第二十話 会計室の鍵と、雪の上の息
雪は降り続けていた。
白い世界は足跡を残す。足跡を残す夜は、暗殺者に不向きだ――と言う者もいる。だがアッシュにとっては逆だった。残るものがある夜ほど、残さない技術が冴える。
ヴァイスブルクの伯爵府は丘の上にある。城壁は白い石で、雪と同化して輪郭が曖昧だった。見張りの松明だけが、壁を“存在”として浮かび上がらせている。
アッシュは正面から行かない。
裏門も使わない。
この街の裏はもう動いている。裏へ回れば、裏の目にぶつかる。
だから、上から入る。
屋根――ではない。
伯爵府の外壁に沿って伸びる雨樋を辿り、二階の小窓へ。雪が積もっている場所は避ける。雪は落ちる音を持つ。石の露出した縁だけを拾う。
窓は小さい。だが鍵は堅牢ではない。伯爵府の鍵は“鉄”で守られているのではなく、紙で守られている。
開ける必要がない。
開いている時間を見つける。
夜番が巡回で通り過ぎる瞬間、侍女が換気のために窓を僅かに開ける。
その僅かが、暗殺者の入口だ。
アッシュは滑り込む。
室内は暖かく、香が薄く漂う。硝子の街の甘い香ではない。重く、品がある。権力の香だ。
(目標:レオポルト。場所:会計室の奥)
ジョージアが言った“伯爵の財布”。
財布は人だ。人が生きている限り、金は流れる。
金の流れを止めるには、紙を燃やすより、紙を書いている指を止める方が早い。
廊下へ出る。
足音は吸わせない。絨毯は音を消すが、同時に“柔らかい沈み”を残す。沈みの癖は、見張りに気づかれる。
だから、絨毯の縁、石床の境目だけを歩く。硬い場所は音を出すが、足を乗せる時間を短くすれば音は残らない。
角を曲がると、夜番が一人立っていた。槍を持ち、背を壁に預け、眠りかけている。
眠りかけの見張りが一番厄介だ。夢と現実の境目で、警戒の理屈が跳ねる。
アッシュは近づき、見張りの肩に軽く触れた。
驚かせない。気づかせない。
ただ、眠りを深くする。
耳の後ろ。
針。
浅い毒。
一分もすれば、彼は“自分の意思で”座り込む。
見張りの膝が折れ、槍先が床に当たりそうになる。
アッシュは槍を掴み、音が出る前にそっと壁へ立てかけた。
息だけが残る。
息は記録されない。
会計室は地下に近い。
金庫は地下にあるが、会計室は半地下。湿気を避けるため、石壁に通気孔がある。
通気孔から漏れる灯り。
夜に灯りがある部屋は、働いている部屋だ。
扉の前に二人。
護衛ではない。書記だ。紙を持ち、鍵束を持つ。
剣より危険な種類の人間。
書記の一人が言う。
「今日の集計は終わったか」
もう一人が欠伸をする。
「終わるわけがない。
雪が降ると、金が動く」
金が動く。雪と一緒に。
ジョージアの言葉がよぎる。白い金。雪のような金。
アッシュは二人の背後へ回った。
一人目の口元に布。
二人目の首筋に針。
声と動きを同時に奪う。
二人が崩れる。
紙が床に落ちる音が出そうになる。
アッシュは紙を空中で掴み、胸元へ押し込んだ。紙の音は紙で消える。
扉を開ける。
鍵は使わない。
内側は施錠されていない。会計室は“入れる者が限られている”ことが錠前の役目だ。
室内は暖炉が小さく燃え、机がいくつも並ぶ。
帳簿。封筒。印章。銀の秤。
そして奥にもう一枚の扉。鉄が少し厚い。あれが“奥”だ。
机の前に男が一人。
髪は灰色、背筋が真っ直ぐ。服は地味だが、布の質が良い。指先が白い。墨で汚れていない。
――紙を書かない男。紙を書かせる男。
男は顔を上げた。
「遅い」
声が静かすぎて、アッシュは一瞬、こちらが先に待たされていた錯覚を覚えた。
「お前が……アッシュだな」
名を知っている。
それはつまり、相手が“会計室の奥”を名乗るに足る存在だ。
「レオポルトか」
「そう呼ばれている」
男は微笑まない。
微笑みを武器にしないタイプだ。数字だけが武器。
「誰の依頼だ」
「依頼は受けない」
アッシュが言う。
レオポルトは頷いた。
「知っている。
お前は依頼を受けているのではなく、返礼で動いている」
ジョージアの言葉が、相手の口から出た。
この瞬間、仕事の質が変わる。
「……どこで知った」
「金は道を知っている」
レオポルトが机の上の帳簿を閉じる。
「ヴァルターも、ローテンも、駒だった。
その駒が消えるなら、次を置く。
だが、お前は駒ではない。歩く」
「止めるために来た」
「止められない。
ここは街の財布だ。財布を止めれば、街が死ぬ」
「街は生かせと言われた」
アッシュが言うと、レオポルトは初めて目を細めた。
「なら、私を殺せない。
私が死ねば、この帳簿は燃える。
燃えれば配給が止まり、工房が止まり、兵が止まる」
理屈は正しい。
