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夜だけが自由だった

作者: ミケ

 朝が来ても、起きない。

 起きたくない、じゃなくて――起きられない。

 カーテンの隙間から夏の光が差し込む。けれど、体は動かない。


 まぶたの裏で何かがぐるぐる回ってる。時間か感情か、あるいはただの空虚か。

 天井は今日も同じ色で、部屋の空気はぬるい。

 布団の中でスマホを握ったまま、もう何時間も何も見ていない。画面は真っ暗。通知は来ない。来るはずもない。


 ドン、と壁が鳴る。

 その音でようやく、「ああ、今日もまだ死んでないんだな」と思う。


 父親が階下で怒鳴ってる。内容は聞き取れない。母親の泣き声がそれに重なって、かき消されていく。

 昨日もその前も、たぶん同じ音だった。

 この家は、時間だけが動いている。誰も前に進んでいない。


 いつからこうなったんだっけ。

 ……野球、か。


 あれは中二の夏。

 暑い日差しの中でユニフォームを泥まみれにして、声を張って、仲間と笑ってた。

 あの頃の自分は、誰かの役に立ってる気がしてた。必要とされてるって思ってた。


 けど、ある日、ちょっとしたことでチームの空気が変わった。

 一人だけ笑ってないやつがいて、そいつの言葉に誰も逆らえなくて、俺はただの邪魔者になった。

 気まずさが積み重なって、ある日、学校に行くのをやめた。

「明日行けばいいや」って思ったのに、その“明日”はもう来なかった。


 母は最初、「無理しなくていいよ」と言ってくれた。

 でも今は違う。


「死んでこいよ、そんなに学校行けないなら」


 昨日、階段の下からそう叫ばれた声が、まだ耳に残ってる。

 自分で言ったあと、すぐに泣いてた。たぶん、言いたくて言ったわけじゃない。わかってる。

 でも、もう遅い。言葉はナイフみたいに、心に刺さったままだ。


 父は、話もしようとしない。

 怒鳴るだけ。


「お前は俺の顔に泥を塗ってる」「俺は皆勤賞だった」「甘えんな」


 父にとって“学校”は、人格の証明なんだ。休むことは、存在を否定することと同じ。

 だから、俺が家にいること自体が、もう家族にとっては“罪”なんだと思う。


 でも、夜だけは違う。

 太陽が沈んで、窓の外が静かになる頃、俺は外に出る。

 パーカーのフードを深くかぶって、誰にも見られないように歩く。

 同級生に会うこともない。

 コンビニの冷蔵ケースの明かりだけが、なんとなく安心させてくれる。


 今日は、月が見える。

 街灯の下を歩きながら、ふと、自分が消えてしまっても誰も気づかないんじゃないかと思う。


 でも、まだ、歩いている。

 理由はない。けど、歩いている。

 それだけが、今の俺にできる、唯一の“前進”かもしれない。


 ***


 あの頃、グラウンドにはいつも声が響いてた。


「いけるぞ!」

「ナイスカバー!」

「あと一本だ!」


 みんなで声を出し合って、汗だくになって、土まみれで笑ってた。

 夏の空は高くて、白球が眩しかった。


 ポジションはセカンド。

 守備範囲を広く取って、ピッチャーやショートと連携しながら、地味だけど要のポジションだった。

 コーチにも褒められてた。試合でも結果を出せてた。

 それが嬉しかった。


「お前がいて助かったよ」って、チームメイトに言われたあの言葉。

 あれが、自分を支えてた。


 でも、それは突然、崩れた。

 ある日、練習試合中にエラーをした。

 グローブの先にちょっとだけ当たったボールが弾かれて、ランナーが進んだ。


「大丈夫だよ、気にすんな」って笑って言ってくれたやつがいた。

 でも、キャプテンの顔は笑ってなかった。


 それから、ちょっとずつ何かが変わった。

 守備の連携練習で自分だけ呼ばれなかったり、ボール回しの輪に入れてもらえなかったり。

 冗談のように見える小さな無視が、毎日のように続いた。


「気のせいだ」って思い込もうとした。

 でも、誰も目を合わせてくれなかった。


 そして、決定的だったのは、試合前日のメンバー表。

 名前が、なかった。

 理由は言われなかった。「ちょっと調子見て」ってだけ。

 調子のせいじゃないことは、わかってた。

 帰り道、キャプテンと何人かがコンビニの前でしゃべってるのを見た。


「アイツ、最近調子乗ってたし」

「まあ、あんな奴いなくても回るだろ」


 その瞬間、何かが音を立てて折れた。

 ベンチ裏の砂が、スパイクで削られる音だけが残った。


 次の日の朝、足が重くて、学校に行けなかった。

 ただ一日、休むだけのつもりだった。

 でもその一日が、自分の世界をまるごと変えてしまった。


 部活に戻る理由がなくなった。

 教室のドアの前で、みんなの視線を想像するだけで吐きそうになった。

 何もしてないのに、何か悪いことをしたみたいに感じた。


 戻らないといけないって、頭ではわかってた。

 でも、どうしても無理だった。

 “ただのサボり”は、“逃げたやつ”に変わった。


 ***


 夕方。

 階下から、何か食器が割れる音がした。

 一瞬で、家の空気が張りつめた。

 母のすすり泣きも混じってる。

 それをかき消すように、父の怒鳴り声が響いた。


「もういい加減にしろよ! いつまで甘やかすんだ!」


 その声が、床を伝って体に響く。

 壁一枚向こうに戦場がある。そんな感じだ。


