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静かな夜を歩く者  作者: 和泉發仙


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第二話 祈りの街で、刃は抜かれない

丘を越えると、街が見えた。


城壁は低く、代わりに鐘楼が高い。

白い石の教会が、まるで街そのものの背骨のように立っている。川の支流が石橋の下を流れ、橋のたもとには露店が並び、麦の匂いと獣脂の匂いが風に混ざっていた。


街の名は「サン・エルミナ」。


入り口の木札に、祈りの言葉と同じ大きさでこう刻まれている。

――奇跡の水、授かる者は清められる。


アッシュはその文言を見上げ、目を細めた。


(売り文句だ)


奇跡は信じるものだ。

だが、売り物にした瞬間、信じる側の喉元に縄がかかる。


門番は、旅人の荷を軽く確かめるだけで通した。武器の持ち込みに厳しい街ではない。厳しいのは別のところだ、と言いたげに、門番は教会の方を一度見てから目を逸らした。


石畳を進む。人は多い。

巡礼の杖を持った者、子どもを抱いた女、包帯を巻いた老人。彼らは同じ方向へ歩いている。教会の裏手――湧き水のある場所だ。


広場の中央には、木の壇が組まれていた。

壇上には桶が並び、白布がかけられている。布の上に、十字の印が縫い込まれていた。

その周りには、教会の小姓のような少年が数人。彼らは硬い表情で、列の人々に銅貨を要求している。


「一人につき二枚。子どもも同じだ。清めは等しく」


等しい、と言った。

だが、等しいのは支払いだけで、救いは等しくない。


列の一番前にいた女が、懐を探り、銅貨を握りしめる。指が赤く腫れている。彼女の腕には、薄い紫の斑点が浮いていた。病だ。熱があるのだろう。顔色が悪い。


女が桶の水に手を伸ばすと、小姓が棒で指を叩いた。


「先に支払いだ」


女は震えながら銅貨を差し出した。

小姓は銅貨を取ると、桶の縁にひしゃくを置き、儀式めいた動作で水をすくう。女の額へ、少量だけ垂らす。


「これで清められた。次」


女は何か言いたげだったが、言えなかった。

後ろの列が押してくる。彼女は桶の前から押し出されるようにどいた。救いが欲しくて来たのに、得たのは冷たい水滴だけだった。


アッシュは広場の端に立ち、その流れを見た。


(この街は、夜に騒がしくなる種類ではない)


昼から、すでに騒がしい。

だがその騒がしさは叫びではなく、信仰の顔をした焦燥だ。


彼は宿を探さず、まず酒場に入った。教会の街にも酒場はある。信仰が強いほど、人は夜に別のものを求める。


店内は薄暗く、煙草の匂いと、酸っぱい葡萄酒の匂いが重なっている。

カウンターの女主人は、客の顔を見て値段を変えるような目をしていなかった。ただ疲れている。


アッシュが席に着くと、女主人は水を置いた。


「巡礼かい」


「旅だ」


「ここは旅人が多い。水があるからね。……奇跡の水」


皮肉の響きがあった。

彼女は声を落とし、布巾を絞りながら言った。


「病が流行ってる。熱と斑。触れたら移るって話だ。皆、怖い。だから水へ並ぶ。並んで、金を落とす。教会は金を集める」


「教会が病を撒いたとは思わない」


アッシュが言うと、女主人は鼻で笑った。


「そんなことは言わないよ。言えない。

 でもね、教会が止められることまで止めないのは、どういう意味だろうね」


アッシュは水を飲む。

喉が潤うだけで、答えは潤わない。


酒場の奥で、男が二人、ひそひそと話していた。

「水を飲んだら治った」

「飲んだのは司祭の親戚だけだろ」

「でも、清めを受けたら……」

「清めで治るなら、なぜ葬儀が増えてる」


どれも確かではない。

確かではないのに、人を動かすのに十分だった。


その時、扉が開いた。

外気が流れ込み、灯りが揺れる。


入ってきたのは、教会の服を着た男だった。司祭ではない。助祭のような立場だろう。彼の背後に、腕の良さそうな男が二人ついている。衣服は質素だが、歩き方が違う。剣のある生活をしている。


