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静かな夜を歩く者  作者: 和泉發仙


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第十九話 硝子の仮面と、雪の返礼

街道は北へ伸びていた。

雪が早い年で、風が刃のように頬を撫でる。火薬の匂いを背に捨てても、指の節に残る冷えは捨てられない。


アッシュが次に入ったのは、ヴァイスブルクという小都市だった。白い石の城壁と、硝子の工房が混ざる街。裕福そうに見えて、息が浅い。冬のせいではない。誰かに首を絞められている街の息だ。


宿の帳場で、男が鼻をすすりながら鍵を渡した。名はエルヴィン。鼻先が赤いのは寒さではなく、粉塵のせいだ。


「一晩か」


「そうだ」


「なら、夜は裏口から出るな。雪の夜は足跡が残る」


「足跡は消える」


「雪は、消えないさ」


アッシュは答えず、二階の小部屋へ上がった。窓から街を見下ろす。通りは整っている。灯りは一定間隔。だが、屋根の上にいる“気配”が二つ。見回りではない。見回りの気配は規則的だ。これは獣のように不規則だ。


(追っ手だ)


裏切りの残り香は、いつも遅れて追いかけてくる。

前の街で死んだ仲介商会の名――フリードリヒ・ローテン。あれを“使い”だと言ったリディア。彼女の言葉が真実なら、彼女の背後がこちらを探す理由は二つある。


一つは、口封じ。

もう一つは、制御。


暗殺者を道具にしたい者は、道具が勝手に歩くのを嫌う。


夜。

雪が降り出した。音は吸われ、街が一段静かになる。静けさは味方だが、同時に罠でもある。音が消える夜は、死も消える。


アッシュは外套の襟を立て、裏路地へ降りた。目的は酒ではない。情報だ。情報の匂いは、酒場の床に染みている。


小さな酒場は工房区画の端にあった。暖炉の火が細く、客は少ない。だが視線は多い。

店主は無口で、アッシュに水を置くと目だけで問いかけた。


「旅人か」


「通過だ」


「通過するなら、今夜は通るな」


「なぜ」


店主は顎で奥を示した。そこに、硝子職人らしい若い男が座っている。指先が布で巻かれている。火傷と切り傷。彼の名はリヒャルト。


リヒャルトはアッシュを見ると、口を開かずに頷いた。声を出さない合図だ。

アッシュも頷き、店の裏へ回る。


裏は狭い物置だった。樽と薪の匂い。リヒャルトが低い声で言う。


「お前、外から来たな」


「そうだ」


「なら聞け。今夜、工房の一つが“点検”される」


点検。

どの街でも、人が消える前に使われる言葉。


「誰が」


「監督官代理のクラウス。それと、紙の男」


「紙の男?」


リヒャルトは歯を食いしばる。


「名前を言うと、翌日から仕事が消える。だが……噂では、別の街の“裏”と繋がってる」


アッシュは即座に理解した。繋がっているのは街ではなく、人だ。

リディアの背後――あるいは彼女が守ろうとした“仕組み”の残党。


「点検の目的は」


「硝子の“反射板”。軍に納める品だ。

 だが、最近は違う用途が混じってる。薄い刃みたいに加工して……喉を切る」


硝子で喉を切る。

音が出ない。刃こぼれが残らない。仕事人の道具としては悪くない。


「誰が止める」


リヒャルトは笑った。乾いた笑いだ。


「止めるやつは、いない。

 止めたら、点検される側が死ぬ。だから皆、黙る」


アッシュは物置の壁に背を預けた。


「工房の場所は」


リヒャルトが短く言う。


「北の第七码。煙突に白い帯が巻いてある」


それだけで足りた。


外へ出ると、雪が強くなっていた。足跡が残る夜。だからこそ、足跡を“混ぜる”。通りを歩くふりをし、曲がり角で一度戻り、別の路地へ入る。雪の上の歩みは、正直すぎる。正直なものは利用される。


