それでいい。
鐘は、知らせるものだ。
命令ではない。
アッシュは、道を選ぶ。
次は、会計の残党が集まる街だ。
彼らは、必ず「再計算」を始める。
再計算は、必ず歪む。
それを、止める。
夜が来る。
静かではない夜。
それでも――
アッシュは歩く。
静かな夜を歩く者として。




