表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
静かな夜を歩く者  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/47

第一話 石畳の街は、夜に声を失う

プロローグ


旅立ち ―― そして、影は歩き出す


北の帝国が倒れ、

長く続いた戦いは終わりを告げた。


世界は平穏を取り戻したように見えたが、

アッシュの胸の内には、ひとつの想いが芽生えていた。


「……外の世界を、見てみたい」


その言葉に、

ジョージア(ジギー)は一瞬だけ目を瞬かせ、

そして、いつもの調子で笑った。


「いいじゃないか。色々学んで来い」


深刻さの欠片もない声だった。


「どうせ、じっとしていられる性格じゃないだろう。

 んじゃ、またな」


それは別れというより、

次に会うことを前提にした言葉だった。


アッシュは何も答えず、

ただ一度だけ頭を下げる。


そして振り返らず、

屋敷を後にした。



彼が向かう先は、

名もなき街、

噂だけが先に立つ村、

声を上げられずにいる人々の暮らす場所。


そこで彼は名を名乗らない。

正義を語ることもない。


ただ、夜が来て、

街があまりに騒がしいときだけ――

静かに動く。


翌朝、

人々は気づく。


恐れていた存在が、

まるで最初からいなかったかのように消えていることに。


争いは起きていない。

誰がやったのかも、分からない。


残るのは、

不思議なほど静かな朝だけだった。


アッシュはその街を去る。


次の街へ。

次の夜へ。


世界が静かである理由として、

名も残さず。



北の帝国が倒れ、長い戦いの熱がようやく引いても、世界は静かにならなかった。

旗が降りても、剣が鞘に戻っても、別の形で人は人を苦しめる。


アッシュは、城塞でも戦場でもない場所を歩いていた。

石畳の道。荷車の轍。教会の鐘楼。遠くで回る風車。――どれも、どこかの国の古い絵画に出てきそうな、穏やかな景色だ。


穏やかに見えるのは、昼だけだった。


昼の終わりは、いつも似ている。

家々の窓が早々に閉まり、通りの影が深くなると、人の声が薄くなる。人は足を早め、目を合わせず、息を潜める。


そういう街を、彼は何度も見てきた。


(ここも、同じだ)


アッシュは灰色の外套の襟を立て、街門をくぐった。門番は名を問わず、通行税だけを淡々と請け取る。旅人が多い街の顔をしているが、門番の目は疲れていた。金で済ませる種類の疲れではない。


