表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
静かな夜を歩く者  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/47

第二十話 会計室の鍵と、雪の上の息



雪は降り続けていた。

白い世界は足跡を残す。足跡を残す夜は、暗殺者に不向きだ――と言う者もいる。だがアッシュにとっては逆だった。残るものがある夜ほど、残さない技術が冴える。


ヴァイスブルクの伯爵府は丘の上にある。城壁は白い石で、雪と同化して輪郭が曖昧だった。見張りの松明だけが、壁を“存在”として浮かび上がらせている。


アッシュは正面から行かない。

裏門も使わない。

この街の裏はもう動いている。裏へ回れば、裏の目にぶつかる。


だから、上から入る。

屋根――ではない。

伯爵府の外壁に沿って伸びる雨樋を辿り、二階の小窓へ。雪が積もっている場所は避ける。雪は落ちる音を持つ。石の露出した縁だけを拾う。


窓は小さい。だが鍵は堅牢ではない。伯爵府の鍵は“鉄”で守られているのではなく、紙で守られている。

開ける必要がない。

開いている時間を見つける。


夜番が巡回で通り過ぎる瞬間、侍女が換気のために窓を僅かに開ける。

その僅かが、暗殺者の入口だ。


アッシュは滑り込む。

室内は暖かく、香が薄く漂う。硝子の街の甘い香ではない。重く、品がある。権力の香だ。


(目標:レオポルト。場所:会計室の奥)


