第四話 青い紐の娘と、紙の裁き
街に入る前から、臭いで分かった。
焦げた油。湿った藁。古い木の壁。
それに混じる、甘い香の匂い。香は教会のものだ。だが、香が濃い街はだいたい、何かを隠している。
街道の先に見えたのは、低い城壁と、狭い路地が折り重なるような町並みだった。
屋根は黒ずみ、煙突は少ない。冬の前だというのに、家々から煙が上がらないのは、薪が足りないのか、煙を出せない理由があるのか。
門の札に街の名があった。
「ヴァルン」。
その下に、別の札が釘で打ち付けられている。新しい紙だ。インクがまだ濃い。
――夜間外出禁止。違反者は処罰。
――青い紐の娘に近づくな。病が移る。
「青い紐の娘」。
人名のようで、注意書きのようで、呪いのようだった。
アッシュは札を見上げ、門番の顔を見た。
門番は見返してこない。
視線を逸らし、ただ腕を伸ばす。通行税を取るだけの手。
アッシュは銅貨を渡し、街に入った。
石畳は荒れ、ところどころが泥で埋まっている。
店先の棚は空が多く、布屋の布も薄い。肉屋の看板は出ているが、匂いがない。――肉がないのだ。
人はいる。だが、声が少ない。
誰かが咳をすると、周囲が距離を取る。誰かが子どもを抱えると、別の誰かが顔を背ける。恐れが習慣になっている。
宿は一軒。看板の文字が剥げ、扉の蝶番が歪んでいた。
女将はやつれ、指先が赤い。洗い物をしすぎた手だ。
「泊まるのかい」
「一晩」
「……夜は外へ出ないで」
「外出禁止の札があった」
女将は頷く。頷きが重い。
「破ったら捕まる。捕まったら、紙に書かれる」
「紙に?」
女将は布巾を握り、声を落とした。
「この街には“裁き”があるのさ。剣じゃない。紙だよ。
名前を書かれたら終わり。あとは勝手に街が目を逸らす。誰も助けない」
紙の裁き。
つまり噂の制度化だ。誰かが言った話が、紙になった瞬間、正義になる。
アッシュは鍵を受け取った。
部屋は寒く、窓の隙間から風が入る。
彼は荷を置き、すぐに外へ出た。夜の外出はしない。だが、今はまだ夕方だ。夕方のうちに街の形を掴む。
広場に行くと、木の掲示板があった。
紙が何枚も貼られている。名前。罪。処罰。
盗み。浮浪。無許可の商い。夜間外出。教会への不敬。
紙の端には同じ印が押されていた。領主の印ではない。教会の印だ。
つまり裁いているのは教会だ。だが教会は直接手を下さない。街が手を下す。正義の分担。
掲示板の前に、細身の男が立っていた。
服は黒く、首元に小さな十字。司祭ではないが、教会の役人だろう。彼は人々の視線を浴びながら、紙を貼り替えている。手際が良い。罪が日常になっている手だ。
その近くに、青い紐が落ちていた。
布切れではない。髪を結ぶような細い紐。染めた藍の色。
アッシュがそれに目を留めた瞬間、背後から小さな声がした。
「それ、拾わないで」
振り向くと、少女が立っていた。
歳は十二か十三。髪は黒く、頬はこけ、目だけが大きい。首元には青い紐が結ばれている。噂の娘だ。青い紐の娘。
少女は一歩下がり、言った。
「拾ったって思われたら、あなたも紙に書かれる」
「紙に?」
少女は小さく頷いた。
「私に触れた人は、病が移るって。だから近づいた人は、みんな悪いって」
「本当に病か」
少女は答えない。答えられない。
病かどうかより、そう“書かれている”ことが現実なのだ。
アッシュは少女の手を見る。
指先が赤い。だが病の赤ではない。冷えと、洗い物の赤。つまり彼女は働いている。誰かのために。
「君はどこにいる」
少女は迷い、そして指差した。
広場の裏手の、古い倉庫。人が近づかない場所だ。
アッシュは少女に言った。
「今夜、外へ出るな」
少女は笑った。笑いというより、乾いた息。
「出たら捕まるから」
「明日も」
少女は首を振る。
「明日も同じ。ずっと同じ」
“ずっと同じ”。
それは絶望の言い方だ。子どもが使っていい言葉ではない。
アッシュは掲示板を見上げた。
紙の列。正義の列。
そこに書かれている罪の多くは、罪ではない。ただの貧しさだ。寒さだ。腹の減りだ。
(この街の夜は、紙で人を殺す)
夜になれば、誰かが誰かを追い出す。家から。店から。街から。
刃を使わず、人を消す。
アッシュは夜を待つことにした。