助祭は店内を見回し、女主人に声をかけた。


「寄付の箱を」


女主人が一瞬だけ唇を噛んだのを、アッシュは見た。

彼女は棚の下から木箱を出し、黙って差し出す。


助祭は箱を持ち上げ、軽く振った。

音が少ない。中身が少ないのだ。


「少ないな」


女主人は顔を上げない。


「今月は……客が払えない日が多い」


「払えない? 病ならなおさら祈りが必要だ。祈りには支えが必要だ。支えは金だ」


助祭の理屈は滑らかだった。

滑らかすぎて、人の腹の底に刺さる。


護衛の男が一歩前へ出て、女主人の肩を強く掴んだ。


「次は、足りるようにしろ」


女主人は「はい」とだけ言った。

「はい」と言うしかない声だった。


助祭は箱を抱え、扉の外へ出ていく。

護衛がその後を追う。


店内の空気が少しだけ緩む。だが誰も声を上げない。祈りの街では、声を上げた者から順に悪人にされる。


アッシュは席を立ち、女主人に銀貨を置いた。

女主人は銀貨を見て、首を振る。


「いらない。水だけだ」


「水には値段がある」


アッシュが言うと、女主人は小さく笑った。


「なら、その値段は外で払ってきな」


アッシュは銀貨をそのまま置き、外へ出た。


教会の裏手へ回る。

湧き水の列はまだ続いていた。夕暮れが迫り、冷えた空気が人々の肩をすぼめる。列の端に、ひどく痩せた少年がいた。膝が汚れている。靴が片方ない。


少年は列に並ぶのではなく、列を見ていた。

水が欲しいのではない。誰かを待っている。


アッシュが近づくと、少年は警戒し、すぐに目を逸らした。

だが、逃げない。逃げる余力がないのか、逃げる必要がないと思っているのか。


「誰かを探している」


アッシュが言うと、少年は唇を噛んだ。


「……姉さん」


「病か」


少年は頷く。


「熱があって、斑が出て……。でも、清めに二枚いるって。姉さん、銅貨を持ってない。だから俺が……」


少年は懐を探り、しわくちゃの布を出す。

中には銅貨が一枚だけあった。


「あと一枚、いる」


「盗むか」


少年は顔を上げた。目が怒りと恐れで揺れている。


「盗まない。盗んだら、姉さんは救われないって言われた。

 清めは、きれいな人が受けるものなんだって」


教会がそう言ったのだろう。

清めを受ける資格がある者とない者を、金と“きれい”で線引きする。


アッシュは少年の顔を見た。

この街の正義は、少年を泥の側に置く。泥の側に置かれた者が、泥を踏まないように必死になっている。


「姉はどこだ」


少年は教会の裏にある古い小屋を指さした。

巡礼用の宿舎の外れ。人目につかない場所だ。


アッシュは小屋へ向かった。

扉は薄い木で、隙間から灯りが漏れている。中に入ると、若い女が寝台に横たわっていた。頬が火照り、汗で髪が額に張りついている。腕には紫の斑点。息は浅い。


女は目を開け、アッシュを見たが、焦点が定まらない。

彼女は声を出そうとして咳き込んだ。


少年が慌てて布を当てる。


「姉さん、飲む? 水……」


「水は……」


女は苦しそうに首を振る。

「水が嫌」ではない。「水に意味がない」と分かっている。分かっているのに、少年のために否定できない。


アッシュは部屋を見回した。

薬草の束。湯を沸かす鍋。粗い布。――手当てをしようとしている。だが、素人の手当てだ。限界がある。


(刃の出番ではない)


彼は短剣に手を伸ばさなかった。

代わりに、外套の内側から小さな包みを取り出す。乾燥させた葉と粉。街道で買った、熱を下げる薬草だ。万能ではないが、何もしないよりはいい。


「これを煎じろ。湯を切らすな。汗を拭け。水は飲ませろ」


少年は目を見開いた。


「……清めは?」


アッシュは少年を見た。


「清めは、ここでやる」


少年は意味が分からない顔をした。

アッシュは床の汚れた桶を見つけ、湯を入れさせた。布を浸し、女の額と首筋を拭う。動きは丁寧で、無駄がない。奇跡ではなく、手当てだ。


女の呼吸が少しだけ深くなる。

それを見て、少年の肩の力がほんの少し抜けた。


アッシュは少年に言った。


「外へ出るな。今夜は誰にも会うな」


「でも、銅貨……」


「要らない」


少年は食い下がりそうになったが、アッシュの目を見て言葉を飲み込んだ。

その目は優しいわけではない。だが、嘘をつかない目だった。


小屋を出ると、夜が落ちていた。

教会の鐘楼が黒く空に突き刺さり、広場の灯りが揺れる。


アッシュは、教会の裏口に回った。

助祭の男の帰り道を見ていた。寄付箱を持ち、護衛とともに裏手の小さな建物へ入る。教会の倉。扉は頑丈だが、見張りは甘い。祈りの街の者は、教会の裏を覗かない。覗くこと自体が罪になるからだ。


彼は屋根に上がり、窓の隙間から中を覗いた。


倉の中には箱が積まれていた。

寄付箱、献金袋、銀貨、銅貨。

そして薬草と酒。布と酢。消毒に使えるものが揃っている。だが、それは街に回っていない。


助祭が言う。


「今夜はこれだけか。巡礼が減った。噂が悪い」


護衛が笑う。


「噂が悪いなら、噂を変えればいい。明日、井戸から“治った者”を一人出せ。泣き叫ばせろ。奇跡だと言わせろ」


助祭は頷いた。


「……司祭には、どう報告する」


「司祭は祈ってる。祈りの間でな。金が増えれば、祈りも増える」


祈りの間。金の間。

言葉が混ざっている。


アッシュは静かに窓から離れた。


(殺せば簡単だ)


