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静かな夜を歩く者  作者: 和泉發仙


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第三話 橋の街で、通行税は刃になる


川は国境ではない。

だが、川に橋が架かると、そこに境目が生まれる。


サン・エルミナを出て二日。アッシュが辿り着いたのは、石橋が一本だけ街道を繋ぐ小さな街だった。家々は橋の両側に寄り添うように並び、荷車は必ずその橋を通る。通らなければ迂回は三日。商人も巡礼も、荷運びも、皆が橋に集まる。


街の名は「ブラウント」。


門の代わりに、橋の手前に柵があり、腕章を巻いた男たちが立っていた。槍を持ち、革の胸当てをつけ、足元だけが妙に新しい。軍人というより、雇われ者の装いだ。


「通行税だ。歩きは銅貨一枚、荷車は二枚。馬は別だ」


男が言う。声は大きく、慣れている。言い慣れた命令は、それだけで正しそうに聞こえる。


アッシュは外套の内側から銅貨を一枚出し、黙って差し出した。男は受け取り、目を細める。


「旅人か。……妙に静かだな」


「通るだけだ」


「ここは通るだけじゃ済まないことがある。まあいい。行け」


通される。だが、通された瞬間に気づく。

橋の向こうの空気が違う。


人々の視線は橋へ釘付けで、通る者を見ているのではない。通る者が何か起こさないかを見ている。子どもは広場で遊ばず、犬の吠え声も少ない。荷車の車輪の音だけがやけに大きく響いた。


(ここは、昼から締め付ける街だ)


宿へ向かう途中、広場を横切ると、木の掲示板に新しい紙が貼られていた。領主の印ではない。見慣れない家紋と、乱暴な筆跡。


――通行税は街の安全のため。逆らう者は賊とみなし処罰する。


賊。便利な言葉だ。

賊と呼べば、誰を叩いても正義になる。


アッシュは宿に入った。

女将は客の顔色を見て話を変えるような手練れではないが、目の奥が固い。


「部屋は空いてる。夜は外へ出ないで」


「夜警がいるのか」


女将は一瞬だけ眉を動かし、首を振った。


「夜警じゃないのがいる。橋の番人たちが、夜も歩く」


「領主の兵ではない?」


「違う。あれは……傭兵だよ。領主が雇ったって噂もあるし、領主を脅して居座ったって噂もある。どっちでも同じさ。こっちは払うだけ」


払うだけ。

払って生き延びる。払って黙る。払って、明日も同じ朝を迎える。


アッシュは鍵を受け取り、部屋へ上がった。窓から橋が見える。橋の上には柵。柵の脇に小屋。小屋の横に樽。樽の中身は酒か、武具か、金か。


日が落ちる前に、酒場へ行く。

この街にも酒場はある。橋がある街には必ずある。荷を下ろすための場所、愚痴を吐くための場所、そして噂が沈む場所。


酒場は混んでいた。だが、笑いは小さい。

男たちは盃を傾け、壁の方を見て話す。入口の方を見ない。入口を見れば、入ってくる者と目が合う。目が合うと、何かを言わねばならない。何かを言えば、誰かに聞かれる。


アッシュは端の席に座り、水を頼んだ。

店主は水を出し、すぐに離れる。


隣の席に、手の荒れた中年の男が座っていた。荷運びの者だろう。肩が落ち、爪の間に黒い汚れが残っている。彼は盃に口をつけたまま、ぽつりと言った。


「旅人か」


「そうだ」


「なら、橋は渡った方がいい。早めにな」


「渡ったばかりだ」


男は苦く笑った。


「そうじゃない。『ここに留まるな』って意味だ。留まると、払うものが増える」


「通行税以外に?」


男は視線を落とす。


「荷車が通るたびに、あいつらは言葉を変える。『橋の補修』、『夜の見回り』、『賊対策』……名目は何でもいい。払わなきゃ賊だ。賊なら殴っていい。連れていっていい。家を荒らしていい」