宿に戻り、部屋の灯りを落とす。
外から足音が聞こえる。一定の間隔。巡回だ。夜警ではない。教会の役人が雇った者たちだろう。
少しして、別の足音が混じる。
速い。焦っている。追われている。
窓の隙間から覗くと、路地を少年が走っていた。
後ろから二人の男。腕章。手に棒。棒で殴れば血が出る。だが剣ではない。剣なら責任が重い。棒なら“制裁”だ。
少年が転ぶ。
男が棒を振り上げる。
アッシュは外套を羽織り、扉を開けた。
夜間外出禁止。だが、彼は外へ出た。出なければ、この街の夜は静かにならない。
男が棒を振り下ろす瞬間、棒が空を切った。
男の手首が痺れたように力が抜ける。棒が石畳に落ちた。
男が振り向く。
「誰だ!」
アッシュは答えない。
暗がりのまま一歩近づき、男の肩を軽く押した。男はよろけ、壁に背を打つ。呻く前に、もう一人が突っ込んでくる。
その動きは荒い。恐れで振り回しているだけだ。
アッシュはその腕を取り、角度を変え、肘の手前を軽く叩く。音もなく、男は膝をつく。痛みで声が出ない場所だ。
少年は這いずりながら逃げようとする。
アッシュは少年の襟を掴み、静かに引き寄せた。
「声を出すな」
少年は震えながら頷いた。
男たちは怒鳴ろうとした。
だが、怒鳴る前に、アッシュが指を一本立てる。
静かにしろ、という合図。
不思議なことに、男たちはその合図に従った。
合図が効くのは、相手が恐れているからだ。恐れは服従に変わる。
アッシュは男たちの腕章を見る。
そこにも教会の印があった。つまり彼らは“正義の手”を名乗っている。
「誰の命令だ」
男の一人が唾を飲み、言う。
「……黒衣の役人だ。広場の掲示板の」
紙を貼っていた男だ。
アッシュは少年を立たせ、言った。
「家へ帰れ」
少年は首を振った。涙が滲んでいる。
「帰れない。紙に書かれた。盗んだって。俺は盗んでない。でも……」
紙に書かれたら終わり。
この街では、それが本当になる。
アッシュは少年を宿の裏へ連れていき、薪小屋の陰に隠した。
「ここにいろ。夜が明けるまで」
少年は頷いた。
彼の正義は、ただ生きることだ。
アッシュは広場へ向かった。
夜の広場は暗い。掲示板だけが灯りに照らされ、紙の白さが浮いている。白い紙が最も目立つ街。白が人を殺す街。
黒衣の役人は、掲示板の前にいた。
昼と同じ場所で、同じように紙を眺めている。まるで祈るように。
アッシュは暗がりから声をかけた。
「紙はよく働く」
役人は振り向き、アッシュを見て眉をひそめた。
「夜間外出禁止だ。名を名乗れ」
「名は要らない」
「なら賊だ。賊は紙に書く」
役人は懐から小さな帳面を出す。
小さな紙。小さな正義。
アッシュは役人に近づく。
役人は怯まない。紙を持つ者は、自分が守られていると思っている。
「お前は何を守っている」
アッシュが問うと、役人は即答した。
「秩序だ。この街には病がある。貧しさがある。賊がいる。
秩序がなければ、皆が死ぬ」
「秩序があれば、誰かが死ぬ」
役人は鼻で笑った。
「誰かが死ぬのは仕方ない。全員を救うなど、神でもできない」
その言葉は正しい顔をしていた。
正しい顔の言葉は、人を殺す。
アッシュは役人の帳面を見た。
紙に書くには、紙が要る。紙は高い。つまり、この裁きは金で回っている。金の出所はどこだ。献金か。税か。賄賂か。
アッシュは問う。
「青い紐の娘は、何をした」
役人の目が一瞬だけ揺れた。
触れてはいけない話題だ。触れた者が悪になる話題だ。
「触れるな。あれは病だ。あれに関わった者は――」
「病なら治す手がある。薬草も、酢も、布も。
だがこの街は煙を出さない。薪がないのではない。炊かせないのだ」
役人の唇が薄くなる。
「何が言いたい」
アッシュは答える代わりに、役人の足元を見た。
革靴が新しい。黒衣は古いのに靴だけ新しい。金の使い方が露骨だ。
「お前は秩序を売っている」
役人の顔が歪む。
「違う。私は秩序を――」
言葉が途切れる。
背後から、誰かの咳が聞こえた。
振り向くと、青い紐の少女が立っていた。
薄い外套を羽織り、震えながら広場に出てきている。夜間外出禁止なのに。つまり、彼女は捕まる覚悟で来た。
少女は言った。
「私、病じゃない」
役人が怒鳴る。