助祭を殺せば、護衛を殺せば、倉の鍵を奪えば、今夜のうちに終わる。

だがそれは、この街の“正義”を揺さぶる。揺さぶれば、反動が起きる。教会を敵に回した街は、別の形で血を流す。信仰は刃より重いことがある。


彼が望むのは、勝利ではない。

静けさだ。明日、少年が姉の汗を拭ける静けさ。女主人が酒を注げる静けさ。


(なら、別の終わらせ方だ)


アッシュは倉の裏へ回った。

そこには川へ続く細い水路があり、木の板で蓋がされている。倉の床下から、余ったものを捨てるための穴だろう。臭いがする。中身をごまかすために、汚れに紛れさせる仕組みだ。


彼は板を外し、倉の床下へ潜った。

暗い。湿っている。鼠の気配。

だが、これは慣れている種類の暗さだ。


床板の隙間から、倉の箱の影が見える。

寄付袋の紐。薬草箱の印。護衛の靴。


アッシュは小さな袋を取り出し、床板の隙間に粉を撒いた。粉は軽く、目に見えにくい。だが水を含めば臭いが立つ。腐敗の臭い。人は臭いに弱い。臭いは噂より早く広がる。


次に、寄付袋の一つの紐をわずかに切る。

切り口が見えないように、布の繊維を毛羽立たせる。袋の底から、少しずつ銅貨が落ちるように。

落ちる銅貨は床板の隙間から水路へ落ち、川へ流れる。明日、川辺で誰かが拾う。拾えば噂になる。「教会の金が川に流れている」と。


最後に、薬草箱の印を、わずかにずらす。

印は封の役割だ。ずれれば、内部の者が疑われる。疑いは内側から崩す。外から剣を振るうより早い。


作業は短かった。

刃は使ったが、誰にも向けていない。血も出ない。だが、これで歯車が噛み合わなくなる。


アッシュは床下から這い出し、水路の板を元に戻した。

汚れに紛れ、彼の痕跡は残らない。


夜明け前、彼は酒場へ戻った。

女主人は掃除をしていた。眠れないのだろう。疲れた目でアッシュを見る。


「まだいたのかい」


「水を」


女主人が水を置く。


アッシュは言った。


「明日、川辺へ行け。子どもが拾うものがある。拾ったら、教会の前で落とせ。誰かに見せろ。怒る必要はない。ただ、見せろ」


女主人は一瞬、理解できない顔をした。

だが、すぐに視線が鋭くなる。街で生きている目だ。


「……あんた、何者だ」


アッシュは答えない。


女主人は水を拭いた布巾を握り、短く頷いた。


「分かった。見せるだけだね。……それなら、できる」


アッシュは席を立った。


外はまだ暗い。

だが空の端が薄く白み始めていた。


小屋へ戻ると、少年が扉の前で待っていた。目の下に隈。眠っていない。


「姉さんは……」


アッシュは中へ入り、女の額に触れた。まだ熱いが、汗が出ている。呼吸が少し落ち着いている。峠は越えるかもしれない。


「今夜は生きる」


少年の目が潤む。

泣きそうになりながら、彼は言った。


「……清めは、いらないのか」


「要る者もいる。要らない者もいる」


それがアッシュの答えだった。

正義を語らないのと同じように、信仰も断定しない。人によって違う。祈りで立っていられる者もいる。祈りで膝を折らされる者もいる。


少年は頷いた。理解したわけではない。だが、今はそれでいい。


アッシュは外へ出た。

街の方角から、鐘が鳴る。朝の鐘だ。いつも通りの、街の一日を始める音。


広場へ向かう途中、川辺で人が集まっているのが見えた。

子どもが銅貨を拾い、騒ぎ、女がそれを取り上げ、教会の方を指差している。


「川から出てきたんだ!」

「教会の印があった!」

「どういうことだ!」


怒号にはならない。

だが、声が上がる。祈りの街の者たちが、初めて“自分の声”で話し始める。


教会の小姓たちが慌てて列を整えようとする。

助祭が出てくる。顔色が変わっている。倉の方へ目を走らせる。護衛が出てくる。視線が鋭い。だが、今は刃を抜けない。抜けば、街が騒ぐ。騒げば、噂が大きくなる。


アッシュはその様子を遠くから見た。


(刃は要らない)


この街の“夜”は、血で終わらせる必要がなかった。

静けさは、時に刃よりも、ひとつの疑いで戻る。


宿へ戻り、荷を取り、街門へ向かう。

門番は昨日と同じ顔で立っていたが、今日は目が少しだけ開いている。


「出るのか」


「そうだ」


門番は一瞬だけ躊躇い、そして言った。


「……街は、変わるのか」


アッシュは門の外へ一歩踏み出してから答えた。


「変わるかどうかは、街が決める」


門番は黙って頷いた。

その頷きは、祈りではない。自分の意思で、首を縦に振った動きだった。


アッシュは街道を歩き始める。

背後で鐘が鳴り続ける。朝の鐘が、いつもより少しだけ長く聞こえた。


次の街へ。

次の夜へ。


静かな夜を歩く者として。

挿絵(By みてみん)


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