第十話 塩の街で、白は罪になる
その街では、白が多すぎた。
白い壁。
白い袋。
白い札。
雪ではない。塩だ。
風に乗って、塩の粉が舞う。目に沁み、喉に残り、靴底を白く汚す。
白は清い色だと誰かが言った。だが、この街では白が罪になる。
街の名は「ザルツ=ヴァイデ」。
塩原の縁に築かれた街で、塩の袋が城壁のように積まれている。塩は命を繋ぐ。塩は保存を可能にする。塩を握る者は、食卓を握る。
門前には検問があった。
剣ではなく、秤だ。
袋を持つ者は必ず止められ、量られる。
「私塩は禁止だ」
役人が言う。
声は乾いている。塩の街の声だ。
「公塩のみ流通可。
印のない塩は没収」
印。
袋の口に押された赤い印。街の紋章だ。
アッシュは外套の内側を見せ、何も持っていないことを示した。
役人は頷き、通した。
中へ入ると、匂いが強くなる。
塩蔵の匂い。魚の匂い。革の匂い。
だが、人の声は低い。ここでは、大きな声は目立つ。
宿は簡素で、壁も床も白っぽい。
女将は手を拭きながら言った。
「旅人さん、袋は?」
「持っていない」
「それは助かる。
袋を持ってると、夜に来る」
「誰が」
女将は声を落とす。
「検査官だよ。
白い札を持ってね」
白い札。
また紙だ。
日が傾く前に、街を歩く。
塩の市場は広い。袋が山のように積まれ、荷車が行き交う。
だが、売り手の顔は硬い。値は決まっている。交渉はない。
市場の端で、老人が立っていた。
小さな布袋を抱え、周囲を窺っている。
布袋の口から、白い粉が見えた。
印がない。
アッシュが近づくと、老人は後ずさった。
「売らん。
売らんが……」
「食うためか」
老人は頷いた。
「娘が病でな。
肉を煮るにも、塩が要る。
公塩は高い。
山で拾った塩だ。
だが……」
「見つかれば」
「没収だ。
罰金もある。
払えなければ……」
老人は言葉を切る。
続きは誰でも知っている。仕事を失い、居場所を失い、街を追われる。
(白は命で、白は罪だ)
夜。
街の灯りは早く消える。塩の街は、闇を好む。闇の方が検査がしやすい。
アッシュは宿に戻らず、市場の影に立った。
ほどなく、足音が揃って近づく。
検査官だ。
白い札を胸に下げ、袋を持つ者を見つけては止める。
袋を開け、印を見る。印がなければ、没収。
老人の姿が見えた。
布袋を抱え、家路を急いでいる。
検査官が声をかける。
「止まれ」
老人が震える。
「それは……」
「開けろ」
布袋が開かれる。
白い粉。印はない。
「私塩だな」
検査官は淡々と言う。
「没収する。
罰金は――」
「待て」
アッシュが出た。
検査官が睨む。
「夜間外出許可は」
「ない」
「なら、お前も――」
「その塩は、街の塩だ」
検査官は鼻で笑う。
「印がない」
「印は、袋の印だ」
アッシュは市場の方を指す。
「塩原は街のもの。
山で拾った塩も、街の塩だ。
袋に印がないだけだ」
検査官は苛立つ。
「詭弁だ。
公塩は管理されている。
私塩は品質が保証されない」
「保証は誰がする」
「街だ」
「街は、この老人だ」
検査官は剣に手をかける。
だが、抜かない。抜けば騒ぎになる。
「没収だ」
「没収は、誰のためだ」
検査官は言い返す。
「街のためだ」
「街が飢える」
アッシュは一歩近づく。
「塩があるのに、飢える街は、塩を持っていない」
沈黙。
検査官の後ろに、人が集まり始める。
市場の者だ。荷運び。売り手。皆、白い粉にまみれた靴。
誰かが言う。
「その爺さんの娘、死ぬぞ」
別の声。
「公塩は、倉に積まれてる」
「積まれてるだけだ」
検査官は周囲を見る。
数が多い。だが、剣を抜けない数だ。
検査官は布袋を返した。
「……今回は見逃す」
老人が息を吐く。
だが、検査官は続けた。
「次はない」
「次は、街が決める」
アッシュが言う。
検査官は睨み、去っていった。
夜明け前。
アッシュは塩倉の前に立っていた。
倉は大きく、鍵は重い。だが、見張りは少ない。塩は逃げないと思っている。
彼は倉の壁に手を当てる。
塩の袋が内側で押し合い、壁が少しだけ膨らんでいる。
過剰だ。貯めすぎだ。
(白が多すぎる)
アッシュは倉の裏へ回り、排水溝を見つけた。
雨水用の溝。塩が溶ければ、流れる。
刃は使わない。
代わりに、栓を外す。
水が入る。塩が溶ける。
溶けた塩は、価値を失う。
だが、完全には失わない。
流れた先で、再び拾える。
夜明け。
倉から水が滲み出ているのに、最初に気づいたのは荷運びだった。
「……溶けてる」
「塩が」
騒ぎになる。
検査官が来る。役人が来る。
倉の管理者が叫ぶ。
「事故だ!」
事故。
この街でも、便利な言葉だ。
だが、事故の前に、人が動く。
市場の者たちが、溶けた塩を集め始めた。
桶で。布で。素手で。
誰かが言う。
「公塩だろ。
街の塩だ」
別の声。
「拾って、何が悪い」
管理者が止めようとする。
だが、止めきれない。人が多すぎる。
検査官が叫ぶ。
「印を!」
誰かが笑う。
「溶けた塩に、どうやって印を押す」
笑いが広がる。
塩の街で、初めての笑いだ。
その日、塩の値は下がった。
正確には、決められなくなった。
公塩と私塩の境が、溶けた。
境が溶けると、白は罪でいられなくなる。
夕方。
老人がアッシュに言った。
「娘が……食べた」
「塩か」
「うん。
泣いたよ。
しょっぱいって」
アッシュは頷いた。
「生きている証だ」
街の役人は、新しい規則を作ろうとした。
だが、誰も真面目に聞かなかった。
白い札は、風で汚れた。
アッシュは街を出る。
靴底の白を、歩きながら落とす。
次の街へ。
次の夜へ。
静かな夜を歩く者として。




