第二十六話 借りの名と、消せない足跡
街道の空気が変わった。
森の湿り気でも、谷の煤でもない。
乾いているのに、喉に引っかかる。紙の粉のような匂い。
そして、どこか懐かしい冷たさ――雪を思い出させる冷たさ。
次の街の名は バルクハウゼン。
川沿いの倉庫都市で、荷が集まり、荷が流れ、荷が消える。
ここでは剣は振るわれない。振るわれるのは契約だ。
契約の隙間に落ちたものは、二度と浮かばない。
門をくぐると、荷車の列がゆっくり動いていた。
見張りは多いが、目は鋭くない。
鋭いのは刃ではなく、札を切る指だ。
アッシュは列に紛れて歩いた。
この街に「旅人」は少ない。ほとんどが運び屋で、運び屋は名を問われない。
荷があれば通る。荷がなければ、邪魔だ。
宿は倉庫区画の外れに取った。
板張りの床が軋み、壁は薄い。
薄い壁は音を漏らすが、同時に音を集める。
情報が欲しい夜には悪くない。
帳場の男は髭を撫でて言った。名を グレゴール。
「一晩か」
「そうだ」
「なら、部屋代は前払い。
この街では“後で払う”は存在しない」
銀貨を一枚。
受け取ったグレゴールは、帳面に線を引く。
その線の引き方が、どこか既視感を刺した。
秤の街でも、帳場の街でも見た線だ。
「夜は倉庫区画に入るな」
「なぜ」
「足跡が残る」
雪の街の言葉が、ここでも出た。
だがこの街に雪はない。
なのに足跡がa—
その違和感が、背中を掻いた。
夜。
酒場へ行く前に、アッシュは宿の窓から外を見た。
路地の暗がりに、三つの影。
動かない。見張っている。
気配は薄いのに、視線だけが重い。
(追ってきている。しかも、腕がいい)
酒場は倉庫労働者の溜まり場だった。
酒は薄く、笑い声は荒い。
だが会話は妙に慎重だ。
誰もが「聞かれている」前提で喋っている。
アッシュが座ると、隣に男が来た。
年は四十前後。手は分厚いが、爪は整っている。
荷役に見えるが、荷役の手ではない。
名を オスカー と名乗った。
「外から来たな」
「通過だ」
「通過者が、ここに泊まるのは珍しい」
「道が閉じている」
「……道は、閉じさせるものだ」
言葉が硬い。
そしてその硬さは、命令に似ている。
オスカーは杯を置き、ほとんど音を立てずに言った。
「聞きたいことがある。
“アッシュ”」
名を呼ばれた。
酒場の中で。
しかし誰も振り返らない。
振り返らないのではない。振り返れない。
この街の空気が、振り返りを許していない。
アッシュは視線を合わせた。
「人違いだ」
オスカーは笑わない。
「違わない。
お前はフライハーフェンで証人を逃がした。
エルデンフルトで名簿札を立てた。
そして、グロッケンハイムで鐘守を落とした」
列挙が正確すぎる。
噂ではない。記録だ。
「誰の記録だ」
オスカーは答えない。
代わりに、指で机を二回叩いた。
とん、とん。
その合図で、酒場の奥の扉が開いた。
男が二人入ってくる。
黒い外套。短剣ではなく、短い棍。
殴るための道具。殺すためではなく、捕らえるための道具だ。
(殺す気じゃない。捕まえる気だ)
アッシュは席を立たない。
立った瞬間に周りの空気が跳ねる。
跳ねた空気は騒ぎになる。
「用件は」
オスカーが言った。
「借りを返してもらう」
「借りはない」
「ある」
オスカーはゆっくりと封筒を出した。
厚い紙。上質。
だが封蝋は無い。
封をしない紙は、会計室の紙だ。
封筒の口から、一枚の紙が覗く。
そこに書かれていたのは、名前。
――リディア・フォン・エーレンベルク
アッシュの指がわずかに動いた。
それだけで、オスカーは理解した。
「彼女を、守ったつもりか」
「守っていない」
「なら、なぜ彼女の名に反応する」
「道を塞がれたからだ」
