第二十四話 土の名簿と、埋められなかった死
街は、低かった。
城壁も低い。
家も低い。
人の声も低い。
名は エルデンフルト。
川沿いに広がる農業都市で、穀物と人手で生きている。金は少ないが、口は多い。ここでは帳簿より名簿が力を持つ。
門で渡されたのは紙ではなかった。
木板だ。
――住民名簿札
番号と、名前。
それだけ。
「失くすな」
門番が言う。
「失くすと?」
「土に戻る」
戻る。
この街では、死ぬことをそう言う。
アッシュは札を受け取り、街へ入った。
土の匂いが濃い。肥えた土だ。人を養う匂い。
だが同時に、人を隠す匂いでもある。
宿は農家兼用だった。
宿主は初老の女で、名を ヘルミーネ と言った。
「夜は畑に近づかないで」
「なぜ」
「埋まるから」
冗談ではなかった。
この街では、夜に畑へ行く者はいない。
畑は昼に人を養い、夜に人を飲む。
夕方、アッシュは名簿札を確認した。
自分の名はない。
番号だけが彫られている。
「外から来た者は、名が要らない」
ヘルミーネが言った。
「名があると、ここでは重い」
名が重い街。
紙ではなく、土に記されるからだ。
広場に木の掲示板があった。
紙ではない。彫られた名だ。
――今季の離脱者
離脱。
死でも失踪でもない。
土の街らしい言い方だ。
名は三つ。
どれも、若い。
広場の端で、男が一人、地面を見つめていた。
農具を持っているが、使っていない。
名は マティアス。
「離脱者を知っているか」
アッシュが聞くと、男は頷いた。
「……畑で働いていた」
「事故か」
「事故にした」
言い直し。
それが、すべてだ。
「誰が」
マティアスは空を見た。
「名簿守だ」
名簿守。
この街で最も静かな役職。
夜。
畑は月明かりに照らされ、静かだった。
風が作物を揺らす音だけがする。
だが、その下に、別の静けさがある。
アッシュは畦道を歩き、畑の奥へ入った。
踏み固められた場所がある。
土が柔らかすぎる。
掘られている。
そこに、木箱が半分見えていた。
蓋は閉じていない。
急いで埋めた痕だ。
中を見る。
死体ではない。
名簿札だ。
何十枚も。
番号だけの札、名の刻まれた札。
割れているもの、削られているもの。
人を埋める前に、名を埋める。
背後で、足音がした。
軽い。畑に慣れた足音。
振り返ると、老人が立っていた。
杖を持ち、背は低い。
だが、目が鋭い。
「夜の畑は危険だ」
「知っている」
「なら、なぜ来た」
「名を探しに」
老人は笑った。
「名は、土に返すものだ」
「返す前に、奪っている」
老人の笑みが消える。
「……余りだ」
余り。
またその言葉。
「水の街でも、火の街でも聞いた」
アッシュが言う。
「ここでも同じか」
老人――名簿守は、杖を突いた。
「畑は限られている。
口が増えすぎれば、全員が飢える」
「だから、名を消す」
「だから、土に返す」
名簿守は正しかった。
理屈は、完璧だった。
だが、完璧な理屈ほど、刃に弱い。
「何人、埋めた」
アッシュが問う。
「埋めていない」
「名を埋めた」
名簿守は、少し考えた。
「……十二」
十二。
この街の畑の余白分。
「今夜もか」
「今夜もだ」
名簿守は杖を構えた。
刃ではない。
だが、先端は鉄。人を倒すには十分だ。
アッシュは距離を詰める。
杖が振られる。
だが、畑の土は足を取る。
名簿守は土に慣れている。
だが、死に慣れてはいない。
アッシュは杖を外し、老人の懐へ入る。
刃は抜かない。
ここで血を流すと、畑が覚える。
代わりに、首の後ろ。
神経。
短い衝撃。
名簿守が崩れる。
完全に殺さない。
だが、名簿を持てなくする。
老人は地面に伏せ、指が動かなくなる。
名を刻む指だ。
「……街は……」
名簿守が呻く。
「街は、生きる」
アッシュは言った。
「土は、正直だ」
木箱から名簿札を取り出し、並べる。
畑の畦に沿って、一枚ずつ。
埋めない。
立てる。
夜明け。
畑に、木札が立ち並ぶ。
人々が集まる。
声が出ない。
名が、戻っている。
掲示板に、新しい彫りが加えられる。
――離脱者
――取消
名簿守は生きている。
だが、指は動かない。
後任は決まっていない。
畑は、今季は広げられない。
だが、人は減らなかった。
それだけで、十分だった。
アッシュは街を出る。
名簿札は門で返した。
門番が見る。
「番号だけだな」
「それでいい」
門番は頷いた。
「名は、重いからな」
街道に出ると、風が変わる。
土の匂いが薄れ、草の匂いになる。
次の街へ。
次の夜へ。
静かな夜を歩く者として。