「領主は?」


男は肩をすくめた。


「領主は城にいる。城門は閉まってる。会わせてもらえない。会いに行ったやつは、橋の下へ落ちた。事故だってさ」


事故。これも便利な言葉だ。

夜の事故は、誰の正義にもできる。


アッシュは水を飲み干し、席を立った。

男が慌てて言う。


「やめとけ。お前が強くても、あいつらは数がいる。剣もある。正しいって顔もある」


「正しさの顔は、よく見える」


アッシュはそう言って外へ出た。


街の裏通りを歩く。

橋の傍にある小屋へ向かうのではない。まず、街の仕組みを見る。人が金を運ぶ道。物が集まる場所。傭兵が酒を飲む場所。領主の城へ繋がる道。


歩いていると、石壁の陰から小さな声が聞こえた。


「兄ちゃん」


振り向くと、少年が一人、壁に寄りかかっていた。サン・エルミナの少年とは違う。こちらは目が鋭い。飢えと学習の目だ。


「旅人?」


「そうだ」


少年は周りを見て、声を落とす。


「橋の番人、銅貨を取るだけじゃない。荷の中身を見たがる。酒とか塩とか、いいやつは『検査』って言って持ってく」


「それを止めたい?」


少年は一瞬迷い、それから頷いた。


「止めたいっていうか……母ちゃんが、薬を買えない。銅貨が消える」


少年の正義は、家の薬だ。

大きな話ではない。だが人は、そういう小さな正義で生きている。


アッシュは少年に聞いた。


「傭兵の頭は誰だ」


少年は橋の小屋を指した。


「黒い羽根の腕章のやつ。キャプテンって呼ばれてる。名前は……カロスとか、そんな。字が読めないから、知らない」


「領主とは会っているか」


少年は首を振る。


「会ってない。でも、城の方に金を運んでるのを見た。夜に。荷車じゃなくて、人が背負って」


運ぶ。夜に。背負って。

金を見せないための運び方だ。見せないということは、見せたくない相手がいる。つまり領主は無関係ではない。


(絡まり方が複数ある)


斬れば解けるものと、斬れば悪化するものがある。

この街で剣を振れば、傭兵は「賊討ち」と叫び、街はさらに締め付けられるかもしれない。なら、別の終わらせ方。


アッシュは少年に言った。


「明日、昼。橋のたもとへ来い。走れる靴で」


少年は戸惑いながらも頷いた。

走れる靴がないのだろう。だが、走る気はある目だった。


夜。

アッシュは外套を深く被り、橋へ向かった。橋の柵の内側は番人が二人。小屋の中にさらに二人。灯りがある。酒の匂い。油の匂い。見張りは気が緩んでいる。


彼は橋の下へ回った。

川は浅く、石が見える。橋脚には苔。湿った匂い。橋の腹は暗く、音が響きやすい。だからこそ、息の仕方が大事になる。


橋の裏側に、木箱が吊られていた。

通行税の箱だ。鍵がついている。箱の底から細い縄が伸び、橋の上の小屋へ繋がっている。縄を引けば箱が上がり、中身が回収される仕組みだろう。合理的だ。合理的な悪は、長持ちする。


アッシュは縄の結び目を見た。

結び目は丁寧だが、癖がある。結ぶ者が一人に偏っている。傭兵の頭か、会計役か。


箱の側面に、紋章の焼印があった。領主のものではない。傭兵団の印だ。黒い羽根。つまり、この徴収は傭兵の裁量で動いている。


なら、傭兵団の内部が崩れれば、徴収も崩れる。

ただし、内部を崩すには「疑い」が要る。疑いは、血より静かに広がる。


アッシュは箱の底に指を当て、ほんのわずかに隙間を作った。

そこへ、薄い金属片を滑り込ませる。明日から銅貨が少しずつ落ちる。落ちた銅貨は川底に溜まる。子どもが拾う。拾えば噂になる。「橋の金が漏れている」と。


同時に、縄の途中に小さな切り込みを入れる。切り切らない。繊維を傷めるだけ。明日、力任せに引けば、縄は切れる。箱が落ちる。金が散る。衆目の前で。


それは事故になる。

だが事故は、責任を生む。責任は内部を割る。


アッシュはそのまま橋脚を伝い、小屋の背後へ回った。小屋の隙間から声が聞こえる。


「今夜はこれだけか」


「十分だ。明日にはさらに増える」


低い声が答える。たぶん、頭――キャプテン。


「城へ運ぶ分は?」


「運ぶ。領主は目を逸らす代わりに、銀貨が欲しい。こっちは橋を握る代わりに、見逃しが欲しい。いい取引だ」


取引。

正義ではなく取引で街が動くなら、取引の条件を壊せばいい。


アッシュは小屋の裏に置かれた袋を見つけた。

袋の口は軽く結ばれている。中身は銀貨だろう。重さがある。これが城へ運ばれる分。


彼は袋の中身を盗らない。盗れば賊になる。

代わりに、袋の底の縫い目に針を通し、糸を一本だけ抜く。これも切らない。ほどけるようにするだけだ。


明日、運ぶ時に袋が破れる。

銀貨が道に散る。拾う者が出る。拾えば、誰かが咎める。咎めれば、揉める。揉めれば、城が知る。


城は見逃したい。だが、見逃せなくなる。

噂が立てば、領主は傭兵を切る。傭兵は領主を恨む。恨みは内側で燃える。


アッシュは小屋を離れた。

今夜、刃はまだ抜かれない。抜かずに済むなら、その方が静かだ。


翌日。

昼の橋は、いつもより人が多かった。商人の荷車が二台、巡礼の一団、塩の樽を積んだ馬車。橋の番人たちは気が大きくなっている。徴収が続くほど、徴収する側はそれが当然だと思い始める。