オスカーは頷いた。
「道を塞がれた。
そう、お前は歩く。
だが、歩きすぎた」
歩きすぎた。
暗殺者に対する評価として、最悪に近い。
「お前の仕事は静かだ。
だが静かすぎる仕事は、“痕”になる」
「痕は残していない」
「残る」
オスカーは淡々と言う。
「残るのは血ではない。
流れだ」
流れ。
水路の街、秤の街、帳場の街。
アッシュはいつも流れを止めた。あるいは曲げた。
曲げた流れは、別の場所で歪む。
歪んだ流れが、今ここでアッシュに噛みついている。
「お前を殺す依頼が出た」
オスカーが言った。
「だが、私たちは殺さない」
「なぜ」
「殺せば、お前は伝説になる。
伝説は金になる。
金になるものは、管理しなければならない」
管理。
祈りを管理した街があった。
名簿を管理した街があった。
今度は、暗殺者を管理する。
「誰が管理する」
オスカーは視線を落とし、言った。
「会計だ」
また会計。
会計はどこにでもいる。
いや、会計が移動している。
まるで一本の蛇のように、街を跨いで。
「お前は今夜、ここで“雇われ直す”」
「断る」
「断れない」
オスカーが机の上に小さな木札を置いた。
番号だけが刻まれている。
エルデンフルトの名簿札と同じ作りだ。
土の街のものが、なぜ倉庫の街にある。
「それは」
「担保だ」
オスカーは言った。
「お前が受け取らなければ、
リディアが土に戻る」
言い方が、完璧に揃っていた。
彼らは言葉を共有している。
複数の街の“支配語”を、同じ舌で喋っている。
アッシュは息を吐いた。
「脅しは嫌いだ」
「脅しではない。精算だ」
オスカーの言葉が、帳場の街を思い出させる。
アッシュは封筒を見た。
封筒の中身は見ない。
見れば、相手の土俵に乗る。
「雇い直しの条件は」
オスカーは笑わずに言う。
「次の街で、ある人物を消せ」
「誰だ」
「ジョージア・フォン・ギルバート」
名前が出た瞬間、酒場の空気が一段冷えた。
あまりに大きい名は、口にすると周囲が沈黙する。
沈黙は同意に見える。
アッシュは言った。
「無理だ」
オスカーは淡々と返す。
「無理ではない。
お前は暗殺者だ。
お前が殺せない相手は存在しない」
「殺せるかどうかの話じゃない」
「なら、何だ」
アッシュはゆっくりと立ち上がった。
周囲が反応しないのは、オスカーの合図があるからだ。
反応しない群衆の中で立つのは、異様だった。
「それをやれば、俺は“誰かの正義”になる」
オスカーは目を細めた。
「お前は正義を語らないはずだ」
「語らない。だから、ならない」
アッシュは言い捨てる。
「俺は仕事をする。
だが、神輿には乗らない」
その瞬間、棍を持つ男が一歩踏み込んだ。
捕縛の動き。
アッシュは動かない。動けば騒ぎになる。
騒ぎになれば、リディアが消える。
なら、ここは――騒がずに勝つ。
アッシュはテーブルの上の杯を取り、床へ落とした。
割れた音がする。
酒場の客が一斉に目を向ける。
これが騒ぎの種になる。
しかしアッシュはすぐに声を上げた。
「すまない。手が滑った」
その一言で、客たちは視線を戻す。
この街では、割れた杯は珍しくない。
珍しいのは叫びだ。叫びが無いなら、ただの事故。
事故という言葉を、暗殺者が利用した。
その一拍の間に、アッシュは棍の男の手首に針を刺した。
毒は浅い。指だけが痺れる程度。
棍を握れなくなる。
次に、もう一人の男の足首へ。
重心が落ち、踏み込めなくなる。
オスカーの視線が鋭くなる。
「抵抗するのか」
「騒がせないだけだ」
アッシュは封筒を取り、木札を取った。
受け取った。
だが、条件を飲んだわけではない。
「ジョージアは殺さない」
「ならリディアが――」
「リディアは守らない」
