第三十三話 起点へ向かう道と、消えなかった足音
森は、音を返さない。
葉擦れも、獣の気配もあるはずなのに、夜気に溶けて消える。
回収所を離れてから、アッシュは何度も足を止め、耳を澄ませた。
だが聞こえるのは、少年の荒い呼吸と、自分の靴が踏みしめる土の音だけだった。
追ってきてはいない。
少なくとも、今は。
「……ぼく、足手まといですか」
少年が、ようやく口を開いた。
声は小さい。だが、逃げ場を探す声ではない。
答えを欲しがる声だ。
「違う」
アッシュは歩調を変えずに言う。
「足手まといは、置いていかれる」
少年は少しだけ安堵したように息を吐いた。
その息が夜に白く浮かび、すぐに消える。
「名前は」
「……ノア」
迷いがあった。
だが嘘ではない。
「覚えておけ」
「何を?」
「自分の名前を、いつ呼ばれたか」
ノアは不思議そうに首を傾げた。
「今です」
「それでいい」
名前を呼ばれた瞬間、人は一度、世界に戻る。
アッシュはそういう場面を、何度も見てきた。
森を抜けると、道が現れた。
舗装はされていないが、轍が多い。
荷車が通る道だ。
街道の外れに、小さな祠があった。
石は崩れ、屋根も半分落ちている。
だが、灯りが一つだけ残っていた。
アッシュは立ち止まる。
「休む」
「追ってこないんですか」
「来るなら、もう来ている」
ノアは祠の中に入り、膝を抱えた。
体が震えている。寒さではない。
逃げ切った直後の反動だ。
アッシュは外で火を起こさない。
代わりに、祠の灯りを少しだけ庇うように位置を変えた。
光は遠くへ届かない。
それでいい。
「……どうして、助けたんですか」
ノアの問いは、単純だった。
だから、答えは難しい。
アッシュは少し考え、言った。
「助けていない」
「え……」
「回収しただけだ」
ノアは唇を噛んだ。
「回収って……物みたいだ」
「物として扱われていた」
アッシュは淡々と続ける。
「なら、物として取り戻すのが一番早い」
ノアは黙った。
理解しきれないが、否定もしない。
その態度が、彼をここまで生かしてきた。
夜が深まるにつれ、森の匂いが変わった。
湿り気が増し、土が冷える。
夜明けは近い。
(次は、起点)
エリアスの言葉が、脳裏を掠める。
――お前の起点を回収する。
起点。
それは場所ではない。
人だ。
「ノア」
「はい」
「明日、分かれる」
ノアが顔を上げた。
「……置いていくんですか」
「置かない」
「じゃあ」
「道を、分ける」
アッシュは言う。
「同じ方向に行けば、また回収される」
ノアは必死に考え、言った。
「ぼく、強くなれますか」
問いは、あまりにも真っ直ぐだった。
「なれる」
アッシュは即答した。
「生き延びたからな」
それは慰めではない。
事実だ。
夜明け前、二人は祠を出た。
霧が出ている。
霧は視界を奪うが、音も奪う。
分岐で、アッシュは立ち止まった。
左は街道。
右は森へ戻る細道。
「右へ行け」
「あなたは?」
「左だ」
ノアは迷ったが、頷いた。
「……名前、もう一度聞いていいですか」
アッシュは一瞬、答えを迷った。
名は、追跡の糸になる。
だが、名を与えない別れは、時に人を縛る。
「アッシュ」
ノアは、その名を胸に刻むように、小さく頷いた。
「生きろ」
それだけ言って、アッシュは背を向けた。
霧の中、足音が二つに分かれる。
片方は消え、片方は続く。
アッシュは街道を歩きながら、自分の影を見た。
影は、朝の光で薄くなっている。
だが、消えてはいない。
(まだ、終わっていない)
昼前、小さな村に入る。
名は グラーフェン村。
農村で、交易路から少し外れている。
掲示板に、見慣れた文言があった。
――回収協力者募集
――不審者情報あり
文言は違う。
だが、骨組みは同じだ。
アッシュは宿に入らず、井戸端で水を飲んだ。
村人たちの視線が集まる。
だが、恐怖ではない。
期待だ。
(使われる)
会計は、恐怖だけでは動かない。
期待を混ぜる。
「旅の方」
声をかけてきたのは、村長だった。
痩せているが、目が鋭い。
「少し、お話を」
「要件は」
「この村に、困った者がいる」
アッシュは分かっていた。
困った者とは、使える者の言い換えだ。
「詳しく」
村長は言葉を選ぶ。
「……盗みを働く者です。
夜に現れ、家畜を」
「捕まえればいい」
「捕まらない」
「理由は」
「……皆、どこかで知っている」
知っている。
つまり、村の誰かだ。
「回収所の噂は?」
村長は一瞬、目を伏せた。
「……あります」
「協力しているか」
沈黙。
アッシュはそれ以上、問わなかった。
答えは出ている。
「俺は、その者を殺さない」
村長が顔を上げる。
「では、意味が……」
「ある」
アッシュは言う。
「回収所が嫌う結果を出す」
夜。
村は静まり返った。
家畜小屋の近くで、気配が動く。
若い男だ。
痩せている。
盗み慣れているが、殺し慣れていない。
アッシュは背後から声をかけた。
「やめろ」
男は振り返り、短刀を抜く。
だが、構えが甘い。
「来るな!」
「来ない」
アッシュは動かない。
「逃げろ」
男が混乱する。
「なぜ……」
「回収されるぞ」
男の目が見開かれる。
「……あんた、何者だ」
「通過者だ」
アッシュは言う。
「だが、ここで通す」
男は震えながら、短刀を落とした。
「……行け」
男は逃げた。
森へ。
街道とは逆だ。
翌朝、村は騒がなかった。
盗みは止まり、血も出ていない。
村長がアッシュに銀貨を差し出す。
「受け取れ」
「いらない」
「だが……」
「回収所に知らせるな」
村長は迷い、そして頷いた。
「……分かった」
アッシュは村を出る。
背中に、視線を感じる。
だが、追ってはこない。
(小さな起点)
会計が言った起点は、もっと大きい。
だが、こうした小さな起点が、線になる。
歩きながら、アッシュは理解する。
自分はもう、
誰かを消すためだけに歩いてはいない。
それでも、暗殺者であることは変わらない。
変わらないからこそ、選ばなければならない。
次の夜へ。
起点へ近づく夜へ。
静かな夜を歩く者として。




