第三十八話 消去命令と、名前のない夜
夜は、境界を消す。
街道と野、村と森、人と影。
すべてを同じ色に塗り潰し、区別を奪う。
アッシュはその夜、街道を外れなかった。
外れれば、会計が敷いた線の内側に入る。
内側は、罠だ。
北の空に、雲が垂れている。
雨は降らない。
降らないが、空気が重い。
(来る)
確信に近い予感だった。
遠くで、蹄の音。
一頭、二頭ではない。
だが軍でもない。
数を誤魔化した音だ。
街道脇の古い里程標の陰に身を寄せる。
隠れるというより、混ざる。
里程標は人の手が入る場所だ。
誰も注目しない。
やがて、影が現れた。
六人。
全員、外套。
武器は統一されていない。
これは兵じゃない。
処理班だ。
先頭の男が立ち止まり、地面を見た。
「……足跡は、消えている」
別の男が言う。
「誘導だ。
だが、逃げてはいない」
「なぜ分かる」
「逃げるなら、もっと乱れる」
アッシュは、わずかに口角を下げた。
(よく見ている)
処理班は、街道を挟んで散開した。
挟撃ではない。
包囲でもない。
消去の配置だ。
先頭の男が、低く言う。
「アッシュ。
ここまでだ」
名を呼ぶ。
だが、呼び方に感情が無い。
呼称としての名だ。
アッシュは里程標の影から出た。
「誰の命令だ」
「会計全体」
男は即答した。
「エリアスは」
「権限を外された」
一瞬の情報。
だが十分だ。
(会計は、個人を切った)
エリアスは、保留を選んだ。
だから切られた。
「条件は」
アッシュが問う。
「無い」
男は答える。
「消去だ」
「理由は」
「仕組みが、遅れた」
それだけだ。
アッシュは、外套の内側に手を入れた。
刃ではない。
小さな布袋。
男が目を細める。
「毒か」
「眠りだ」
「意味がない」
「ある」
アッシュは布袋を地面に落とし、踏み砕いた。
粉が舞う。
無色。
無臭。
処理班が一斉に距離を取る。
だが、遅い。
「……っ」
一人が膝をつく。
もう一人が壁に手をつく。
即効性はない。
だが、判断力を奪う。
「殺さない気か」
男が言う。
「殺すと、帳簿が増える」
アッシュは言った。
「お前らは、消去係だ。
事故は嫌いだろう」
男は、苦く笑った。
「……厄介だ」
残った三人が、短剣を抜く。
距離を詰めない。
投擲だ。
アッシュは前に出た。
逃げない。
詰める。
刃が飛ぶ。
二本。
アッシュは、外套の裾を翻し、刃を絡め取る。
金属音は立てない。
布が吸う。
一人が踏み込む。
力任せ。
アッシュは肘を合わせ、相手の力を下へ逃がす。
膝が地面に落ちる前に、首筋に指。
圧迫。
数秒。
男は崩れ落ちる。
残る二人が、距離を取る。
だが、もう遅い。
判断が鈍っている。
アッシュは地面の石を蹴り上げ、灯りに当てた。
灯りが割れ、闇が落ちる。
闇の中で、音だけが動く。
短い衝突。
布が擦れる音。
息が詰まる音。
やがて、音が止んだ。
六人は、倒れている。
全員、生きている。
アッシュは息を整え、立ち上がった。
背後から、声。
「……見事だ」
エリアスだった。
一人で立っている。
「切られたはずだ」
「切られた」
エリアスは頷く。
「だから、ここにいる」
「どういう意味だ」
「会計は、私を余りにした」
余り。
また、その言葉。
「なぜ来た」
「知らせに」
エリアスは言った。
「消去命令は、あなた一人じゃない」
「誰だ」
「起点に関わった者すべて」
ノア。
ミレイ。
村長たち。
「……どこまで」
「可能な限り」
エリアスは、視線を逸らした。
「会計は、人をやめた」
「最初から、人じゃない」
「違う」
エリアスは言う。
「人だったから、ここまで来た」
沈黙。
「止める方法は一つだ」
エリアスが続ける。
「会計の“核”を、表に出す」
「核は、分散している」
「していない」
エリアスは、懐から紙を出した。
古い地図。
だが、線が新しい。
「ここだ」
指差す先。
北の古城跡。
「名は」
「帳塔」
帳簿を積むための塔。
噂だけの場所。
「行けば、戻れない」
「知っている」
アッシュは答えた。
「だが、行く」
エリアスは、わずかに笑った。
「……あなたは、正義じゃない」
「知っている」
「英雄でもない」
「知っている」
「それでも、行くのか」
アッシュは言った。
「誰かが行かないと、
名前が全部消える」
夜が、静まり返る。
処理班の一人が、呻いた。
目を覚ましたのだ。
「……怪物め」
アッシュは、その男を見た。
「怪物は、帳簿の中にいる」
そう言って、背を向ける。
北へ。
帳塔へ。
次の夜は、静かじゃない。
それでも――
歩く。
静かな夜を歩く者として。




