第三十四話 平穏の形と、刃が届かない距離
昼の道は、夜よりも残酷だ。
夜は隠せる。
昼は、隠したものを照らす。
アッシュは街道を外れ、畑の間を歩いた。
畝の間に溜まる湿った土は、靴底に絡みつく。
足跡は残るが、すぐに崩れる。
人の手が入る土地は、痕跡を嫌う。
遠くに、鐘の音が聞こえた。
短く、穏やかな音。
警告ではない。
日常を区切るための音だ。
村が見えた。
名は リューベン村。
小さく、よく整っている。
家々の壁は塗り直され、道端の溝も掃除されている。
(ここは、よく“回っている”)
門は無い。
検めも無い。
だが、入った瞬間に分かる。
この村は、外から来た者を“見る”。
畑仕事をしていた女が、鍬を止める。
井戸端の男が、会話を切る。
子どもが、母親の背に隠れる。
敵意ではない。
秩序だ。
宿は無かった。
代わりに、共同の集会所がある。
「泊まりか?」
声をかけてきたのは、年配の男だった。
背は低いが、姿勢がいい。
名を ハインリヒ と名乗った。
「一晩だけ」
「理由は」
「通過だ」
「……通過者は、少ない」
ハインリヒは少し考え、頷いた。
「なら、規則を守れ」
「何だ」
「夜は、鐘が鳴ったら外に出るな」
「なぜ」
「外に出る必要が、無いからだ」
必要が無い。
その言い方が、耳に残る。
集会所は清潔だった。
床板は擦り切れているが、補修されている。
壁に掲示された紙は、すべて手書きだ。
――当番
――配給
――見回り
見回り、という文字があった。
「見回りは、誰が」
アッシュが聞くと、ハインリヒは即答した。
「皆だ」
「皆?」
「皆が、皆を見る」
夜。
鐘が鳴る。
短く、三度。
村は一斉に静まった。
灯りが落ち、戸が閉まる。
アッシュは集会所の窓から外を見る。
人影が動いている。
一人、二人。
剣も棍も持たない。
手にあるのは、ランタンだけだ。
(武器を持たない見回り)
強い。
そして厄介だ。
夜半、足音が止まった。
代わりに、話し声がする。
小さく、だが途切れない。
アッシュは外に出ない。
出れば、秩序を破る。
破った瞬間、この村は“敵”になる。
夜明け。
村は何事もなかったように動き出す。
畑に人が出て、井戸に人が集まる。
ハインリヒが、パンを持ってきた。
「朝食だ」
「礼を言う」
「礼は要らん」
ハインリヒは座り、しばらく黙ってから言った。
「昨夜、何か聞いたか」
「人の声を」
「何を話していた」
「内容までは」
ハインリヒは、ほっとしたように息を吐く。
「なら、いい」
その反応で、十分だった。
昼過ぎ、村に一人の女が入ってきた。
よく整った外套。
歩き方が、村人ではない。
彼女は集会所へ向かい、ハインリヒと話す。
遠目でも分かる。
村長に対する、報告の姿勢だ。
(会計の手だ)
女は滞在せず、すぐに去った。
だが、村の空気が変わる。
微妙に、張り詰める。
夕方、ハインリヒがアッシュを呼んだ。
「話がある」
集会所の奥。
長机を挟んで、三人の村人が座っている。
「この村には、困ったことがない」
ハインリヒが言う。
「盗みも、殺しも、争いも」
「それは珍しい」
「珍しいが、嘘ではない」
一人の女が口を開く。
「でも、外は違う」
「外は、回収される」
別の男が言った。
「だから、ここは守らなければならない」
アッシュは、理解した。
この村は、会計と取引している。
担保を差し出す代わりに、平穏を買っている。
「担保は、何だ」
沈黙。
ハインリヒが答えた。
「……余りだ」
また、その言葉。
「余った者を、外へ出す」
「回収所へ?」
「そうだ」
「昨夜、声がしたのは」
ハインリヒは目を伏せた。
「……出る者の、話だ」
「止めないのか」
「止めれば、秩序が崩れる」
秩序。
便利な言葉だ。
「誰が、余りを決める」
「皆だ」
ハインリヒは繰り返す。
「皆が、皆を見る」
アッシュは立ち上がった。
「俺は、この村を壊しに来たわけじゃない」
「なら、何を」
「確認だ」
アッシュは言う。
「ここが“起点”かどうか」
三人は顔を見合わせた。
「起点?」
「回収所に人を送る流れ。
それを自然に見せている場所」
沈黙が重くなる。
外で、鐘が鳴った。
昼の鐘だ。
「今夜、また鐘が鳴る」
アッシュは続ける。
「その時、外に出る者は?」
ハインリヒは、しばらく考え、答えた。
「……少年が一人」
「理由は」
「働けない」
「病か」
「違う。
“皆と違う”」
その瞬間、アッシュは理解した。
ここが起点だ。
刃の届かない距離で、選別が行われている。
「今夜、外に出すな」
アッシュが言う。
「できない」
「できる」
「秩序が……」
「壊れるのは、秩序じゃない」
アッシュは低く言った。
「嘘だ」
夜。
鐘が鳴る。
村は静まる。
だが、今夜は違う。
集会所の外に、人が集まっている。
皆、ランタンを持っている。
中央に、少年が立っていた。
俯いている。
ハインリヒが言う。
「時間だ」
アッシュは一歩、前に出た。
「待て」
村人たちの視線が集まる。
「この少年は、担保じゃない」
「なら、何だ」
「村の一部だ」
誰かが言う。
「違う。
皆と違う」
「違うから、必要だ」
アッシュは言った。
「違わない者だけの村は、死ぬ」
ざわめき。
ランタンの光が揺れる。
ハインリヒが声を荒げる。
「外は、危険だ!」
「知っている」
「なら、なぜ!」
「危険を外に押し出して、
平穏を買うのは、取引だ」
アッシュは言う。
「取引には、相手がいる。
相手は、必ず値を上げる」
沈黙。
遠くで、犬が吠えた。
「今夜、送らなければ、どうなる」
ハインリヒが問う。
「何も起きない」
アッシュは答えた。
「少なくとも、今夜は」
「……明日は?」
「分からない」
正直な答えだった。
村人たちは迷う。
秩序は、選択を嫌う。
その時、誰かが言った。
「……やめよう」
女だ。
畑で鍬を振っていた女。
「一晩だけ、やめよう」
別の声。
「……確かめよう」
ランタンが、次々に下ろされる。
ハインリヒは、長く息を吐いた。
「……今夜は、送らない」
少年が顔を上げ、涙を零す。
その瞬間、アッシュは感じた。
村の外で、気配が動いた。
(来る)
会計は、結果を見に来る。
だが、今夜はまだ、刃を振らない。
アッシュは背を向ける。
「俺は、通過者だ」
ハインリヒが問う。
「また、来るのか」
「来ない」
アッシュは言った。
「だが、今夜の選択は残る」
村を出ると、夜風が冷たい。
起点は、壊れなかった。
だが、揺れた。
それで十分だ。
次の夜へ。
さらに深い起点へ。
静かな夜を歩く者として。




