第十一話 羊皮紙の市と、数えられない息
その街では、数える音が止まらなかった。
羽根ペンが紙を擦る音。
銅貨が皿に落ちる音。
指で拍を刻む音。
息の音だけが、数えられていなかった。
街の名は「カウフェン=マルクト」。
市が街そのものになった場所だ。常設の市、常設の帳場、常設の秤。
朝から晩まで、何かが数えられている。
門は低く、門番は多い。
剣を持つ者もいるが、目立たない。
目立つのは帳場の列だ。入市税、露店税、通行税。
旅人も例外ではない。
「名と滞在」
「一晩」
「目的」
「通過」
帳場の男は紙に印をつけ、羊皮紙を一枚差し出した。
――滞在許可(一夜)
――夜間外出:不可
「破るなよ」
破れば罰金。
罰金を払えなければ、追い出される。
街に入ると、視界が騒がしい。
布、香辛料、陶器、鉄、羊毛。
声は大きいが、感情は薄い。
ここでは、声は売るために出すものだ。
アッシュは人波を縫い、宿を探した。
宿は多い。だが、どこも似たような顔をしている。
似ているのは安心の証だ。違いがないということは、管理されているということだ。
宿の女将は、帳面を見て鍵を渡した。
「一夜だけだね。
鐘が三度鳴ったら、外へは出ないで」
「出たら?」
「罰金。
払えなければ、荷を差し押さえ」
「荷がなければ」
女将は肩をすくめた。
「働かされる」
働かされる。
それは罰ではなく、計算だ。
部屋に荷を置き、外へ出る。
まだ昼だ。夜の規則は夜に効く。
市の中央に、広い空地があった。
そこに簡易の舞台が組まれ、男が声を張り上げている。
「本日の相場!
羊毛は上がり!
塩は下がり!
明日の朝には変わるぞ!」
人々が集まり、頷き、離れる。
相場は信仰に似ている。信じた者が増えれば、現実になる。
舞台の脇に、別の掲示板があった。
相場ではない。
労働者の掲示だ。
――人手不足
――荷運び:三名
――帳場補助:一名
――夜間警備:二名
その下に、小さな札。
――未登録者は応募不可
未登録。
つまり、紙がない者は息があっても使えない。
掲示板の前で、若い男が立ち尽くしていた。
衣服は擦り切れ、靴底が薄い。
手は働く手だ。だが、目が泳いでいる。
「応募しないのか」
アッシュが声をかけると、男は驚き、すぐに首を振った。
「登録がない」
「なぜ」
「……数に入ってない」
数に入っていない。
この街で、それは存在しないのと同じだ。
「どこから来た」
「北の村。
疫病で……人が減った。
村は登録を失った」
村が登録を失う。
つまり、帳簿から消えた。
「ここへ来た理由は」
男は唇を噛む。
「生きるためだ」
正直な理由だ。
だが、この街では弱い理由だ。
夜。
鐘が一度鳴る。
市は一斉に畳まれ、布が掛けられ、帳場が閉まる。
人の流れが、宿へと吸い込まれる。
アッシュは宿に戻らず、路地へ入った。
規則違反だ。だが、まだ鐘は三度鳴っていない。
路地の奥に、小さな酒場があった。
看板はない。
だが、灯りが漏れている。
中に入ると、数人が酒を飲んでいた。
声は低い。
帳場の外の人間だ。
店主が言う。
「登録は?」
「ない」
「なら、静かに」
アッシュは水を頼み、壁際に立つ。
壁には、紙が一枚貼られている。
――数えられない者の席
冗談のような文字だ。
だが、この酒場では本気だ。
隣の男が言った。
「数えられないのは、息だ」
「どういう意味だ」
「数えられるのは、金と物と名前。
息は数えられない。
だから、ここでは生きてていい」
その時、扉が乱暴に開いた。
夜警だ。
二人。帳場の腕章。
「無許可営業だ」
店主が言う。
「罰金は払う」
「金額が足りない」
「……今夜は厳しい」
夜警は店内を見回し、壁の紙を見る。
「何だこれは」
「冗談だ」
夜警の一人が笑う。
「冗談は罰金だ」
剣は抜かれない。
代わりに、帳面が開かれる。
「登録者以外、全員外へ」
客たちが立ち上がる。
若い男――昼に会った男もいる。
夜警が彼を見て言う。
「お前、登録がないな」
男は頷く。
「なら、労働だ」
「何の」
「夜間警備。
人手不足だ」
若い男の顔が青くなる。
「警備は……」
「数に入る仕事だ。
やれ」
夜警は男の腕を掴む。
その掴み方は、慣れている。
アッシュは前に出た。
「代わりに、俺がやる」
夜警が見る。
「登録は」
「ない」
「なら、同じだ」
「違う」
アッシュは言った。
「俺は一夜の滞在許可がある」
夜警は帳面を見る。
確かに、羊皮紙がある。
「だが、夜間外出は不可だ」
「警備なら外出ではない」
夜警が眉を動かす。
条文の隙だ。
「……賃金は?」
「要らない」
夜警は考える。
賃金を払わずに人手が増える。
帳簿に都合がいい。
「よし。
交代だ」
若い男が解放され、床に座り込む。
夜警がアッシュに腕章を渡す。
「赤だ。
朝まで」
赤。
見逃される色。
夜。
街を歩く。
夜警として歩くと、街の裏が見える。
帳場の裏口。
倉の影。
働かされる者の列。
路地で、子どもが泣いている。
数えられていない息だ。
夜警の相棒が言う。
「放っておけ。
登録がない」
アッシュは立ち止まる。
「息はある」
「帳簿にない」
「帳簿は息を数えない」
相棒は苛立つ。
「面倒を増やすな」
その時、鐘が三度鳴った。
夜間外出禁止の合図だ。
子どもが震える。
「家が……ない」
相棒が剣に手をかける。
だが、抜かない。
「事故にするか」
アッシュは相棒の腕を掴み、低く言う。
「事故にするな」
「何だと」
アッシュは腕章を外し、地面に落とした。
「俺は数に入らない」
相棒が一歩下がる。
「規則違反だ」
「規則は、息を殺す」
アッシュは子どもを抱え上げ、走った。
路地を抜け、市の外れへ。
追ってくる足音。
笛。
だが、夜の市は迷路だ。
古い倉の影に入り、子どもを下ろす。
「ここで待て」
「……生きてていい?」
「いい」
足音が遠ざかる。
夜警は追わない。
数に入らないものを追うと、帳簿が狂う。
夜明け。
市が再び目を覚ます。
広場に、人だかりができていた。
掲示板に、新しい紙が貼られている。
――夜間警備中の規則違反
――腕章未返却
――責任者不明
責任者不明。
珍しい言葉だ。
帳場の男たちが困惑している。
誰に請求すればいいのか分からない。
その下に、別の紙が貼られた。
誰が貼ったのかは分からない。
――未登録者一名、臨時雇用
――賃金:パン一つ
笑いが起きる。
小さな笑いだ。
だが、市では珍しい笑いだ。
若い男がアッシュを探し、見つける。
「……ありがとう」
「数えられたか」
男は首を振る。
「でも、息はした」
それでいい。
この街で、それは十分だ。
アッシュは街を出る。
門番は何も言わない。
羊皮紙の期限は切れていない。
背後で、相場の声が響く。
「本日の相場!」
息は数えられない。
だが、息があるから、相場が動く。
次の街へ。
次の夜へ。
静かな夜を歩く者として。