会計係の理屈はいつも正しい顔をしている。
正しい顔のまま、人を殺す。
アッシュはゆっくりと近づいた。
机の端まで。
そして、帳簿を見た。
そこには数字だけではなく、名前が並んでいた。
工房の職人の名。配給量。差引。
そして、ある欄に小さく書かれている。
――「事故処理費」
――「雪夜点検費」
――「口止め費」
レオポルトは、数字で殺す男だ。
だが、その数字は“街を守る”という顔をしている。
「お前は伯爵を守っているのか」
アッシュが問う。
「伯爵は役だ。守っていない。
守っているのは、仕組みだ」
「仕組みのために、人を消す」
「消えるのは、余りだ」
余り。
またそれだ。
アッシュは言った。
「余りじゃない。
足りないのは、お前の目だ」
レオポルトは静かに椅子から立つ。
「私は現実を見ている。
雪が降れば、腹は減る。
腹が減れば、盗みが増える。
盗みが増えれば、秩序が壊れる。
秩序が壊れれば、死者は増える」
「だから先に殺す?」
「だから先に“処理”する」
言葉が違うだけで、やっていることは同じだ。
アッシュは外套の内側から、一本の細い硝子片を出した。
前夜の工房で作られていた刃。
光を吸う薄さ。雪の夜に似合う刃。
レオポルトが目を動かす。
「硝子か。
なるほど。火花が出ない」
「騒がせない」
「しかし、私が死ねば――」
「死ぬのはお前だけだ」
アッシュは言った。
「財布は止まらない。
財布を持つ手を、別の手に替える」
レオポルトは眉を動かす。
「誰が」
「伯爵だ」
「伯爵は数字が読めない」
「読ませる」
アッシュは机の上の帳簿から、ある頁だけを抜いた。
事故処理費の頁。
口止め費の頁。
雪夜点検費の頁。
それを二枚に分ける。
一枚は火鉢へ。
燃やす。
証拠を消すのではない。習慣を消す。
もう一枚は折り畳み、封筒へ入れる。
封筒には伯爵の印が押せる印章が机上にあった。会計室の奥は、印を持つ。
アッシュは封をしない。
封をすれば、誰かが開けた痕が残る。
開けた痕が残れば、言い訳が生まれる。
封筒を、扉の外の書記の胸に差し込む。
彼は眠っている。
だが、朝になれば目覚める。
目覚めた者は、自分の胸にある封筒を“偶然”だと思えない。
レオポルトが低く言う。
「……お前は私を殺す前に、仕組みを壊そうとしている」
「壊すんじゃない」
アッシュは硝子片を持ち直す。
「蝶番へ」
言葉は短い。意味は長い。
鍵穴をこじ開けるのではない。扉そのものの回転を変える。
レオポルトは一歩引いた。
椅子の影に手を伸ばす。短剣。やはり持っている。
会計係は最後に刃を隠す。
アッシュは踏み込む。
硝子片は喉ではなく、脇腹へ。
致命ではない位置に刺し、身体を丸めさせる。
声が出そうになる。
布。
口元を塞ぐ。
そして、革紐。
絹ではない。革。
首に回す。
位置を決める。
力は必要ない。血管を潰すだけ。
レオポルトの指が、机の縁を掻く。
だが、硝子片の痛みで力が入らない。
声も出ない。
暖炉の火が小さく鳴るだけ。
三十秒。
四十秒。
終わり。
アッシュは革紐を外し、レオポルトの首元を整えた。
衣服の乱れを直す。
死体が“襲撃”に見えると、街は剣を振るう。剣が振るわれれば、無関係の者が死ぬ。
机の上に、紙を一枚置く。
短い文。
――会計室奥、交代
――処理費、廃止
署名はない。
署名がない紙ほど、強い時がある。誰の名でもないからだ。
外へ出る。
書記たちは眠っている。
夜番も、廊下で座り込んだままだ。
雪の中へ戻る。
足跡は残る。
だが、アッシュは城壁の外へ出る前に、馬の蹄跡の列へ自分の足跡を重ねた。
雪の足跡は“混ざれば”消える。
夜明け。
伯爵府は静かに騒いだ。
叫びはない。鐘も鳴らない。
ただ、伝令が走り、扉が開き、紙が動く。
昼。
掲示板に通達が出た。
――会計室の再編
――事故処理費の見直し
――雪夜点検の一時停止
完全な勝利ではない。
だが、火種は摘まれた。
爆発は先送りではなく、消火だ。
夕方、アッシュが街道へ出ると、紺の幌の馬車が待っていた。
ジョージアが窓を少しだけ開ける。
「終わったか」
「今夜は」
アッシュが言うと、ジョージアは小さく頷いた。
「余計な血は」
「流していない」
「では、返礼は受け取ったな」
ジョージアは外套の内側から、小さな布袋を投げた。
中身は金ではない。
白い砂糖菓子だった。雪みたいに白く、口に入れるとすぐ溶ける。
「甘いものは、長旅に要る。
……生きて戻れ、アッシュ」
アッシュは袋を受け取り、何も言わずに歩き出した。
甘さは喉に残る。
硝石の匂いより、ずっと厄介に残る。
次の街へ。
次の夜へ。
静かな暗殺者として。




