第三十話 別れの成立と、追う者の焦り
夜明け前の川は、色が無い。
水面は空を映さず、ただ流れる。
流れは記録を残さない。
だから、人は昔から川に祈った。
アッシュは川沿いを歩き、足跡を消した。
走らない。
急がない。
だが、迷いも無い。
リディアは、人混みに溶けた。
それでいい。
溶けたものは、拾えない。
(これで、彼女は“運ばれない”)
だが、安心はしない。
会計は必ず、代替の方法を探す。
探すために、街を壊すことも厭わない。
街外れの礼拝堂に入る。
小さく、古い。
神の名は書かれていない。
名が無い祈りは、管理されにくい。
椅子に腰を下ろすと、背後で扉が鳴った。
「……やはり、ここにいた」
低い声。
女だ。
昨夜の会計の使い。
アッシュは振り返らない。
「用件は」
「確認よ」
女は一歩、距離を詰める。
「あなたは、担保を失った。
それでも歩く?」
「歩く」
即答だった。
「愚かね」
「知っている」
女は鼻で笑う。
「あなたは強い。
だが、もう“孤独”じゃない」
「違う」
アッシュは言う。
「孤独に戻っただけだ」
女は一瞬、言葉に詰まる。
「……彼女は、あなたを選んだ」
「違う」
アッシュは立ち上がり、初めて女を見る。
「彼女は、自分を選んだ」
その目に、揺らぎは無かった。
女は息を吐く。
「なら、取引は破綻ね」
「最初から成立していない」
「なら――」
女は指を鳴らす。
外で、音。
馬の蹄。
複数。
街の兵ではない。
傭兵だ。
「この街は、あなたを守らない」
「街に期待していない」
アッシュは言った。
「期待するのは、人だけだ」
扉が開き、男たちが入ってくる。
鎧は軽い。
刃は実用的。
数は五。
殺す気だ。
捕縛ではない。
「終わりよ、アッシュ」
女が言う。
「ここで伝説になる」
「ならない」
アッシュは一歩、前に出た。
「伝説は、語られる。
俺は、語らせない」
最初の男が踏み込む。
速い。
だが、直線だ。
アッシュは半歩ずらし、刃を外す。
外した刃は、礼拝堂の柱に当たる。
火花。
音。
音は、意図的だった。
「何だ!」
外から声。
町人だ。
誰かが、異変に気づいた。
アッシュは次の男の膝を打つ。
折らない。
使えなくする。
三人目が距離を取る。
弓を構える。
アッシュは床の燭台を蹴る。
灯りが倒れ、影が乱れる。
影が乱れれば、狙いは鈍る。
矢が放たれる。
壁に刺さる。
その間に、アッシュは女の前に出た。
刃を突きつける。
「命令を出すな」
「……殺せばいい」
女は強がる。
「そうすれば――」
「お前が“記録”になる」
アッシュは低く言う。
「会計は、自分の記録を嫌う」
女の瞳が揺れる。
「……撤退」
短い命令。
傭兵たちは舌打ちしながら引いた。
金で動く者は、損な戦いをしない。
礼拝堂に、静けさが戻る。
女はアッシュを見る。
「あなたは、本当に厄介」
「昔からだ」
「……次は、あなたの“過去”を使う」
「使えるなら、使え」
アッシュは答える。
「俺は、過去に住んでいない」
女は去った。
扉が閉まる。
アッシュは、しばらく動かなかった。
心拍が落ち着くのを待つ。
戦いの後は、判断を誤りやすい。
外に出ると、空が白み始めていた。
(別れは、成立した)
だが同時に、理解している。
会計は、次の段階へ進む。
――人ではなく、思想を使ってくる。
街を離れる前、アッシュは掲示板を見る。
新しい紙が貼られていた。
――流浪の暗殺者に注意
――名は不明
――各地で混乱を引き起こす
笑えない冗談だ。
(始まったな)
歩く。
次の街へ。
今度は、
アッシュ自身が“題材”になる街だ。
次の夜へ。
静かな夜を歩く者として。




