第二十三話 黒い帳場と、渡されなかった銀貨
街道は谷を抜け、湿った森へ入った。
雨は降っていない。だが地面は常に濡れている。踏みしめるたび、靴底が音を立てる。こういう土地は、人が消えやすい。
次の街の名は ノイエンマルク。
交易の中継地で、宿と倉庫がやたらと多い。金は通過するが、留まらない。だからこの街では、通帳が権力だった。
門をくぐると、すぐに看板が目に入る。
――信用取引所
――帳場合同所
紙の匂いが、はっきりと鼻を突いた。
煤ではない。火薬でもない。
乾いた紙と、古い銀貨の匂いだ。
アッシュは通りを歩きながら、人の動きを観察する。
視線が多い。
だが、警戒ではない。勘定の目だ。
宿に入ると、帳場に若い女が座っていた。名は イルゼ。指が綺麗すぎる。帳場の人間の指だ。
「泊まりかい」
「一晩」
「前金」
銀貨を一枚置く。
イルゼは受け取り、帳面に線を引く。
「夜は外へ出るな。
この街では、夜に“精算”がある」
「精算?」
「借りを返す夜」
借り。
この街での借りは、金とは限らない。
夜までの間、アッシュは街を歩いた。
倉庫の数を数え、見張りの配置を見る。
倉庫は八つ。だが、出入りが多いのは三つだけ。
共通点がある。
いずれも、帳場合同所と地下で繋がっている。
広場の端で、老人が座っていた。
荷はない。
だが、首から古い木札を下げている。
「それは」
アッシュが指すと、老人は笑った。
「担保だ」
「担保?」
「昔、借りた。
返せなかった。
だから、これを持って生きてる」
木札には番号だけが刻まれている。
名も、金額もない。
「返すと、どうなる」
老人は視線を逸らす。
「返せたら……消える」
消える。
死ぬとは言わない。
この街では、“消える”のが一番正確だ。
夜。
精算の鐘は鳴らない。
代わりに、倉庫の扉が一斉に閉まる音がした。
アッシュは屋根へ上がる。
湿った瓦は滑る。
だが、滑る屋根は見張りが嫌う。上は空いている。
帳場合同所の屋根に、小さな天窓がある。
灯りが点いている。夜でも帳場は眠らない。
中では、三人の男が机を囲んでいた。
帳簿。
秤。
銀貨の袋。
中央の男が言う。
「今夜の精算は、七」
「多いな」
「雨が続いた。
仕事が止まった」
「止まったのは、仕事だけじゃない」
言葉の意味は明確だった。
アッシュは天窓から中へ降りる。
音は立てない。
だが、気配は消さない。
「誰だ」
三人が顔を上げる。
「通過者だ」
アッシュが言う。
「精算に、用はない」
男の一人が鼻で笑う。
「通過者ほど、帳場を汚す」
「汚れるのは紙だ」
アッシュは机の上を見る。
帳簿の横に、小さな袋が七つ並んでいる。
銀貨ではない。
指輪、留め金、耳飾り。
担保だ。
「七人、消すのか」
中央の男が答える。
「消えるのは、借りだ」
「人だ」
「人は借りの形をしている」
紙の論理。
レンガルテンで見たものと、同じ匂いだ。
アッシュは最初の男に近づいた。
刃は抜かない。
代わりに、帳簿を閉じる。
「何を――」
帳簿が閉じられた瞬間、秤が傾く。
秤は“今夜の数”を示していた。
七。
だが、帳簿が閉じると、秤は意味を失う。
「開けろ!」
男が叫ぶ。
「開ければ、数が戻る」
アッシュは答える。
「戻るなら、今夜は止まる」
二人目が短剣を抜く。
抜いた瞬間、アッシュは踏み込む。
肘。
喉元。
音を出さずに床へ。
三人目は動かなかった。
帳場の人間は、計算が追いつかないと動けない。
中央の男が言う。
「……お前、何者だ」
「精算だ」
「誰の依頼だ」
「依頼はない」
アッシュは袋の一つを取り、男の前に置く。
耳飾り。
昼に見た老人の木札と、同じ細工。
「この街の借りを、今夜は返さない」
男の喉が鳴る。
「そんなことをすれば、街が回らない」
「回る」
アッシュは言った。
「借りを消さなければ」
そして、袋を一つずつ火鉢へ落とす。
金属が熱を持つ音。
匂い。
「やめろ!」
「精算だ」
七つ、すべて燃やす。
帳場の男は膝を落とした。
「……明日、どう説明する」
「帳面が濡れた、と書け」
アッシュは天窓へ戻る。
去り際に、帳簿の表紙に刃を走らせる。
切り裂かない。
背表紙だけを外す。
帳簿は残る。
だが、綴じ直さなければ使えない。
綴じ直すには、時間が要る。
夜明け。
街はざわついた。
精算が行われなかった。
消えるはずの七人が、消えなかった。
老人は広場に立ち、木札を外していた。
番号だけの札が、地面に落ちる。
掲示板に紙が貼られる。
――帳場合同所、業務停止
――理由:帳簿破損
破損。
便利な言葉だが、今回は人を守った。
アッシュは街を出る。
門の外で、イルゼが立っていた。
「前金、返すよ」
銀貨を差し出す。
「なぜ」
「帳場が止まった。
借りを取れない宿は、客を選べない」
アッシュは銀貨を受け取らなかった。
「次の街で使え」
イルゼは一瞬、驚いた顔をし、そして頷いた。
街道に出ると、森の湿気が薄れる。
足音が、また普通の音に戻る。
次の街へ。
次の夜へ。
静かな夜を歩く者として。