「通行税だ。早く出せ」


荷車の男が銅貨を出す。

番人が受け取る。


その時、番人の一人が縄を引いた。

通行税箱を上げ、回収するためだ。


縄が張る。

次の瞬間、乾いた音がして縄が切れた。


箱が落ちた。

橋の下ではない。橋の上――柵の内側へ落ちるようになっていたらしく、箱は石畳に叩きつけられ、蓋が外れた。


銅貨が散った。


一瞬、時間が止まる。

次に、ざわめきが広がる。


「おい、金が――」

「拾うな!」

「拾ってない! 勝手に転がった!」


番人が怒鳴り、槍を突き出す。

人々が後ずさる。だが、銅貨は足元に転がる。踏めば音がする。音は「そこに金がある」と告げる。


そこへ、少年が走ってきた。

昨日の少年だ。片方の靴は違うが、走れる靴になっている。どこかで借りたのだろう。


少年は銅貨を拾い、声を上げた。


「川にも落ちてた! 橋の下にいっぱいある!」


その声で、群衆の視線が橋の下へ向いた。

「川にも?」

「どうして?」

「漏れてたってことか?」


噂が形になる瞬間だ。


番人の一人が少年を殴ろうとする。

その手が上がりかけた時、後ろから低い声が飛んだ。


「やめろ」


黒い羽根の腕章。キャプテンが出てきた。

顔は整っているが目が冷たい。冷たい目は、長く人を支配できる。


キャプテンは箱の破片を拾い、縄の切れ目を見た。

そして、周囲を見回した。誰かのせいにしたい目だ。だが、誰のせいにするにも証拠がいる。


その時、城の方から騎士が二人やって来た。

領主の家紋を付けている。小さな紋章だが、ここでは重い。


騎士の一人が叫ぶ。


「ここで何をしている。通行税の徴収は、領主の許可を得ているのか」


キャプテンの表情が一瞬だけ硬くなる。

見逃しの取引が、今まさに表に出た。


「許可はある」


「証文を出せ」


キャプテンは答えない。出せない。

証文があれば、昨日の夜に銀貨が城へ運ばれる必要がない。


その時、背負い袋を担いだ傭兵が小屋から出てきた。

銀貨の袋を抱えている。


彼が一歩踏み出した瞬間、袋の底がほどけた。

銀貨が石畳に散った。澄んだ音が鳴る。銅貨より高い音だ。


静まり返る。

銀貨が散る音は、誰の耳にも同じ意味を持つ。


騎士が言った。


「……なるほど。これは献上か」


傭兵が慌てて拾おうとする。

キャプテンが叫ぶ。


「拾うな!」


だが遅い。拾えば賄賂、拾わなければ証拠。

どちらに転んでも、キャプテンは詰む。


群衆が息を呑む。

ここから先は、刃になるかもしれない。傭兵が暴れれば、街は血を見る。


その瞬間、キャプテンの護衛役が一人、騎士に突っかかった。

騎士の胸当てを掴み、怒鳴る。


「黙れ! お前らが何を知ってる!」


――そこで、護衛の背後から、誰かが肩を叩いた。


護衛が振り向く。

何も見えない。だが次の瞬間、護衛は膝から崩れ落ちた。石畳に額を打つ前に、誰かがほんの少しだけ支えたように、音が小さくなる。


周囲がざわめく。

「今、何が?」

「倒れた?」

「病か?」


病。便利な言葉が、今度は傭兵に向く。


キャプテンが叫ぶ。


「賊だ! 混乱させる賊がいる!」


騎士が剣に手をかける。

だが群衆の前で剣を抜けば、騎士側もまた「賊討ち」に巻き込まれる。


アッシュは群衆の端に立っていた。

外套の影の中。目立たない位置。彼が護衛を倒したのではない。倒したように見せただけだ。護衛の首筋に、ほんの少しの針。気を失わせただけ。


血は出ない。

だが、流れは変わる。


騎士が言った。


「この徴収は一時停止する。領主の名で命じる。

 傭兵団は城へ来い。説明しろ」


キャプテンの目が揺れる。

説明すれば終わる。説明しなければ、さらに終わる。


群衆は騒がない。

ただ、目が離れない。目が離れないということは、もう黙っていないということだ。


騎士が銀貨を拾い上げ、周囲に見せた。


「これは証拠だ。橋の金がどこへ行くのか、調べる」


群衆の間に、かすかな息が戻る。

それは歓声ではない。だが、胸の奥の固まりが少しだけ溶ける音だ。


アッシュは踵を返した。

少年が追ってくる。


「兄ちゃん!」


アッシュは足を止めずに言った。


「走れと言ったのは、走って帰るためだ。家へ戻れ」


少年は食い下がりそうになったが、結局、頷いた。


「……母ちゃんに、薬を買えるかな」


「買えるかどうかは、お前たちが決める」


同じ言葉を、門番にも言った。

変わるかどうかは街が決める。誰かが決めてくれると思う限り、また別の傭兵が来る。


少年は唇を噛み、強く頷いた。

そして走っていった。今度は逃げる走りではない。戻る走りだ。


夕方。

アッシュは街の外れの草地に立ち、橋の方を一度だけ振り返った。


橋はまだそこにある。

だが、橋の上の柵の向こうには、いつもの番人の姿がない。代わりに、領主の騎士が立っている。完全な解決ではない。だが、少なくとも「賊」という看板だけで殴られる日々は止まる。


(静けさは、少しだけ戻る)


アッシュは歩き出した。

次の街へ。次の夜へ。


正義を掲げず、名を残さず。

静かな夜を歩く者として。

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