アッシュが遮る。
「だが、お前らの“精算”にも使わせない」
オスカーが初めて苛立ちを見せた。
「どうやって」
アッシュは封筒を開けた。
初めて、相手の紙を覗いた。
中には名簿が入っていた。
番号、名前、所属、移送先。
リディアの名はその中にある。
そして、その移送先は――
――バルクハウゼン 倉庫第三区 収容。
今この街だ。
つまり、脅しは半分真実で、半分は演出だった。
リディアはすでに近くにいる。
会計は、餌を“遠く”に置かない。管理できなくなるからだ。
アッシュは封筒を閉じた。
「倉庫第三区へ案内しろ」
オスカーは眉を動かす。
「何をするつもりだ」
「雇い直しの前に、担保を回収する」
オスカーはしばらく沈黙し、やがて言った。
「……面白い。
だが、倉庫は私の権限ではない」
「なら、権限のある者を出せ」
オスカーは机を二回叩いた。
とん、とん。
奥の扉が再び開き、別の男が出てきた。
背が高く、服が新しい。煤も泥も無い。
火薬の街のヴァルターとも違う。
もっと“都会的”だ。
名を エリアス と名乗った。
「話は聞いた。
倉庫第三区へ行きたいそうだな」
「行く」
「条件がある」
「聞こう」
エリアスは微笑んだ。
初めて、笑みが出た。
笑う会計は、だいたい危険だ。
「ジョージアを消せ。
それができないなら――
お前が消える」
脅しの言葉が、今度は直球になった。
演出ではない。
倉庫の街は、結局は倉庫だ。不要なものは仕舞う。仕舞ったものは忘れる。
アッシュは答えない。
答えず、ただ一歩前に出る。
「倉庫へ行く」
エリアスの笑みが薄くなる。
「許可しない」
「許可はいらない」
その瞬間、アッシュはエリアスの袖口を掴み、引いた。
大きな動きはしない。
ただ、机の角に袖が引っかかるように。
袖が引っかかると、人は反射で腕を戻す。
その反射の間に、アッシュはエリアスの懐から鍵束を抜いた。
鍵束の音が鳴りそうになる。
アッシュは掌で包み、音を殺す。
エリアスの目が見開かれる。
「……盗みか」
「回収だ」
アッシュは言った。
「担保を回収する」
酒場の客は何も知らないまま騒いでいる。
だが、騒ぎはいつも通りの騒ぎだ。
この街では、騒ぎは背景になる。
アッシュは裏口へ向かった。
追手は動かない。動けない。
動けば“騒ぎ”が本物になる。
本物の騒ぎは、会計にとって損だ。
倉庫第三区は川沿いだった。
大きな扉が並び、番号が刻まれている。
扉の前には見張りが二人。
だが、彼らの目もまた“札”しか見ていない。
アッシュは鍵束を見せる。
見張りは戸惑い、そして扉を開けた。
中は暗い。
木箱が積まれ、人が“荷”のように扱われているのが分かる。
仕切りの奥から、微かな咳。
アッシュは咳の方へ進む。
小さな区画に、女がいた。
外套は剥がされ、手は縛られている。
目は生きている。
あの目だ。
「リディア」
名を呼ぶべきではない。
だが、ここは倉庫の中だ。
倉庫の中は、記録の外だと会計は思っている。
リディアが顔を上げた。
「……あなた、来たの」
「来た」
「ジョージア様は……」
「殺さない」
リディアが息を吐き、目を閉じかける。
だがすぐに開いた。
「私のせいで、あなたが……」
「お前のせいじゃない」
アッシュは縄を切る。
刃は短い。音は出ない。
その瞬間、背後で扉が閉まる音がした。
重い音。
倉庫の外から、鍵が回る。
閉じ込められた。
会計は、逃がさない。
暗闇の中、エリアスの声が響いた。
「面白い。
担保を自分で回収するとは」
アッシュは声の方向を見ない。
声を見ると、感情が動く。
感情が動くと、判断が鈍る。
「取引だ、アッシュ」
エリアスが言う。
「今夜、お前はここで死ぬ。
