第三十一話 語られる名と、作られた怪物
街に入る前から、違和感はあった。
人が多い。
多いが、流れていない。
まるで誰かが配置したように、均等だ。
名は カールスブルク。
丘の上に築かれた城塞都市で、軍と教会が同じ門を使う。
秩序の街。
秩序は、人を守るが、同時に人を縛る。
門前での検めは厳しかった。
名、所属、来訪理由。
アッシュは名を言わない。
だが今回は、言わなくても通された。
門番が紙を見て、顔を上げる。
「……通れ」
疑問は無い。
疑問が無いのが、最も不気味だった。
街に入ると、すぐに分かる。
噂が完成している。
人々は、視線を逸らす。
あるいは、興味深そうに見る。
どちらも、同じだ。
広場の掲示板。
紙が何枚も重ねて貼られている。
――暗殺者アッシュ
――秩序を壊す者
――街を混乱させる影
――正義の敵
読み終える前に、次の紙が目に入る。
――目撃情報
――背が高い
――黒衣
――刃を使う
――夜に現れる
雑だ。
だが、雑で十分だ。
人は、雑な像ほど信じる。
(……俺は、もう人じゃない)
アッシュは理解した。
会計は、彼を概念にした。
宿に入る。
帳場の女が、彼を一目見て固まった。
「……泊まりですか」
「一晩」
「……前金で」
銀貨を置く。
女は受け取り、何も言わず鍵を渡す。
部屋は二階。
窓から広場が見える。
夜。
広場に人が集まり始めた。
松明。
演壇。
誰かが“話す”準備をしている。
アッシュは外套を羽織り、降りる。
止める理由はない。
聞く必要がある。
演壇に立ったのは、司祭だった。
若いが、声がよく通る。
「市民諸君!」
拍手。
拍手が起きる時点で、仕込みだ。
「近頃、我らの街道に災いが増えている。
名も無き暗殺者。
秩序を乱し、取引を壊し、記録を歪める者!」
司祭は、アッシュの名を呼ばない。
だが、皆が誰のことか知っている。
「彼は正義を語らぬ!
だからこそ危険だ!
正義を語らぬ者は、何でもする!」
群衆がざわめく。
不安は、言葉を与えられると増幅する。
「我々は、秩序を守らねばならない。
記録を、取引を、選別を!」
選別。
その言葉が、刺さる。
司祭が手を挙げる。
「今夜、我々は“秩序の網”を張る。
影を捕らえ、朝日と共に裁く!」
拍手。
歓声。
アッシュは人混みの中で、静かに息を吐いた。
(来たな)
網とは、街全体だ。
逃げ場は無い。
逃げる気もない。
その夜、鐘が鳴った。
一度。
二度。
外に出ると、街路に兵が配置されている。
交差点ごとに、松明。
路地にも、人。
誰かが叫ぶ。
「見たぞ!」
指が向けられる。
だが、誰も近づかない。
近づくのは、兵だけだ。
「止まれ!」
止まらない理由はない。
止まる。
「名を名乗れ」
「名は、もうあるだろう」
兵が眉をひそめる。
「……アッシュか」
「そう呼ばれている」
兵たちが一斉に動く。
包囲。
だが、剣は抜かれない。
捕縛だ。
見せしめが目的だ。
アッシュは動かない。
ここで刃を振れば、噂が完成する。
「抵抗しろよ」
誰かが言う。
「影だろ?」
アッシュは、その声を見る。
若い男。
興奮している。
「影は、光があって初めて生まれる」
アッシュが言う。
「お前たちが光だ」
兵が一瞬、戸惑う。
台本に無い言葉だ。
その隙に、女が前に出た。
司祭の背後にいた女。
会計の使いだ。
「捕らえなさい」
命令。
兵が一歩踏み込む。
その瞬間、
別の声が上がった。
「待て!」
群衆の中から、老人。
職人だ。
「昨日、倉庫の帳簿が直った。
誰かが直した。
それは災いか?」
ざわめき。
別の声。
「畑の名札が戻った街がある!」
「証人が消えた街では、誰も死ななかった!」
小さな声。
だが、確実に拾われる。
会計は、完全には塞げなかった。
アッシュの“結果”は、すでに広がっている。
司祭が声を荒げる。
「それでも!
彼は秩序を壊す!」
アッシュは一歩前に出た。
「違う」
静かな声。
だが、広場に届く。
「壊れた秩序を、止めただけだ」
司祭が叫ぶ。
「聞くな!
彼は影だ!」
「影は、お前たちが作った」
アッシュは言った。
「俺は、名を売っていない。
正義を売っていない。
だから怖いんだろう」
沈黙。
会計の女が歯を噛む。
(まずい)
網が、ほつれ始めている。
「捕らえろ!」
再び命令。
だが、兵の一人が動かない。
「……罪状は?」
司祭が詰まる。
「秩序破壊だ!」
「具体的には?」
沈黙が、広がる。
具体性を求める声は、秩序の敵だ。
だが、一度出た声は、消せない。
会計の女は判断する。
「撤退!」
兵が下がる。
司祭は呆然と立ち尽くす。
群衆がざわめく。
誰も拍手しない。
夜が、静かに戻る。
アッシュは背を向け、歩き出す。
追う者はいない。
(会計が、焦っている)
思想を使い始めた時点で、
会計は“人を管理する段階”を越えた。
それは、終わりの始まりだ。
街を出る門で、門番が言った。
「……気をつけろ」
「何を」
「語られすぎると、
人は、事実を忘れる」
「知っている」
アッシュは答えた。
「だから、歩く」
次の街へ。
次の夜へ。
静かな夜を歩く者として。




