第二十八話 消される名と、残してはならない証明
街は、白かった。
雪ではない。
石が白い。壁も、路地も、建物の角も白い。
白は汚れを隠さない。
だからこの街では、汚れそのものを消す。
名を ヴァイスシュタット。
古い学術都市で、司書と写字生が街を支配している。
剣よりも筆が強く、王よりも記録が長生きする。
アッシュは門をくぐった瞬間に理解した。
ここは、会計の街ではない。
だが――会計が最も欲しがる街だ。
「止まるか」
アッシュが言うと、リディアは頷いた。
「ここで、消すんですね」
「そうだ」
「私を?」
「違う」
アッシュは街を見渡す。
「証明を消す」
門での手続きは厳密だった。
名、出生地、所属、紹介者。
一つでも欠けると通れない。
アッシュは一枚の紙を出した。
粗末だが、偽りはない。
――荷運組合 中継証
リディアには、別の紙。
修道院の紹介状。
だが、署名は無い。
門番が眉をひそめる。
「署名が無い」
「祈誓がある」
リディアは静かに言った。
「声で」
門番は一瞬迷い、そして通した。
この街では、書けない者ほど疑われない。
宿は学徒向けの簡素な宿。
紙とインクの匂いが染みついている。
部屋に入るなり、リディアが言った。
「息が、詰まる感じがします」
「記録が多すぎる」
アッシュは答える。
「人は、数えられすぎると苦しくなる」
夜まで待つ必要はなかった。
この街は、昼の方が危険だ。
昼は筆が動き、写しが増える。
目的地は 中央記録塔。
街の中央に立つ、円筒形の白い塔だ。
そこに、全てがある。
「一人で行く」
アッシュが言う。
「でも……」
「お前は、ここで“存在し続けろ”」
リディアは理解した。
消えるためには、消えない役が必要だ。
塔への侵入は容易だった。
鍵は多いが、管理は甘い。
理由は単純。
誰もが「記録は守られる」と信じている。
内部は静かだった。
紙をめくる音だけが、波のように続く。
地下。
会計が最も好む場所。
棚に並ぶのは、名簿、台帳、移送記録。
人が、人としてではなく、項目として並んでいる。
アッシュは目的の棚を見つけた。
――移送対象 一覧
そこに、あった。
リディア・フォン・エーレンベルク
番号、経緯、担保価値。
担保価値の欄に、小さな朱印。
会計の印だ。
(ここだ)
アッシュは台帳を抜き取った。
破らない。燃やさない。
それは、すぐに気づかれる。
代わりに、綴じ糸を外す。
一枚だけ、静かに抜く。
抜いた紙を、丁寧に折る。
ポケットへ。
そして、代わりに挟む。
白紙ではない。
別の紙だ。
数年前の、すでに処理済みの記録。
番号は同じ。
名だけが違う。
名は――
無記名
これで、リディアは“存在するが、対象ではない”。
会計は扱えない。
作業を終え、戻ろうとした瞬間。
「……見事だ」
背後で声がした。
振り返ると、女が立っていた。
灰色の衣。
筆を持つ手が、異様に強そうだ。
名を クララ と名乗った。
「この塔の管理者です」
「邪魔をした」
「いいえ」
クララは微笑まない。
「むしろ、興味深い」
アッシュは距離を測る。
刃は通る。
だが、ここで血を流せば、記録が増える。
「なぜ止めない」
「止める理由がない」
クララは言う。
「あなたは、誰も殺していない」
「これから殺すかもしれない」
「それでも」
クララは一歩近づいた。
「あなたは、記録を壊していない。
整えただけだ」
アッシュは黙った。
「会計は、記録を“支配”する。
あなたは、記録を“読んだ”」
クララの目が、鋭く光る。
「……代償を払ってもらいます」
「何を」
「一つ、名を教えてください」
罠だ。
名は、ここでは最も重い。
アッシュは少し考え、答えた。
「アッシュ」
クララは筆を止めた。
「それだけ?」
「それだけだ」
クララは一拍置き、頷いた。
「十分です」
それ以上、書かない。
それが、この街の流儀だ。
宿に戻ると、リディアは無事だった。
窓辺で、街を見ている。
「……終わった?」
「半分だ」
アッシュは言う。
「記録からは消えた。
だが、人の記憶からは消えていない」
「それでも……」
「それでも、追跡は難しくなる」
夜、街に動きがあった。
会計の手の者が、塔に入ろうとして拒まれている。
「該当記録が存在しない」
門前で、そう告げられる声。
混乱が始まる。
混乱は、会計の嫌うものだ。
夜明け前、二人は街を出た。
門番は何も言わない。
記録が無い者は、通すしかない。
街道に出て、リディアが言った。
「……私は、自由ですか」
「今は」
アッシュは答える。
「だが、自由は管理されない。
管理されないものは、また狙われる」
「それでも」
リディアは微笑んだ。
「息が、できます」
それで十分だった。
遠くで鐘が鳴る。
この街のものではない。
会計が、動き始めている。
次の夜へ。
静かな夜を歩く者として。