そうすれば、ジョージアも、リディアも、生きる」
「嘘だ」
アッシュが短く言う。
「会計は約束しない」
エリアスは笑った。
「なら、証拠を見せようか」
火が点く。
松明ではない。
小さなランタンが一つ、二つ。
影が揺れる。
倉庫の奥から、男が三人出てきた。
黒衣。棍。
捕縛の道具。
殺しではなく、静かな処理。
アッシュはリディアを背に庇う。
背に庇うのは、不利だ。
だが、担保を回収した以上、担保を失えば意味がない。
「アッシュ……!」
リディアが声を上げかける。
アッシュは指を一本立てる。
声を殺せ、という合図。
倉庫の中で叫びが出れば、外の見張りが動く。
外が動けば、会計の望む“騒ぎ”になる。
会計は騒ぎを嫌うが、必要なら作る。
作らせてはいけない。
アッシュは腰の内側から、小さな硝子片を取り出した。
フライハーフェンの夜に用意したものと同じ。
光を吸う刃。
棍の男が踏み込む。
アッシュは一歩だけ横へずらし、男の足首の内側を切る。
血は出ない。筋だけが切れる。
踏み込めなくなる。
倒れる音が出そうになる前に、アッシュが肩を支え、静かに床へ置く。
二人目。
棍を振るう。
アッシュは棍の軌道に掌を滑らせ、力を逃がす。
そして肘へ針。指が痺れ、棍が落ちる。
落ちる音が出ないように、アッシュが受け取る。
三人目は距離を取る。
捕縛の手が、捕縛される恐怖を知った瞬間だ。
エリアスの声が少し苛立つ。
「……やはり強いな」
「強いんじゃない」
アッシュが言う。
「静かなだけだ」
アッシュはランタンの灯りを見た。
灯りは揺れる。
揺れは、空気が動いている証拠。
倉庫のどこかに換気口がある。
換気口があるなら、外に出られる。
アッシュはリディアの腕を取り、耳元で囁いた。
「走れるか」
「……はい」
「声は出すな」
「……はい」
二人は木箱の影へ滑り、換気口を探す。
エリアスは追わない。追えない。
追えば倉庫の中で乱れが生まれる。乱れは帳簿に残る。
木箱の隙間、冷たい風。
そこに小さな格子があった。
釘が打たれている。
だが古い。湿気で弱っている。
アッシュは硝子片を釘の頭へ当て、てこのように使う。
音を立てずに、釘を浮かせる。
一本、二本。
格子が外れる。
外は川沿いの暗がりだった。
雪はない。
だが泥がある。
泥は足跡を残す。
なら、川へ入る。
アッシュはリディアを引き、二人で浅瀬へ。
冷たい水が足首まで来る。
足跡が消える。
背後で、エリアスの声が遠くなる。
「逃げろ。
だが、道は塞がれる。
次はジョージアだ。
次で、お前は選べ」
選べ。
会計は、選択を与えるふりをする。
実際は、どちらも損になる選択を並べる。
アッシュは川を渡り、暗がりで止まった。
リディアが震えている。
「……私は、どうしたら」
アッシュは答えた。
「生きろ」
「ジョージア様に会える?」
「会わせない」
「なぜ」
「会えば、追手が彼女へ繋がる」
リディアは唇を噛んだ。
彼女は賢い。理解が早い。
理解が早い者ほど、苦しむ。
「じゃあ私は……」
「次の街まで、俺が運ぶ」
リディアが顔を上げる。
「運ぶ?」
「荷だ」
アッシュは言った。
「この世界は荷で動く。
荷なら、目を逸らせる」
冷たい言い方だ。
だが、冷たい言い方は、彼女を生かす。
夜明け前、アッシュは倉庫都市を離れた。
追手は追わない。追えない。
会計はすぐに殺さない。管理したいからだ。
街道へ出ると、アッシュは初めて息を吐いた。
背負うものが増えた。
担保を回収した結果だ。
そして理解した。
これは次の章の入口だ。
――アッシュは、歩きすぎた。
――だから世界が、彼を“勘定”に入れ始めた。
次の街へ。
次の夜へ。
静かな夜を歩く者として。




