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静かな夜を歩く者  作者: 和泉發仙


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第四十話 帳は裂け、名は落ちる



帳塔の中の空気は、外よりも冷えていた。


石壁が温度を奪うのではない。

数だけが積み上がった空間が、人の熱を拒んでいる。


アッシュは刃を抜いたまま、動かなかった。

刃先は老人――帳守には向いていない。

向いているのは、塔の奥だ。


「……やめておけ」


帳守が、低く言う。


「ここで何かが壊れれば、

 止めていた流れが一気に溢れる」


「溢れさせる」


アッシュは答えた。


「溢れないように、

 ずっと誰かが沈められてきた」


帳守は、杖に体重を預けた。


「お前は、選別を否定している」


「違う」


アッシュは一歩、奥へ進む。


「押し付けを否定している」


棚が続く。

床から天井まで、隙間なく帳簿。

一冊一冊は軽い。

だが、積み上げれば重い。


それが、この塔だ。


「帳守」


アッシュは背を向けたまま言う。


「この塔で、一番古い帳簿はどれだ」


「……奥だ」


「なぜ奥に置く」


「更新されないからだ」


更新されない。

つまり、決まったままの数。


アッシュは奥へ向かった。

帳守は、止めなかった。


塔の最奥には、扉があった。

唯一、鍵のかかった扉。


「そこは――」


帳守が口を開きかけ、閉じた。


「……見るか」


扉の鍵は古い。

だが、手入れされている。


アッシュは刃の背で、鍵の芯を押した。

壊さない。

開ける。


重い音を立てて、扉が開く。


中は、狭い。

棚は三段だけ。

置かれている帳簿も、少ない。


だが――


「……名がある」


アッシュが呟いた。


帳簿には、名前が書かれていた。

古い文字。

だが、確かに名だ。


年齢。

職。

家族構成。

そして、最後に一言。


――処理済


「これは……」


「最初の帳だ」


帳守が言う。


「会計が、まだ“人”だった頃の」


アッシュは、ページをめくる。

名があり、事情があり、

そして処理理由がある。


理由は、今よりもずっと丁寧だ。

苦し紛れで、言い訳が多い。


「……人は、最初から怪物じゃない」


帳守の声は、わずかに震えていた。


「数にすれば、楽になる。

 だが、名を消すのは……時間がかかった」


アッシュは、帳簿を閉じた。


「なら、戻せる」


「戻れない」


帳守は即答した。


「ここまで来れば、戻るより壊す方が被害が大きい」


「壊す」


アッシュは言う。


「戻すために」


帳守は、しばらく黙っていた。

やがて、ゆっくりと口を開く。


「……どうやって」


アッシュは刃を、床に向けた。


「積み上げを、断つ」


刃が走る。


床に刻まれた溝。

溝は、塔の中心を貫いている。


「この塔は、下から上へ流れている」


帳守が息を呑む。


「帳簿は、下で整理され、

 上へ積まれる」


「つまり」


アッシュは言った。


「下を断てば、上は崩れる」


刃を、溝に沿って走らせる。

石が欠ける音。

低く、だが確実な音。


塔が、わずかに軋んだ。


「……止まれ!」


帳守が叫ぶ。


「今、更新が走っている!

 ここを断てば、

 未処理が一気に――」


「知っている」


アッシュは止まらない。


「だが、今も消えている」


刃が、最後の要石に届いた。


その瞬間。


――轟音。


塔全体が、揺れた。


棚が傾き、

帳簿が雪崩のように落ちる。


紙の音。

無数の紙の音。


帳守が、床に膝をついた。


「……ああ……」


塔の奥で、何かが止まった。


更新の気配が、消えた。


アッシュは、刃を収めた。


「……終わった」


帳守は、力なく笑った。


「……いや。

 始まっただけだ」


「分かっている」


アッシュは言う。


「だから、歩く」


帳守は、最後の力で立ち上がった。


「名を……残せ」


「残さない」


「では、私は」


「お前は、生きろ」


アッシュは言った。


「数を読める人間として」


帳守は、目を見開いた。


「……余りを、救う側に?」


「そうだ」


塔の外で、風が唸る。

夜が、動き出している。


アッシュは、塔を出た。


背後で、帳塔は崩れていない。

だが、動いていない。


それでいい。


数は止まった。

名は、これからだ。


次の夜へ。

混乱の夜へ。


それでも――

静かな夜を歩く者として。

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