街の名は、掲示板に小さく書かれていた。

「ローデン」。交易路の分岐点。川沿いの倉庫街。羊毛と塩と鉄。酒場が多く、宿も二つある、と。


だが、香りが違った。

酒とパンの匂いの奥に、濡れた革と錆の匂いが混ざっている。夜が近い匂いだ。


宿に入ると、女将は視線だけで彼を測った。

旅慣れた者の目だ。余計な会話を嫌う者の目でもある。


「部屋は二階。水は桶で。暖炉は点けない方がいい。煙で見つかる」


「見つかる?」


女将は一瞬、口を結び、すぐに言い直した。


「……風が悪いのさ。街が狭いからね」


嘘の言い方だった。嘘をつくのが上手い人間は、もっと自然にごまかす。彼女は上手くない。上手くないのに、嘘をつかざるを得ない。


アッシュは銀貨を置き、鍵を受け取った。


部屋は小さく、清潔だった。窓からは広場が見える。広場の中心には古い噴水。今は水が止まり、苔が生えている。乾いた石の彫刻が、口を開けたまま空を見ていた。


彼は荷をほどかず、外套の内側に触れる。

そこにあるのは、旅の道具ではない。短い刃。細い針。糸。油紙。布。――すべては、音を立てずに夜を終わらせるためのもの。


夕刻、彼は酒場へ向かった。

酒場は二つあったが、明かりが強く、人の出入りが多い方を選ぶ。情報は人の多い場所に溜まる。反対に、恐れは声を小さくする。


扉を開けると、熱気と麦酒の匂いが鼻を打った。だが、騒がしいのは表面だけだった。笑い声は短く途切れ、乾いた拍手もどこか遠慮がちだ。

男たちは大声で話すが、話題は天気や商いばかりで、核心には触れない。


カウンターに座り、薄い酒を頼む。

店主は「水で割るか」と聞き、彼が頷くと、何も言わずに注いだ。


隣に座ったのは、指の節が太い荷運びの男だった。酒を飲む手が震えている。寒さではない。


男はアッシュの外套の端を見て、視線を逸らし、しばらく迷ってから小声で言った。


「旅の人か」


「そうだ」


「……なら、夜に出歩かない方がいい。夜警がいる。だが、夜警じゃない」


言葉が途中で止まる。

「夜警じゃない」ものがいる。だが、名前を言えない。


アッシュは酒を口に運び、息を吐いた。


「何が起きる?」


男は唇を噛み、カウンターの木目を見つめた。


「起きるってほど派手じゃない。――消える。帳面から名前が消える。家から人が消える。誰も騒げない。騒いだ家は、もっと消える」


「誰が?」


男は首を振る。


「噂じゃ、領主の親戚が来たって。護衛を連れて。税を……税じゃない、献金だって。教会に渡す金だって言う。教会は何も言わない。司祭は目を逸らす」


教会。領主。護衛。献金。

この世界の仕組みの中で、最も都合のいい言葉が並ぶ。言葉は正しい顔をして、人を黙らせる。


(正義は、いつも看板になる)


アッシュは杯を置いた。


「献金を断ったら?」


男は笑った。笑いではない、空気を吐き出す音だ。


「断ったら、家族の誰かが病気になる。事故に遭う。夜に水へ落ちる。誰も見てないのに、目撃者がいる。そういう具合だ」


アッシュは頷き、席を立った。

男は追うように言った。


「旅の人。関わらない方がいい。あんたが強そうでも、相手は――」


「強い弱いの話じゃない」


そう言って、外へ出た。


空はすでに暗く、街灯の火が風に揺れていた。

石畳の上に影が伸び、路地は黒く口を開ける。


アッシュは、目立たないように歩きながら、気配を数えた。

見張り。巡回。屋敷の位置。人の流れ。閉まる扉。消える明かり。――この街は、夜にだけ形を変える。


広場を抜けると、古い倉庫街に入った。

川沿いの木材の匂い。湿った縄。倉庫の壁に貼られた新しい紙。そこに紋章がある。領主のものではない。見慣れない家紋だ。外から来た者の印だ。


(ここだ)


倉庫の陰で、若い男が二人に囲まれていた。

荷運びの男だろう。腕が太い。だが、今は膝が笑っている。


「今週の分は払っただろう」


「払ったのは“通行”の分だ。これは“献金”だ。理解しろ」


「献金なら、教会へ――」


「口が利けるじゃないか」


拳が上がる。


アッシュは、路地の暗がりから一歩踏み出した。

ただそれだけで、空気が変わった。


囲んでいた男の一人が振り向く。

背が高く、革の胴着に短剣を下げている。護衛というより、ならず者に近い。


「なんだ、てめえ」


アッシュは答えない。

代わりに、彼の目が男の手首を見る。拳を振るうために固くなった手首。そこへ、指先で小さく触れる。


触れられた男は、何が起きたのか分からない顔をした。

次の瞬間、膝が折れ、石畳に倒れた。音は小さい。呻き声もない。気を失っただけだ。


もう一人が慌てて短剣に手を伸ばす。


アッシュは、その動きを最後まで許さなかった。

短い針が、男の首筋に吸い込まれる。男の目が見開かれ、すぐに焦点がぼやける。倒れる前に、アッシュが肩を支え、そっと地面へ寝かせた。


それでも音はほとんど立たない。


囲まれていた若者は、口を開けたまま固まっていた。

助けられたという理解が追いつかない顔だ。


「家に帰れ」


アッシュはそれだけ言った。


「で、でも……」


「今夜は外にいるな。何も見なかった。何も聞かなかった。いいな」


若者は何度も頷き、走って去った。


アッシュは倒れた二人を見下ろした。

末端だ。脅し役。殴る役。脅し方の型が粗い。型が粗い者は、上から見捨てられやすい。


(上は別にいる)


