第十四話 水路の鍵と、返らない約束
その街では、水が低い場所を流れなかった。
流れるべき場所に流れず、
溜まるべき場所に溜まらない。
だから人も、正しく溺れた。
街の名は リーヴェンハルト。
石畳の下に複雑な水路を張り巡らせた、交易と居住を両立させた都市だ。
上から見れば整っている。だが、下を知る者は少ない。
門を入った瞬間、湿った空気が肌にまとわりついた。
雨は降っていない。それでも街は濡れている。
「……水路の街か」
アッシュは呟き、通行証を見せずに入った。
門番は何も言わない。ここでは水の方が重要だ。
宿は運河沿いにあった。
宿主は痩せた中年の男で、名を オルベルト と言った。
「部屋は二階だ。
夜は窓を閉めろ」
「なぜ」
「水の音が、眠りを奪う」
それは比喩ではなかった。
夜、街を歩くと分かる。
水路の下から、時折、声のような音が響く。
流れに巻き込まれた音ではない。
人が、意図的に閉じ込められた音だ。
昼、広場へ行く。
掲示板には、水に関する告知ばかりが貼られている。
――水路清掃日
――流量調整
――立入禁止区画
その下に、小さな紙。
――未返却の鍵について
鍵。
水路の街では、鍵が命を分ける。
水路管理局の前で、人だかりができていた。
若い男が怒鳴っている。
「鍵を返したはずだ!」
管理官は冷静に答える。
「返却記録がない」
「俺は確かに――」
「記録がない」
記録がない。
この街で、それは水に沈むのと同じだ。
男の名は レオンハルト。
水路清掃員だった。
「鍵が返ってないことになってる。
だから、俺は“水路に入ったまま”扱いだ」
「どういう意味だ」
アッシュが問う。
「清掃中に事故が起きた可能性があるってことだ。
だから俺は、働けない。
事故処理が終わるまで」
事故処理が終わるまで。
つまり、誰かが“死んだことにする”まで。
「家族は?」
レオンハルトは俯く。
「妻がいる。
でも、俺は今、半分死人だ」
アッシュは管理局を見る。
中では、水路図が壁一面に貼られている。
複雑すぎて、人の流れが見えない。
夜。
水音が強くなる。
アッシュは宿の窓を開け、下を覗いた。
水路の縁に、人影がある。
それは クラウディア。
水路の鍵を管理する女だった。
彼女は水面を見つめ、何かを祈るように指を組んでいる。
アッシュが声をかける。
「鍵を返さなかったのは、あんたか」
クラウディアは驚かない。
「返せなかった」
「なぜ」
「返したら、彼が死ぬ」
アッシュは黙る。
「水路清掃は、数字で管理されてる。
鍵の返却がなければ、“未帰還”。
未帰還が出ると、流量調整が入る」
「調整とは」
「水を増やす。
“事故現場”を洗い流すために」
つまり、誰かを事故死させる。
「彼は生きてる」
「だから、返せない」
クラウディアの手には、古い鍵があった。
錆びかけた鉄の鍵。
それは水路の最下層へ入る鍵だ。
「水路の下には、溜まりがある。
流れない場所が」
「人が?」
「……いる」
夜半。
アッシュは水路へ降りた。
クラウディアが案内する。
鍵を使い、扉を開ける。
下は暗く、湿り、音が歪む。
水が流れていない。溜まっている。
そこに、数人の人影があった。
生きている。だが、戻れない。
「事故処理のために、閉じ込められた」
クラウディアが言う。
「生きてると困る人たち」
アッシュは数えない。
数えれば、処理される。
「鍵を返さない限り、上は動かない」
「返したら?」
「水が来る」
アッシュは水路図を思い出す。
複雑すぎるが、要点はある。
「水は、上から来る」
「ええ」
「なら、上を止めればいい」
クラウディアが息を呑む。
「それは……街が止まる」
「一晩でいい」
アッシュは動いた。
上流の調整弁へ向かう。
弁は大きく、重い。
だが、鍵は要らない。
回せばいい。
水が止まる。
街の水音が消える。
静寂。
初めての静けさだ。
朝。
街は混乱した。
水が来ない。
だが、水路の底から人が上がってくる。
「生きてる!」
「事故じゃない!」
声が広がる。
管理局は否定する。
だが、水路に入った者たちが戻った事実は消えない。
レオンハルトは妻の元へ戻った。
鍵は、管理局の机に置かれていた。
返却記録が、書き足される。
――返却済み
――遅延理由:調整作業
調整。
便利な言葉だ。
クラウディアは職を失った。
だが、街を出た。
「約束は?」
彼女が言う。
「水は、正しく流れるようになる?」
アッシュは答えない。
水は、低い場所へ流れる。
正義も同じだ。
アッシュは街を去る。
背後で、水音が戻る。
全ては元通りだ。
だが、一度止まった流れは、人の記憶に残る。
次の街へ。
次の夜へ。
静かな夜を歩く者として。