ジョージアが言った“伯爵の財布”。

財布は人だ。人が生きている限り、金は流れる。

金の流れを止めるには、紙を燃やすより、紙を書いている指を止める方が早い。


廊下へ出る。

足音は吸わせない。絨毯は音を消すが、同時に“柔らかい沈み”を残す。沈みの癖は、見張りに気づかれる。

だから、絨毯の縁、石床の境目だけを歩く。硬い場所は音を出すが、足を乗せる時間を短くすれば音は残らない。


角を曲がると、夜番が一人立っていた。槍を持ち、背を壁に預け、眠りかけている。

眠りかけの見張りが一番厄介だ。夢と現実の境目で、警戒の理屈が跳ねる。


アッシュは近づき、見張りの肩に軽く触れた。

驚かせない。気づかせない。

ただ、眠りを深くする。


耳の後ろ。

針。

浅い毒。

一分もすれば、彼は“自分の意思で”座り込む。


見張りの膝が折れ、槍先が床に当たりそうになる。

アッシュは槍を掴み、音が出る前にそっと壁へ立てかけた。

息だけが残る。

息は記録されない。


会計室は地下に近い。

金庫は地下にあるが、会計室は半地下。湿気を避けるため、石壁に通気孔がある。

通気孔から漏れる灯り。

夜に灯りがある部屋は、働いている部屋だ。


扉の前に二人。

護衛ではない。書記だ。紙を持ち、鍵束を持つ。

剣より危険な種類の人間。


書記の一人が言う。


「今日の集計は終わったか」


もう一人が欠伸をする。


「終わるわけがない。

 雪が降ると、金が動く」


金が動く。雪と一緒に。

ジョージアの言葉がよぎる。白い金。雪のような金。


アッシュは二人の背後へ回った。

一人目の口元に布。

二人目の首筋に針。

声と動きを同時に奪う。


二人が崩れる。

紙が床に落ちる音が出そうになる。

アッシュは紙を空中で掴み、胸元へ押し込んだ。紙の音は紙で消える。


扉を開ける。

鍵は使わない。

内側は施錠されていない。会計室は“入れる者が限られている”ことが錠前の役目だ。


室内は暖炉が小さく燃え、机がいくつも並ぶ。

帳簿。封筒。印章。銀の秤。

そして奥にもう一枚の扉。鉄が少し厚い。あれが“奥”だ。


机の前に男が一人。

髪は灰色、背筋が真っ直ぐ。服は地味だが、布の質が良い。指先が白い。墨で汚れていない。

――紙を書かない男。紙を書かせる男。


男は顔を上げた。


「遅い」


声が静かすぎて、アッシュは一瞬、こちらが先に待たされていた錯覚を覚えた。


「お前が……アッシュだな」


名を知っている。

それはつまり、相手が“会計室の奥”を名乗るに足る存在だ。


「レオポルトか」


「そう呼ばれている」


男は微笑まない。

微笑みを武器にしないタイプだ。数字だけが武器。


「誰の依頼だ」


「依頼は受けない」


アッシュが言う。


レオポルトは頷いた。


「知っている。

 お前は依頼を受けているのではなく、返礼で動いている」


ジョージアの言葉が、相手の口から出た。

この瞬間、仕事の質が変わる。


「……どこで知った」


「金は道を知っている」


レオポルトが机の上の帳簿を閉じる。


「ヴァルターも、ローテンも、駒だった。

 その駒が消えるなら、次を置く。

 だが、お前は駒ではない。歩く」


「止めるために来た」


「止められない。

 ここは街の財布だ。財布を止めれば、街が死ぬ」


「街は生かせと言われた」


アッシュが言うと、レオポルトは初めて目を細めた。


「なら、私を殺せない。

 私が死ねば、この帳簿は燃える。

 燃えれば配給が止まり、工房が止まり、兵が止まる」


理屈は正しい。

会計係の理屈はいつも正しい顔をしている。

正しい顔のまま、人を殺す。


アッシュはゆっくりと近づいた。

机の端まで。

そして、帳簿を見た。


そこには数字だけではなく、名前が並んでいた。

工房の職人の名。配給量。差引。

そして、ある欄に小さく書かれている。


――「事故処理費」

――「雪夜点検費」

――「口止め費」


レオポルトは、数字で殺す男だ。

だが、その数字は“街を守る”という顔をしている。


「お前は伯爵を守っているのか」


アッシュが問う。


「伯爵は役だ。守っていない。

 守っているのは、仕組みだ」


「仕組みのために、人を消す」


「消えるのは、余りだ」


余り。

またそれだ。


アッシュは言った。


「余りじゃない。

 足りないのは、お前の目だ」


レオポルトは静かに椅子から立つ。


「私は現実を見ている。

 雪が降れば、腹は減る。

 腹が減れば、盗みが増える。

 盗みが増えれば、秩序が壊れる。

 秩序が壊れれば、死者は増える」


「だから先に殺す?」


「だから先に“処理”する」


言葉が違うだけで、やっていることは同じだ。


アッシュは外套の内側から、一本の細い硝子片を出した。

前夜の工房で作られていた刃。

光を吸う薄さ。雪の夜に似合う刃。


レオポルトが目を動かす。


「硝子か。

 なるほど。火花が出ない」


「騒がせない」


「しかし、私が死ねば――」


「死ぬのはお前だけだ」


アッシュは言った。


「財布は止まらない。

 財布を持つ手を、別の手に替える」


レオポルトは眉を動かす。


「誰が」


「伯爵だ」


「伯爵は数字が読めない」


「読ませる」


アッシュは机の上の帳簿から、ある頁だけを抜いた。

事故処理費の頁。

口止め費の頁。

雪夜点検費の頁。


それを二枚に分ける。

一枚は火鉢へ。

燃やす。

証拠を消すのではない。習慣を消す。


もう一枚は折り畳み、封筒へ入れる。

封筒には伯爵の印が押せる印章が机上にあった。会計室の奥は、印を持つ。


アッシュは封をしない。

封をすれば、誰かが開けた痕が残る。

開けた痕が残れば、言い訳が生まれる。


封筒を、扉の外の書記の胸に差し込む。

彼は眠っている。

だが、朝になれば目覚める。

目覚めた者は、自分の胸にある封筒を“偶然”だと思えない。


レオポルトが低く言う。


「……お前は私を殺す前に、仕組みを壊そうとしている」


「壊すんじゃない」


アッシュは硝子片を持ち直す。


「蝶番へ」


言葉は短い。意味は長い。

鍵穴をこじ開けるのではない。扉そのものの回転を変える。


レオポルトは一歩引いた。

椅子の影に手を伸ばす。短剣。やはり持っている。

会計係は最後に刃を隠す。


アッシュは踏み込む。

硝子片は喉ではなく、脇腹へ。

致命ではない位置に刺し、身体を丸めさせる。

声が出そうになる。


布。

口元を塞ぐ。


そして、革紐。

絹ではない。革。

首に回す。

位置を決める。

力は必要ない。血管を潰すだけ。


レオポルトの指が、机の縁を掻く。

だが、硝子片の痛みで力が入らない。

声も出ない。

暖炉の火が小さく鳴るだけ。


三十秒。

四十秒。


終わり。


アッシュは革紐を外し、レオポルトの首元を整えた。

衣服の乱れを直す。

死体が“襲撃”に見えると、街は剣を振るう。剣が振るわれれば、無関係の者が死ぬ。


机の上に、紙を一枚置く。

短い文。


――会計室奥、交代

――処理費、廃止


署名はない。

署名がない紙ほど、強い時がある。誰の名でもないからだ。


外へ出る。

書記たちは眠っている。

夜番も、廊下で座り込んだままだ。


雪の中へ戻る。

足跡は残る。

だが、アッシュは城壁の外へ出る前に、馬の蹄跡の列へ自分の足跡を重ねた。

雪の足跡は“混ざれば”消える。


夜明け。


伯爵府は静かに騒いだ。

叫びはない。鐘も鳴らない。

ただ、伝令が走り、扉が開き、紙が動く。


昼。

掲示板に通達が出た。


――会計室の再編

――事故処理費の見直し

――雪夜点検の一時停止


完全な勝利ではない。

だが、火種は摘まれた。

爆発は先送りではなく、消火だ。


夕方、アッシュが街道へ出ると、紺の幌の馬車が待っていた。

ジョージアが窓を少しだけ開ける。


「終わったか」


「今夜は」


アッシュが言うと、ジョージアは小さく頷いた。


「余計な血は」


「流していない」


「では、返礼は受け取ったな」


ジョージアは外套の内側から、小さな布袋を投げた。

中身は金ではない。

白い砂糖菓子だった。雪みたいに白く、口に入れるとすぐ溶ける。


「甘いものは、長旅に要る。

 ……生きて戻れ、アッシュ」


アッシュは袋を受け取り、何も言わずに歩き出した。

甘さは喉に残る。

硝石の匂いより、ずっと厄介に残る。


次の街へ。

次の夜へ。


静かな暗殺者として。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