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静かな夜を歩く者  作者: 和泉發仙


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第十八話 硝石の匂いと、二枚目の依頼書



街に入った瞬間、鼻の奥が痛んだ。

硝石の匂い。鉄と油の匂い。火薬の前段階の匂い。


街の名は シュタインフェルト。

大砲の鋳造と弾薬の加工で潤う工房都市だ。表向きは軍需で生き、裏では“事故”で数字を整える。火薬の街は、いつも二つの爆発を抱えている。炉の爆発と、人心の爆発。


アッシュは門で止められなかった。

ここでは剣より荷車が優先される。人間は流れの邪魔にならない限り、数に入らない。


宿は工房区画の外れ、煤の匂いが届くあたりに取った。

宿主の男は ヨースト と名乗り、鍵を投げるように渡して言った。


「夜は窓を閉めろ。粉が入る」


「粉?」


「硝石だ。

 それから、噂も入る」


部屋は狭い。だが、壁が厚い。音が漏れにくい。

暗殺者には丁度いい。


夕方、アッシュは工房区画を歩いた。

炉がいくつも並び、赤い光が窓越しに揺れる。職人の顔は黒い煤で汚れている。汚れているのに、目だけが妙に澄んでいる。澄んだ目は、何かを見すぎた目だ。


広場に掲示板があり、紙がびっしり貼られていた。

どれも作業規則、納期、原料配給の通達。だが、隅に小さく同じ文言が繰り返されている。


――火薬庫立入禁止(夜間)

