第二十二話 灰の手紙と、遅れて届く刃
次の街は、灰色だった。
雪ではない。
霧でもない。
空そのものが煤けている。
街の名は レンガルテン。
炭焼きと鍛冶で成り立つ谷の街で、朝から晩まで煙が上がる。火が多い場所は人が多い。人が多い場所は、嘘も多い。
アッシュは丘の上から街を見下ろし、煙の柱を数えた。
煙突は八本。工房は四つ。酒場は三つ。
寺院は一つ。だが鐘は鳴らない。煤の街に祈りは似合わない。
門番は厳しかった。
名を問う。目的を問う。滞在日数を問う。
そして最後に、紙を一枚渡す。
――労務証(短期)
「夜に外へ出るなら、裏に印をもらえ」
「誰から」
「工房長だ」
紙で歩く街。
ただしここは、宗教都市のように綺麗ではない。紙が煤で汚れ、汚れた紙が価値になる。
宿は工房近くの安宿。
宿主は太った男で、名を ブルーノ と言った。
「工房に近づくな」
「なぜ」
「事故が起きる」
事故。
便利な言葉が、煤の街にもあった。
夜まで街を歩く。
レンガルテンの中心には、一本の塔がある。寺院の塔だが、鐘楼ではない。見張り塔でもない。
あの塔は……煙を監視する塔だ。
煙の量で工房の稼働がわかる。
稼働がわかれば、徴税がわかる。
徴税がわかれば、金がわかる。
広場の片隅で、少年が煤だらけの顔で立っていた。
木箱を抱えている。中身は手紙の束。
「配達か」
アッシュが声をかけると、少年は頷いた。
「工房の帳場へ」
「誰の」
「会計係の……フェリクス様」
フェリクス。
また会計。
金の匂いは、どの街でも似ている。
夜、酒場に入ると、噂はすぐ耳に入った。
「最近、工房で人が減ってる」
「逃げたんじゃない」
「事故だってさ」
「事故が多すぎる」
声は小さい。
煤の街では大声は火花になる。
隣に座った男が、低い声で言った。
名は ザムエル。工房の元職人だ。
「外から来たなら、忠告する。
工房長の ハインリヒ に近づくな」
「ハインリヒが事故を」
ザムエルは頷いた。
「事故を作る。
気に入らないやつを炉へ落とす。
煤まみれにして、行方不明にする」
炉へ落とす。
派手な殺し方だ。静かではない。
だが、煤の街なら音も匂いも飲み込む。
「会計係フェリクスは」
ザムエルの目が揺れた。
「……あいつは紙を作る。
事故の紙。
賃金未払いの紙。
逃亡の紙。
紙で人を殺す」
紙の殺し。
アッシュが一番嫌うタイプだ。
刃で終わらせた方が、まだ正直だ。
その夜、宿へ戻ると、扉の隙間に薄い紙が挟まっていた。
依頼書ではない。
手紙だ。
封はない。
煤の匂いがする。
字は崩れている。
アッシュへ
ここは、会計が街を殺す
工房長ハインリヒを止めろ
そうすれば、皆が助かる
返礼は要らない
ただ、夜を静かにしてくれ
差出人はない。
だが、内容は明確だった。
(ハインリヒが標的)
短い。簡単。
簡単すぎる依頼は、危険だ。
それでもアッシュは動いた。
“静かにしてくれ”という言葉は、暗殺者の耳に残る。
それは同業者が使う言葉ではない。
弱い者の言葉だ。
深夜。
工房区画へ。
ハインリヒの詰所は工房の裏、炉の熱が最も強い場所にあった。
熱い場所は人が長くいられない。だから見張りが薄い。
窓から覗く。
ハインリヒは酒を飲んでいる。
机に、労務証の束。
印章。
そして、焼け焦げた布切れ。
アッシュは理解する。
布切れは、落ちた者の服だ。
(確かに、こいつは殺している)
侵入は容易だった。
炉の騒音が、足音を隠す。
背後。距離、半歩。
革紐を首に回す。
ハインリヒは抵抗した。
首が太い。力が強い。
だが、暗殺者は力比べをしない。
喉仏を避け、血管を潰す。
腕の動きが弱くなる。
息が止まる。
終わり。
――その瞬間、扉が開いた。
入ってきたのは、会計係フェリクスだった。
