第二十九話 自由の値段と、差し出された代替品
街道は開けていた。
視界が広く、隠れる場所が少ない。
自由な道は、追う側にも都合がいい。
ヴァイスシュタットを出て三日。
追跡の気配は薄い。
だが、薄い時ほど危険だ。
リディアは歩きながら、何度も周囲を見た。
以前の彼女なら、見なかった仕草だ。
「追ってきている?」
「来ている」
アッシュは即答する。
「だが、近くない」
「遠い方が、怖いですね」
「覚えが早い」
街が見えた。
川沿いの中規模都市、ハーゼルフェルト。
交易と職人の街で、色が多い。
染物、革、旗。
色の多い街は、嘘が混ざりやすい。
門での検めは簡単だった。
名前を聞かれない。
代わりに、目的を聞かれる。
「仕事だ」
アッシュが答えると、門番は通した。
目的が仕事なら、余計なことは聞かない。
この街はそういう街だ。
宿は川沿い。
窓から水音が聞こえる。
「ここで別れる」
アッシュが言った。
リディアは黙った。
理解はしている。
だが、納得はしていない。
「ここなら、私一人でも――」
「違う」
アッシュは遮る。
「ここは危険だ」
「どうして」
「自由を売る街だからだ」
夜。
二人は別々に動いた。
一緒にいる時間を、意図的に減らす。
アッシュは酒場へ。
リディアは市場近くの宿の一階へ。
酒場は賑やかだった。
職人、商人、運び屋。
そして、斡旋屋。
すぐに声がかかる。
「仕事を探してる?」
若い男。
笑顔が軽い。
軽すぎる。
「通過だ」
「通過者ほど、仕事を落とす」
「落とす?」
「荷をね」
アッシュは杯を傾ける。
否定も肯定もしない。
男は続ける。
「今夜、荷が一つ消える。
簡単だ。
誰も死なない」
誰も死なない。
その言葉が、ひっかかる。
「中身は」
「人だ」
やはり来た。
「女。
名は無い。
だが価値は高い」
アッシュは杯を置いた。
「依頼主は」
「聞かない方がいい」
「なら断る」
男は肩をすくめる。
「残念だ。
あんた向きだと思ったが」
「なぜ」
男は笑う。
「消すのが得意そうだから」
アッシュは酒場を出た。
川の音が強くなる。
嫌な予感が、形を持ち始めていた。
宿へ戻る途中、気配を察する。
後ろ。
二人。
「アッシュ」
名を呼ばれた。
今度は、はっきりと。
振り返ると、女が立っていた。
黒い外套。
顔立ちは整っているが、目が冷たい。
「会計からの伝言よ」
「聞かない」
「聞かせる」
女は続ける。
「あなたが消した記録。
補完されたわ」
補完。
最悪の言葉だ。
「ヴァイスシュタットの司書、クララ。
彼女、優秀ね」
アッシュは歯噛みする。
あの時、名を答えた。
それが、糸口になった。
「条件は?」
女は一歩近づく。
「代替品を差し出しなさい」
「何の」
「あなたの代わり」
女は微笑んだ。
「リディアを渡せば、あなたは消える。
帳簿からも、追跡からも」
「断る」
即答だった。
「なら逆」
女は言う。
「あなたを渡せば、彼女は自由」
古い天秤だ。
どちらを乗せても、誰かが落ちる。
「時間は?」
「今夜まで」
女は去った。
追わない。
追えば、騒ぎになる。
アッシュは走った。
初めて、走った。
市場。
宿。
灯り。
リディアは、いなかった。
宿の主人が言う。
「若い娘なら、迎えが来た」
「迎え?」
「仕事だって。
良い条件らしい」
斡旋屋だ。
さっきの男。
アッシュは川沿いへ向かう。
倉庫。
灯りが一つ。
中に入ると、リディアがいた。
縛られてはいない。
だが、周囲に三人。
斡旋屋の男が言う。
「誤解しないでくれ。
彼女は“売られた”わけじゃない」
「どういう意味だ」
「選んだんだ」
リディアが顔を上げる。
「……私が、選びました」
声が震えている。
だが、逃げていない。
「あなたが消えるなら、
私は――」
「黙れ」
アッシュの声が、低く響く。
「それは選択じゃない」
斡旋屋が口を挟む。
「いや、選択だ。
この街では」
アッシュは周囲を見る。
三人。
刃は抜いていない。
捕縛用だ。
「条件は」
斡旋屋が答える。
「彼女を渡す。
あなたは見逃される」
「嘘だ」
「証拠は?」
アッシュは一歩前に出る。
「会計は、必ず両方を管理する」
沈黙。
斡旋屋の笑顔が消える。
「……鋭い」
次の瞬間、動いた。
アッシュは一気に距離を詰め、斡旋屋の顎を打つ。
倒さない。
声だけを奪う。
二人目の手首。
三人目の足。
音は最小。
だが、完全ではない。
外で、足音。
女だ。
「遅かったわね」
女が言う。
「感動的よ。
でも、時間切れ」
彼女の背後に、兵がいる。
街の兵だ。
会計は、街を使う。
アッシュはリディアを見る。
「走れ」
「でも……!」
「走れ」
命令だった。
リディアは走った。
川へ。
人混みへ。
女が叫ぶ。
「追え!」
兵が動く。
だが、アッシュは女の前に立つ。
「一つ、計算が違う」
「何?」
「俺は、まだ消えていない」
アッシュは懐から、折った紙を出した。
ヴァイスシュタットで抜いた、あの紙。
「記録は、戻せる。
だが――改竄はできる」
女の目が見開かれる。
「あなた……!」
「俺を追うなら、街が一つ壊れる」
脅しではない。
事実だ。
女は一拍置き、兵に合図を出した。
「止めろ」
兵が止まる。
リディアの姿が、人混みに消える。
女はアッシュを見る。
「……面倒な男ね」
「昔からだ」
女は踵を返す。
「次は、本気よ」
「いつも本気だ」
女は答えず、去った。
夜が終わる。
アッシュは一人、川沿いに立つ。
彼女は逃げた。
だが、完全ではない。
自由には、値段がある。
そしてその値段は、必ず誰かに請求される。
次の街へ。
次の夜へ。
静かな夜を歩く者として。