――違反者は処理


処理。

火薬の街の処理は、灰になる。


広場の端で、若い女が立っていた。

作業服ではない。上質な外套。だが、袖口が煤で汚れている。身分の高い者が、わざと低い場所へ来た汚れ方だった。


女はアッシュを見ると、視線を外さずに近づいた。

名を呼ばない。呼べば記録になる。


「あなたが……アッシュ?」


声は小さく、しかし迷いがない。

迷いがない声は危険だ。信じているからだ。


「違うと言えば帰るか」


アッシュが言うと、女は首を振った。


「違うと言っても、私は帰らない。

 探していたから」


「誰だ」


女は一拍置き、名を出した。


「リディア・フォン・エーレンベルク。

 ここの軍需監督官の娘」


監督官。

火薬の街を握る者の家だ。背後に大きい影がある。


「俺に用か」


リディアは外套の内側から紙を一枚出した。

薄いが、前に見たような安っぽい紙ではない。羊皮紙だ。

封蝋は押されていない。だが、角に小さな透かしがある。役所の紙だ。


「依頼」


アッシュは受け取らない。


「誰を」


「ヴァルター・ハーゼ」


知らない名。

だが、火薬の街で名を知られない者ほど、裏で強い。


「何者だ」


「父の部下。帳簿係。

 でも、帳簿だけじゃない。火薬庫の鍵も握っている」


鍵。

火薬庫の鍵は、この街の喉だ。そこを握る者は、街を爆発させることができる。


「なぜ俺に」


リディアは息を吐いた。


「あなたは依頼主を殺した。

 噂で聞いた。裏切った依頼主を、静かに終わらせた」


噂が早い。

噂は火薬より早いときがある。


「それを知って、何を期待している」


「裏切りを、終わらせられる人だと思った」


アッシュは女の目を見た。

怯えがないわけではない。ただ、恐怖より先に決意がある。


「条件は」


「騒ぎを起こさない。

 父に知られない。

 そして……火薬庫を開けさせない」


火薬庫を開けさせない。

つまり、誰かが“事故”を起こす準備をしている。


「ヴァルターが何をする」


リディアは声をさらに落とした。


「工房の職人たちが、反発している。

 配給が減った。賃金も下がった。

 原因は父ではない。父は表の顔。

 裏で数字を動かしているのが、ヴァルター」


帳簿係が数字を動かす。よくある。

だが、火薬の街の数字は、死者の数とも繋がる。


「職人たちが集まる夜がある。

 それを“反乱”にするつもり。

 火薬庫を開けて、爆発させて、首謀者を消す。

 事故にして、工房を締め付け直す」


静かな暗殺ではない。

街ごと殺す算段だ。


「父に言え」


アッシュが言うと、リディアは首を振った。


「父は信じない。

 ヴァルターは父の“耳”でもある。

 告げた瞬間、私が消える」


それもまた、よくある。


アッシュは初めて紙を受け取った。

依頼書は短い。


対象:ヴァルター・ハーゼ

条件:火薬庫の鍵を奪う

結果:今夜中

報酬:不要


報酬不要。

それは最も危険な依頼だ。頼む側の正義が濃すぎる。


「報酬は要る」


アッシュが言うと、リディアは目を見開いた。


「金なら――」


「金じゃない」


アッシュは紙を畳んだ。


「お前は今夜、家にいろ。

 何も知らない顔で朝を迎えろ。

 それが報酬だ」


リディアは唇を噛み、頷いた。


「……分かった」


彼女は去り際、もう一枚の紙を置いた。

薄い紙。町の通達の紙だ。


――火薬庫夜間立入許可

署名:ヴァルター・ハーゼ


許可証。

紙が鍵より先に扉を開ける街だ。


夜。

工房区画の灯りが一つずつ消え、炉の赤だけが残る。

その赤は、人の目を引きつけるための光ではない。背後で何かが動く合図の光だ。


アッシュは屋根を伝い、火薬庫へ向かった。

火薬庫は石造りで、扉は鉄。番兵が二人。銃ではなく槍。火薬の近くで火花を出す愚を避けている。


扉の前に立つ男がいた。

細身で、背は高くない。だが、身振りが大きい。自分が正しいと信じている動きだ。


ヴァルター・ハーゼ。

紙の男。


彼は許可証を見せ、番兵に命じる。


「開けろ。夜間点検だ」


番兵は迷い、もう一人を見る。

もう一人が頷き、鍵束を出す。


鍵は重い。

火薬庫の鍵は、街の命を束ねている。


扉が開く。

中は暗い。湿気を避けるため、空気が乾いている。

木箱が並び、そこに火薬が詰まっている。箱の一つ一つに印。軍の印。税の印。管理の印。


ヴァルターは中へ入る。

番兵も続く。


アッシュは扉が半分閉じた瞬間に滑り込んだ。

足音は出ない。硝石の匂いが足を隠す。火薬庫は音が吸われる。吸われるのは音だけではない。命も吸われる。


ヴァルターが言う。


「箱を一つ、ここへ」


番兵が動く。

ヴァルターは箱の封を切り、粉を確認するふりをする。

そして、小さな布袋を取り出した。布袋の中にも粉。

火薬ではない。もっと細かい粉。硝石を強くした混合物だ。


爆薬の核。

それを箱に混ぜれば、事故は“派手になる”。


「よし」


ヴァルターが言う。


「次は……南の工房の集会場所だ。

 点検のために、少しだけ“余剰”を持ち出す」


余剰。

さっきの街でも聞いた言葉だ。どこでも人を殺す言葉。


番兵が戸惑う。


「持ち出しは――」


ヴァルターは許可証を振る。


「ここにある」


紙が槍を黙らせる。


アッシュは背後から一歩、距離を詰めた。

ヴァルターの首元に、手が届く距離。


ここで殺すのは簡単だ。

だが、鍵が残る。鍵束が番兵に戻る。紙も残る。

今夜の計画は別の手が引き継ぐ。


アッシュは“殺す前に奪う”。

暗殺者の順番は、時に逆だ。


彼は番兵の背後へ回った。

一人目の番兵の肩に手を置き、ほんの少し体重をずらす。

番兵の足が一歩ずれ、木箱に肘が当たる。


箱が倒れる寸前、ヴァルターが怒鳴る。


「何をしている!」


番兵が慌てて箱を抱え直す。

その瞬間、鍵束が揺れる。


アッシュは鍵束の重さだけを抜いた。