倉庫街の奥、紋章のある倉庫の扉。

そこに、鍵穴の周りだけが妙に新しい。何度も差し替えられた跡だ。扉の蝶番が軋む。手入れがされていない。


アッシュは、鍵穴ではなく蝶番を見る。

そこを押さえ、力ではなく角度で外す。軋みが消え、扉は音もなく開いた。


中は広い。

樽。麻袋。帳簿。武具。金貨の袋。

そして、奥の机に座る男が一人。


衣服は上質だが、似合っていない。

顔は赤く、酒の匂いがする。目は鋭くない。鋭くないからこそ、護衛を集めて恐れで補っている。


男はアッシュに気づくと、椅子を蹴って立ち上がった。


「誰の差し金だ。領主か。司祭か。――いや、そんな顔じゃない」


「誰でもない」


アッシュは淡々と言った。

この男に“意味”を与える必要はない。正義の物語を与えれば、彼は最後までそれに縋る。正義は人を強くする。時に、死に際の醜さも強くする。


男は机の引き出しから短剣を取り出した。


「金ならある。いくらだ」


「要らない」


「なら名誉か。お前、どこかの強盗団の――」


言葉が途切れた。


アッシュが一歩近づいたからだ。

近づき方が違う。戦場の踏み込みではない。室内の、静かな足取り。影が伸びる角度に沿って、相手の視界の隙間に入る。


男は刃を振ろうとする。

だが、腕が上がらない。指が利かない。握力だけが抜ける。短剣が床に落ち、乾いた音がした。


その音だけが、今夜で最も大きかった。


男はそれを拾おうと屈んだ。

屈んだ瞬間、首筋に冷たい布が当たる。薬を含ませた布だ。香りは弱い。嗅いだと気づく頃には遅い。


男の目が揺れ、身体がぐらりと傾く。


アッシュは支えなかった。

倒れる音を消すために、机の脚を一度だけ押さえ、男の身体が木にぶつからないよう角度を変えた。


男は床に崩れた。

それで終わりだ。


アッシュは机の上の帳簿を開く。

金額。名前。住所。印。

街の静けさの値段が、ここに並んでいる。


彼は帳簿を閉じ、火鉢にくべた。

紙はゆっくりと黒くなり、文字が溶けていく。名が消え、数字が消え、最後に紙の縁だけが赤く残り、灰になる。


灰を見届けてから、倉庫を出た。

戻り際、扉の蝶番を元に戻し、同じ角度で静かに閉める。鍵穴は触らない。鍵穴は誰かが調べる。蝶番は気づかれにくい。


外の空気は冷たく、川の湿り気を含んでいた。

夜はまだ深い。だが、街の気配は少し変わっている。見張りの歩き方が乱れ、巡回の間隔が崩れている。誰かが、何かを感じている。


(明け方までに、街は自分で呼吸を取り戻す)


アッシュは宿へ戻らず、街門へ向かった。

夜明け前の門番は眠そうにしていたが、アッシュの外套の影を見て目を覚ました。


「……出るのか」


「朝までに隣町へ着きたい」


門番は何か言いかけ、やめた。

代わりに、声を低くして言う。


「……今夜、何かあったのか」


アッシュは振り返らないまま答えた。


「何もない」


門番は一瞬だけ目を閉じ、頷いた。


「そうか。……なら、何もないな」


門が開く。

冷えた風が吹き抜ける。街の灯りが、背後で小さく揺れた。


アッシュは石畳を踏み、街の外へ出た。

東の空が薄く白む。鳥が一羽、低く飛んでいく。


(正義は、人によって違う)


だから、彼は正義を語らない。

語らず、名乗らず、歴史にも残らない。


ただ、静かな夜を歩き、必要な夜だけを終わらせる。


次の街へ。

次の夜へ。


世界が静かである理由として。


挿絵(By みてみん)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