痩せた男。
煤一つついていない服。煤の街で煤がないのは、働いていない証拠だ。
フェリクスは死体を見ると、一瞬だけ目を見開いた。
驚きではない。計算の更新だ。
「……やってくれたか」
声は落ち着いていた。
「依頼主か」
アッシュが問うと、フェリクスは肩をすくめた。
「依頼主は街だ。
いや、正確には――私だ」
アッシュは息を止めた。
嫌な理解が背中を這う。
「ハインリヒが死ねば、事故は止まる。
そう思っただろう?」
「違うのか」
フェリクスは微笑まないまま言った。
「事故は、帳簿が欲しがる。
私は欲しがる。
ハインリヒは粗暴で、痕を残す。
私は痕を残さない」
つまり、ハインリヒは“邪魔”だった。
粗暴な殺し方は、数字の街ではコストになる。
「お前が手紙を」
「そうだ。
外の刃が欲しかった。
内側の人間を使うと、噂が残る」
外の刃。
アッシュは、使われた。
フェリクスが続ける。
「礼を言う。
これで私は工房長代理になれる。
賃金はさらに削れる。
人もさらに減らせる」
静かに。紙で。
最悪の形で。
アッシュは一歩踏み出した。
フェリクスは後退しない。
彼は、ここで自分が死なないと信じている。
信じる理由がある。
扉の外に、足音が集まっている。
見張り。
そして、誰かの合図。
フェリクスが言った。
「君が私を殺せば、外で騒ぎになる。
騒ぎになれば、君はここで終わる。
君は静かに歩く者だろう?」
静かに歩く者。
その言葉を、敵に使われた。
アッシュは一瞬、動きを止めた。
止めたのは迷いではない。計算だ。
ここでフェリクスを殺せば、騒ぎになる。
騒ぎが起きれば、この街の工房労務者がまた“処理”される。
フェリクスはそういう仕組みを作っている。
殺せば、彼の望む混乱が起きる。
なら、殺し方を変える。
アッシュはハインリヒの机の上の印章を取った。
そして、死体の手を掴み、印章を握らせる。
フェリクスが眉を動かす。
「何を――」
アッシュは帳簿を開き、今日の日付の欄に、乱暴に印を押す。
さらに、労務証の束に印を押す。
大量に。適当に。
印の乱れは、秩序の崩れだ。秩序が崩れれば、会計は困る。
フェリクスが言う。
「無駄だ。私は印を作り直せる」
「作り直すなら、今夜は止まる」
アッシュは言い捨てる。
「止まる夜があると、人は息をする」
扉の外の足音が近づく。
フェリクスが静かに手を挙げる。
「殺せないなら、帰れ。
君はもう用済みだ」
アッシュは窓へ向かった。
しかし、去る前に一つだけ置く。
灰色の紙。
先ほどの手紙の写しを、暖炉の横に置く。
あえて燃やさない。
燃やさない紙は、誰かが読む。
フェリクスが気づき、顔色が変わった。
「それは――」
「街へ返す」
アッシュは窓から出た。
屋根を伝い、雪に足跡を残さず、闇へ消える。
翌朝。
掲示板に紙が貼られた。
――工房長ハインリヒ、事故死
――原因:炉前での転倒
事故。
予想通りだ。
だが、その下に、別の紙が増えていた。
誰が貼ったかは分からない。
――未払い賃金、支給要求
――労務証、再発行要求
――会計の監査要求
紙が動き始めた。
紙は紙でしか動かせない。
だから、アッシュは紙を置いた。
街がすぐに良くなるわけではない。
フェリクスも生きている。
だが、彼は“静かに”人を殺せなくなった。
アッシュは街外れで、あの配達少年とすれ違った。
少年は木箱を抱え、アッシュを見上げる。
「……あなた、昨日の夜……」
アッシュは答えない。
代わりに、少年の箱に一枚の紙を滑り込ませた。
――会計室の奥へ
――レオポルトの名
少年は意味を知らない。
だが、紙は街を越える。
遅れて届く刃。
それが、アッシュの次の一手だった。
次の街へ。
次の夜へ。
静かな夜を歩く者として。