手の中に落ちる金属の冷たさ。

音は出ない。金属は音を立てるが、火薬庫はそれを飲み込む。


次に、許可証。


ヴァルターの胸元の紙に手を伸ばすのは危険だ。

だから、別の紙を作る。

アッシュは外套の内側から、小さな薄紙を取り出した。

宿主ヨーストが言った「噂も入る」の意味がここで生きる。宿で拾った投げ捨てられた領収紙。薄いが、印が押せる。


アッシュは番兵が落とした封蝋の欠片を拾っていた。

火薬庫では封蝋がよく使われる。箱の封だ。割れた欠片が床にある。


それを爪で温め、薄紙に押し付ける。

封蝋は完全な印ではない。だが、夜の番兵には十分だ。

紙は“それらしく見えれば”効く。


ヴァルターが袋をしまい、言った。


「行くぞ」


番兵が頷く。


扉へ向かう瞬間、アッシュは前に出た。

影が、紙の男の前へ落ちる。


「誰だ」


ヴァルターが身を固くする。

番兵が槍を上げる。


アッシュは言わない。

言葉は記録になる。記録は火薬になる。


代わりに、ヴァルターの手首を切った。

深くはない。致命ではない。だが、指が開く。

布袋が落ちる。粉が床に散る。


ヴァルターが息を呑む。


「貴様……!」


番兵が槍を突き出す。

アッシュは槍先を掌で逸らし、柄を折らない。折れば音が出る。

ただ、番兵の膝裏を蹴る。

番兵が沈む。槍が床に当たる音が出る前に、アッシュが柄を掴み、そっと置く。


火薬庫で大きな音は出せない。

彼らも知っているから、叫ばない。

叫べない静けさが、暗殺者の味方だ。


ヴァルターは後退し、許可証を掲げた。


「私は許可を――」


アッシュはその紙を見た。

そして、破らずに奪った。


紙を破ると騒ぎになる。

奪えば、紙は黙る。


ヴァルターが短剣に手を伸ばす。

帳簿係は剣を持たないふりをする。だが、持っている。数字の街の者は、最後に刃を隠す。


アッシュは近づいた。

距離、半歩。


首ではない。

胸でもない。


耳の後ろ。

そこに、細い針を刺す。


針は短い。毒は少ない。

火薬庫で毒を使うのは合理的だ。火花を出さない。


ヴァルターの目が揺れる。


「な……」


声が続かない。

身体が重くなる。膝が落ちる。


アッシュは囁かない。

慈悲に聞こえる言葉は、依頼主の側に立つ言葉だ。暗殺者は立たない。ただ終わらせる。


ヴァルターが倒れる前に、口元に布を当てる。

呼気を止める。

完全に止まるまで、二十、三十。

針の毒は眠りを深くする。布は息を奪う。

静かな併用だ。


終わった。


番兵の一人が震え、言った。


「こ、これは……」


アッシュは鍵束を見せた。

そして、薄紙の“それらしい印”を見せた。


番兵は理解する。

理解したくないことも、紙があると理解してしまう。


「……夜間点検だ」


番兵が小さく言った。

自分に言い聞かせる声。


アッシュは頷き、ヴァルターの懐から帳簿の切れ端を抜いた。

火薬の配給量、労務者の名、そして“集会場所”の印。

事故の予定表だ。


それを番兵の胸ポケットに入れる。

彼が明日、どこへ届ければ生き残れるかが分かるように。


火薬庫を出る。

鍵束は持っていかない。持てば追われる。

鍵束は、扉の内側の梁に吊るした。見つかる位置に。

鍵は残る。だが、今夜の鍵ではなくなる。


翌朝、街は荒れなかった。

爆発がなかったからだ。


代わりに、掲示板に紙が貼られた。


――火薬庫夜間点検における不正

――帳簿係ヴァルター・ハーゼ、急病

――一時職務停止


急病。

便利な言葉だが、今回は守るための嘘でもある。


夕方、アッシュは広場の端でリディアに会った。

彼女は外套の袖口を見せた。煤の汚れが増えている。夜に動いた証拠だ。


「終わったの?」


「今夜は終わった」


アッシュが言うと、リディアは息を吐いた。


「父は……何も言わない」


「言えない」


「なぜ」


「自分の耳が腐っていたと認めることになる」


リディアは視線を落とし、そして言った。


「あなたに、もう一つ伝えたいことがある」


彼女は紙を出した。

今度の紙は、さらに薄い。

封も印もない。ただ、名前だけがある。


依頼主:フリードリヒ・ローテン


先の街で死んだ仲介商会の男の名。

リディアがそれを持っている理由は一つしかない。


「その人は……私の“使い”だった」


リディアは言った。


「本当の依頼主は、私」


薄い紙の裏が、ようやく見えた。

裏切りの依頼主は、さらに上の依頼主を隠す盾だった。


アッシュは何も言わない。

驚かない。驚くのは素人だ。暗殺者は整理する。


「父を守るためか」


「街を守るため」


「同じじゃない」


アッシュが言うと、リディアは小さく首を振った。


「違う。

 父が街を守っているふりをして、街が父を守っている。

 だから私は……どちらも壊したくない」


「壊したくないなら、紙でやれ」


「紙は……遅い」


その言葉は正しい。

火薬の街では、遅い紙は爆発に負ける。


アッシュはリディアから紙を受け取らなかった。

依頼主の名が自分の手に残るのは、危険だ。


「借りは返した」


「報酬は?」


「生きろ」


アッシュはそれだけ言い、背を向けた。

リディアは追わない。追えば彼女の正義が重くなる。


街を出るとき、宿主ヨーストが門の近くで待っていた。

彼は何も聞かずに言う。


「粉は、落としたか」


「まだだ」


「なら、次の街で咳をする」


「それでもいい」


アッシュは歩き出した。

硝石の匂いが背中に残る。火薬の街の匂いは、正義と同じで落ちにくい。


依頼主が裏切った。

その裏に、さらに依頼主がいた。

そしてその依頼主は、まだ若く、まだ自分を正義だと思っている。


暗殺者は正義を信じない。

だが、正義が爆発するときだけは、静かに火種を摘む。


次の街へ。

次の夜へ。


静かな夜を歩く者として。

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