「近づくな! お前は――」
少女は一歩進み、首元の青い紐をほどいた。
そして、掲示板の前に置いた。青い紐はただの布だ。毒でも呪いでもない。
「私がいると、みんな怖がる。だから、あなたは紙に書いた。
『触れるな』って。『病』って。
でも私、ただの人だよ」
少女の声は小さい。
だが、広場は静かだから、よく響いた。
役人の顔色が変わる。
紙の正義が揺らぐ。
アッシュはその瞬間を逃さなかった。
役人の帳面に手を伸ばし、奪うのではなく、開く。頁をめくる。そこには、名前が並んでいる。罪の名目。処罰。
だが、いくつかの名前の横に小さな印がある。
その印は、金の印だ。払った者の印。払えば消える罪。払えなければ残る罪。
アッシュは帳面を役人に返した。
「秩序だと言ったな。なら、秩序は売り物ではないはずだ」
役人は帳面を握りしめ、怒りで震えた。
「黙れ! この街が崩れる!」
「崩れているのは、お前の紙だ」
役人は叫び、笛を吹いた。
遠くで足音が響く。棒を持った男たちが来る。
少女が身をすくめる。
アッシュは少女の肩に触れ、言った。
「逃げるな。今夜は、逃げない」
棒を持った男たちが広場に駆け込む。
役人が指をさす。
「捕まえろ! 二人ともだ! 紙に書け!」
男たちが突っ込む。
アッシュは前に出ず、少しだけ横へずれる。男の棒が空を切り、別の男に当たる。怒号が上がる。怒号は秩序を壊す。秩序が壊れれば、正義の顔が剥がれる。
アッシュは一人の足を払った。
倒れた男が別の男にぶつかり、二人が転ぶ。
その隙に、少女が叫ぶ。
「私、病じゃない! 触っても大丈夫!」
叫びは危険だ。だが、街の正義を動かすには、声が要る。
広場の端で見ていた女が、恐る恐る一歩出た。
彼女は少女に触れる。指先で袖を掴む。
何も起きない。倒れない。咳もしない。
女は驚き、周囲を見回した。
「……平気だよ」
その一言で、空気が変わる。
恐れは、確認で崩れる。
別の男が言う。
「病なら、触っただけで倒れるはずだろ」
「嘘だったのか」
「紙は……紙は誰が書いた」
視線が掲示板へ向く。
紙の白さが、今度は役人の首を絞める。
役人は叫ぶ。
「違う! 私は街を守って――」
だが、群衆の中から誰かが言った。
「守ったのはお前の靴だろ」
小さな笑いが起きた。
笑いは恐れを溶かす。恐れが溶けると、紙はただの紙になる。
その時、棒を持った男の一人が役人に言った。
「……俺たち、誰を殴ってるんだ」
役人は答えられない。
答えれば、自分の正義が崩れる。
アッシュは掲示板に近づき、紙を一枚剥がした。
剥がすだけで、街が息を呑む。
だが誰も止めない。
アッシュは紙を裂かなかった。燃やさなかった。
ただ、裏返して貼り直した。白い紙の裏。そこには何も書いていない。
白紙。
白紙が並ぶと、掲示板は“裁き”ではなく“空”になる。
空になった裁きは、人を縛れない。
役人は震え、後ずさった。
護衛役の男が彼を庇うように立つが、もう棒は振り上げない。
群衆が見ているからだ。見られている正義は弱い。
夜が明ける頃、広場には白紙の紙が何枚も貼られていた。
誰が貼ったのか分からない。
だが誰も、元に戻そうとしなかった。
アッシュは宿の裏へ戻り、少年を起こした。
「走れ」
「どこへ」
「家へ。まだ家があるなら、戻れ。
もし家がないなら――広場へ行け。白紙がある。紙がないなら、裁きもない」
少年は呆然とした。
だが、アッシュの目を見て頷いた。
アッシュは青い紐の少女を見た。
少女は夜を越えた顔をしていた。怖さは残っている。だが、目が逃げなくなっている。
「君はどうする」
少女は青い紐を拾い、首に結び直した。
「……ここにいる。逃げるだけだったけど、逃げない」
アッシュは頷き、外套の襟を立てた。
「なら、ここは少し静かになる」
少女は問い返した。
「あなたは、誰」
アッシュは答えない。
名を名乗れば、名が紙になる。紙になれば、誰かの正義に使われる。
彼はそれを望まない。
街門を出る。
朝の空気は冷たく、吐く息が白い。
ヴァルンの街は、まだ貧しい。
まだ病もある。
だが、少なくとも紙だけで人を殺す夜は、今夜から少し変わる。
アッシュは歩き出した。
次の街へ。次の夜へ。
静かな夜を歩く者として。




