第三十七話 壊れたあとの沈黙と、選ばれなかった名
北街道の囲い地を離れたあと、
アッシュはしばらく歩かなかった。
歩けば、夜が進む。
夜が進めば、次の帳尻が動く。
だから彼は、街道から少し外れた窪地に腰を下ろし、
夜が「追いついてくる」のを待った。
風が吹く。
乾いた草が擦れ、低い音を立てる。
遠くで、荷車の軋む音が一度だけ聞こえ、消えた。
回収所が閉じられた夜は、
必ずどこかで代替が起きる。
それはもう、経験則だった。
(来るなら、静かだ)
足音は無い。
代わりに、空気が変わる。
人が増えると、匂いが増える。
汗、油、革。
だが今、増えたのはそれではない。
整えられた空気だ。
背後から、声。
「……やはり、止まっていたか」
エリアスだった。
一人だ。
「随行はいないのか」
アッシュは振り返らずに言った。
「必要ない」
エリアスは答える。
「ここから先は、記録に残らない」
それは、脅しではなかった。
確認だった。
「帳簿は、どこへ行った」
「分散した」
エリアスはアッシュの隣に立ち、同じ方向を見る。
「北街道の回収は止まった。
だが、その分は南と西に流れる」
「犠牲は」
「増えない」
「嘘だ」
エリアスは、少し間を置いてから言った。
「……増えないように、調整する」
調整。
また、その言葉。
「今夜、村が一つ消える」
アッシュが言う。
エリアスは、答えなかった。
否定もしない。
「どこだ」
「……名は無い」
エリアスは、ゆっくりと言った。
「地図にも、帳簿にも、正式には存在しない」
「余りか」
「余りだ」
その言葉が、夜に落ちる。
「お前は、どこまで知っている」
アッシュが問う。
「必要な分だけ」
「必要とは」
「仕組みを維持する分だけ」
アッシュは立ち上がった。
「案内しろ」
「止める気か」
「確認だ」
「確認して、どうする」
「必要なら、壊す」
エリアスは笑わなかった。
「……あなたは、自分が何を壊しているか分かっているのか」
「分かっている」
アッシュは答えた。
「だから、歩いている」
二人は並んで歩いた。
街道ではなく、獣道を。
夜が深まり、星が見えなくなる。
雲が出てきた。
やがて、低い丘の向こうに、灯りが見えた。
小さく、弱い。
村だ。
近づくと、分かる。
音が少なすぎる。
人の気配はある。
だが、動きが無い。
家々の前に、人が立っている。
皆、外套を着ている。
武器は無い。
だが、目は覚悟している。
「……自発的だ」
エリアスが言う。
「回収を、受け入れている」
アッシュは、村の中央に立つ老人を見た。
杖を持ち、背を伸ばしている。
「なぜだ」
「理由がある」
エリアスは言う。
「この村は、数年前に疫病を免れた」
「誰のおかげだ」
「分からない」
分からない。
だから、帳尻を合わせる。
アッシュは、老人の前へ進んだ。
「誰を出す」
老人は、アッシュを見た。
恐れは無い。
「……三人だ」
「理由は」
「働けない」
「それだけか」
老人は、頷いた。
「それだけで、十分だ」
アッシュは、三人を見る。
老女一人。
若い男一人。
そして、少女。
少女は、アッシュと目が合い、すぐに逸らした。
逸らし方が、慣れている。
(もう、決まっている)
「止めるな」
老人が言った。
「これは、我々の選択だ」
「違う」
アッシュは低く言った。
「これは、追い込まれた結果だ」
老人は杖を握りしめる。
「結果でも、選択だ」
その言葉は、重い。
エリアスが一歩前に出た。
「手続きに入る」
村人たちが、三人の周囲に立つ。
円を描くように。
アッシュは、その円の中へ入った。
「今夜は、止めない」
村人たちがざわめく。
「だが、一つだけ聞く」
アッシュは、少女を見る。
「行く前に、名を言え」
少女は、戸惑い、老人を見る。
老人は、頷いた。
「……ミレイ」
小さな声。
「覚えておけ」
アッシュは言った。
「誰かに呼ばれた名を」
ミレイは、唇を噛み、頷いた。
「行くな、とは言わない」
アッシュは続ける。
「だが、戻れ」
老人が、怒鳴る。
「戻れるわけがない!」
「戻れる」
アッシュは言った。
「仕組みが壊れればな」
エリアスが、静かに言う。
「……今夜は、連れて行かない」
村人たちが、息を呑む。
「代わりに、記録だけ残す」
アッシュがエリアスを見る。
「何をする気だ」
「“未回収”として、保留する」
それは、会計にとって異例だ。
保留は、責任になる。
「なぜだ」
エリアスは、ミレイを見た。
「名を呼ばれたからだ」
沈黙。
名を呼ばれる。
それは、人として記録されるということだ。
老人が、崩れるように座り込んだ。
「……助かった、のか」
「まだだ」
アッシュは言う。
「これは、猶予だ」
村の灯りが、少し明るくなった。
誰かが、戸を開けたのだろう。
夜が、わずかに動いた。
村を離れる道すがら、エリアスが言った。
「あなたは、全部は救えない」
「知っている」
「それでも、歩くのか」
アッシュは答えた。
「救えない数を、減らすために」
エリアスは、立ち止まった。
「……会計は、あなたを消したがっている」
「知っている」
「次は、もっと露骨だ」
「それでいい」
アッシュは言う。
「露骨な方が、刃は届く」
夜が、再び静かになる。
起点は、まだ残っている。
だが、仕組みは確実に遅れ始めている。
次の夜へ。
消される前の夜へ。
静かな夜を歩く者として。