北の第七码。

白い帯の煙突。

工房の扉は閉まり、内側だけに灯りがある。点検は夜に行われる。昼に行えば、目が増える。


屋根へ上がる。瓦の上に雪が薄く積もり、足が滑る。だが、音は出ない。

窓の隙間から中を見る。


作業台の上に、薄い硝子板が並んでいた。反射板ではない。刃だ。

男が三人。職人が一人、監督官代理クラウス、そして――紙の男。


紙の男は外套の袖口が煤で汚れている。火薬の街の汚れ方。

顔は見えない。だが、背の癖が似ている。ヴァルター・ハーゼの系統。紙の癖は、身体にも残る。


クラウスが言う。


「今夜の点検は短く済ませろ。

 明日の朝には“事故”の書類が必要だ」


職人が震える声で言う。


「事故とは……誰が」


紙の男が淡々と言った。


「誰でもいい。数が合えば」


数。余剰。処理。

どこでも同じ言葉で人を殺す。


アッシュは屋根の影から、室内へ滑り降りた。背後。距離、半歩。

最初に落とすべきは剣ではない。声だ。


職人の口元に布を当て、息を止める。驚きの声が出る前に沈める。

次に、クラウスの腕。関節を折らない。折れば音が出る。肩を外して動きを奪う。

クラウスが呻く。だが叫べない。


紙の男が振り返り、短剣を抜く。

暗殺者ではない。抜き方が雑だ。だが、雑な刃は危険でもある。


「誰だ」


アッシュは答えない。

答えれば、相手の世界に乗る。暗殺者は乗らない。


紙の男が突く。

アッシュは半歩ずらし、刃を空に通す。そのまま手首に針。耳の後ろではない。今は眠らせる必要がない。必要なのは、喋らせることだ。


紙の男が瞬きをし、膝が落ちる。

毒は深くない。意識は残る。身体だけが重くなる。


アッシュはクラウスの前に立ち、短く問う。


「依頼主は誰だ」


クラウスは痛みで顔を歪め、息を吐く。


「知らん……俺はただ、書類を回すだけだ」


「書類はどこへ行く」


「……北の伯爵府の“会計室”だ。そこに、印が集まる」


伯爵府。

この街の上。

だが“会計室”という言葉が不自然に具体的だ。彼は本当にそこへ書類を送っている。


アッシュは紙の男の胸元を探った。薄い紙束。許可証。出納票。

そして、名簿の切れ端。


――「雪夜の点検」

――「事故対象:硝子工房 第七码」

――「立会:クラウス」

――「確認:レオポルト」


レオポルト。初めて出た名だ。

誰かの名を出すとき、紙の男は自分を守る。つまり、上がいる。


「レオポルトはどこだ」


クラウスが震えながら言う。


「伯爵府……会計室の奥だ。

 だが、近づけん。鍵が要る。印が要る」


印。鍵。紙。

この世界はいつもそれだ。


アッシュは職人の口元の布を外した。職人は咳き込み、涙目でアッシュを見る。


「……助かったのか」


「今夜は」


アッシュは短く言い、彼の手首に硝子粉の付いた布を巻き直した。

血が出ていないことを見せるためだ。血が出ていないと、人は“事故”にできない。


クラウスを見下ろし、アッシュは最後の質問をした。


「この事故で、誰が得をする」


クラウスは唇を噛み、吐き捨てるように言った。


「……伯爵は得をしない。

 得をするのは、伯爵の“財布”だ」


財布。会計室。レオポルト。

線が繋がる。


アッシュはクラウスを殺さなかった。今ここで殺せば、書類が別の手に移るだけだ。

代わりに、彼の外套の内側に紙片を差し込む。名簿の切れ端の写し。証拠ではない。“逃げ道”だ。


「明日、これを伯爵の執務室に出せ」


クラウスが唸る。


「俺が死ぬ」


「死にたくないなら、出せ」


暗殺者の脅しは、怒鳴らない。

怒鳴らないから、耳に残る。


紙の男は床に伏せたまま、かすれた声を出した。


「……お前、何者だ」


アッシュは答えず、紙の男の懐から小さな封筒を抜いた。封はされていない。だが、宛名がある。


――リディア・フォン・エーレンベルク 殿


アッシュの指が一瞬止まる。

ここで彼女の名が出るのは早すぎる。

つまり、彼女は“上”にとっても都合のいい札だ。守るつもりが、札にされている。


アッシュは封筒を開けない。

開ければ、彼女の言葉を信じることになる。信じることは、縛られることだ。


代わりに封筒を火鉢へ落とした。

紙は静かに燃える。声を上げず、灰になる。

灰は追えない。


夜明け。

街はまだ白い。だが、工房第七码から煙は上がっていた。炉の煙だ。事故の煙ではない。


掲示板に紙が貼られる。


――「雪夜の点検」中止

――理由:監督官代理の負傷


負傷。事故。

だが、死者は出ていない。

紙の勝ち方としては十分だ。


アッシュは宿へ戻らず、門へ向かった。雪の中、屋根の影が二つ、まだ動いている。追っ手は消えていない。消えないなら、こちらが消えるだけだ。


門前で、思いがけない馬車が停まっていた。濃紺の幌。車輪は新しい。

馬車の横に立つ女は、白い毛皮の外套を纏い、顔を半分だけ覆っている。だが、目だけで分かる。冷たいのに、どこか人を見捨てない目。


「アッシュ」


名を呼ばれた。

呼ばれて、アッシュは止まった。止まったのは驚きではない。名を呼ばれた場所が“外”だったからだ。外で名を呼ぶのは、脅しではなく召喚に近い。


女は名乗る。


「ジョージア・フォン・ギルバート。

 ……お前の“お館さま”でいいか」


声は静かで、拒めない温度がある。

アッシュは一礼もしない。ただ、視線を合わせる。


「俺は去った」


「去った者ほど、戻る道を知っている」


ジョージアは薄い封筒を差し出した。封蝋はない。だが紙質が違う。

重要なものほど、封をしない。開封の痕を残さないために。


「この街の会計室に、雪のように白い金が流れている。

 白は罪になる。……お前も見ただろう」


「見た」


「なら、頼む」


ジョージアは一拍置いた。


「レオポルトを消せ。

 ただし、伯爵の首は落とすな。街は生かせ」


条件は明確だった。

暗殺の条件が明確な依頼は、珍しく、そして重い。

だが、重い依頼ほど、アッシュには向いている。


「報酬は」


アッシュが問うと、ジョージアは答えた。


「返礼だ。

 お前が外の世界を見たいと言った時、背を押した。

 その返しを、今受け取れ」


返礼。

借りの形を整える言葉。


アッシュは封筒を受け取らず、ただ言った。


「今夜で終わらせる」


ジョージアは頷いた。


「鐘は鳴らさない。

 雪の上で、静かに終われ」


馬車が去る。

雪の道に轍が残る。消えない線。だが、線があるから辿れる。


アッシュは街へ引き返した。

次の夜へ。

次の標的へ。


静かな夜を歩く者として。

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