「私だって好きでこうしてるわけじゃない!」

「じゃあ、なんで何もしない! あいつが一歩も出ないのは、お前がそうさせてるんだろうが!」


 足音が近づく。

 ドアがノックもなしに、バンッと開いた。

 父だった。


「おい、いい加減に学校行け。いつまで逃げてるつもりだ」


 目は怒りというより、もう呆れと軽蔑で濁っていた。

 正面から見返せなかった。

 でも、なにも言えないまま黙ってると、さらに声が強くなる。


「俺の若い頃はな、生徒会もやって、皆勤賞も取って――」


 その話、何度も聞いた。

 もうセリフまで覚えてるくらい。


「甘えてんじゃねぇよ! 努力もしねぇくせに、被害者ヅラしてんじゃねぇ! てめぇのせいで、家がめちゃくちゃなんだぞ!」


 何かを言い返そうとしたけど、喉が動かなかった。

 喋ることが怖い。声を出した瞬間、自分が崩れそうだった。

 父は鼻で笑ってドアを閉めた。乱暴じゃなく、静かに。それが逆に怖かった。


 しばらくして、母の足音が階段を上がってきた。

 ノックして、ドアの前に立ってる気配がした。

 でも、何も言わなかった。


 ドア越しに、息を呑む音だけが聞こえた。

 俺が返事をしないと、階下に戻っていった。

 泣いてるのか、ただ疲れてるのか、もうわからなかった。


 布団にもぐりこんで、スマホを見た。

 何も通知は来ていない。

 そっと電源を落とす。誰とも繋がっていないほうが、まだ楽だから。


 ドアの向こうで、父と母の会話がまた始まる。

 母の声はか細くて、父の声はどんどん大きくなっていく。

 もう誰も、誰のことも救えない気がした。


 家族って、なんだったんだろう。

 同じ家にいても、バラバラの場所にいるみたいだ。


 だから、夜が来るのを待つ。

 暗くなれば、外に出られる。

 逃げ場所なんてどこにもないけど、それでも、家の中よりはましだ。


 ***


 その夜は、少し風が強かった。

 パーカーのフードを深くかぶって、自転車の通らない裏道を歩く。


 コンビニの明かりが見えると、少しだけ呼吸が楽になる。

 何も買うつもりはない。ただ、そこに人がいる安心感を確かめるために立ち寄る。

 アイスの棚の前で立ち止まる。

 その瞬間、外から笑い声が聞こえた。


「マジであいつ、あのとき泣きそうだったよな~」


 知ってる声だった。

 心臓が跳ねた。

 顔を上げられないまま、反射的に棚の影に身を隠す。


 笑いながら店の前を通りすぎていく男子二人。

 一人は野球部の元チームメイト。

 もう一人は、よく一緒に昼飯食ってたクラスメイト。


 息を潜める。見つかるな、見つかるな――

 体が震えてることに気づいた。怖いわけじゃない。ただ、心が追いつかない。

 あいつらは笑ってた。

 普通に、何もなかったみたいに。


「ハルって、あのあと結局どうなったんだっけ?」


 声が遠ざかっていく。

 答えは聞こえなかった。たぶん、誰もちゃんとは知らない。


 アイスの棚のガラスに映った自分の顔を見た。

 やつれて、目の奥が死んでるみたいだった。


 扉を押して、外に出る。

 冷たい空気が肺に入って、むせそうになる。


 うつむいたまま歩き出した。

 そのまま、駅のほうまで足を運ぶ。

 人はまばらで、電車の音だけが響いている。


 踏切の赤いランプが、ゆっくり点滅している。

 遠くから電車の音が近づいてくる。

 夜の線路は、何も言わない。

 母の声が頭にこだまする。


 ――「死んでこいよ、そんなに学校行けないなら」


 思い出すな。思い出すなって思っても、浮かんでしまう。


 そのとき、ふと視線の先に人の影が見えた。

 ベンチに、制服姿の女子が一人、ぽつんと座っていた。

 この時間に、こんな場所で――。


 向こうもこちらに気づいたようで、ちらりと目が合う。

 けれど、すぐに目を逸らしたのは、たぶんこっちの方だった。


 彼女は何も言わず、ただ座っていた。

 何かを待っているような顔。

 あるいは、何かから逃げているような背中。


 この夜、この時間、この場所にいるということは、

 きっと、彼女も“こっち側”の人間なんだと思った。

 それだけで、なぜかほんの少しだけ、自分が完全にひとりじゃない気がした。


 ***


 次の夜も、駅に向かった。

 理由なんてなかった。いや、あるような気もした。

 自分でも気づかないうちに、ベンチの彼女を探していた。


 いた。

 昨日と同じ場所、同じ姿勢で座っていた。

 今度は制服じゃなくて、パーカーを着ていた。顔は下を向いてる。


 近づくべきか、通り過ぎるべきか、少し迷って――

 足が勝手にベンチの近くで止まっていた。

 彼女がゆっくり顔を上げた。目が合った。

 昨日より、長く。


「……よく、来るの?」


 彼女が先に話しかけてきた。

 その声は思ったよりも普通で、思ったよりも静かだった。


「たまに。……夜だけ」

 自分の声も意外とちゃんと出ていた。


「わかる、昼よりマシだよね。誰もいないし」


 小さく笑った彼女は、どこか疲れて見えた。

 でも、その笑いは無理して作ったものじゃない気がした。


「学校、行ってないの?」


 唐突にそう聞かれた。

 嘘をつく意味もなかったし、つく余裕もなかった。


「……うん」


「そうなの」彼女は頷いて、それ以上、なにも聞かなかった。


 沈黙が続く。気まずいわけじゃなかった。

 ただ、言葉にしなくても伝わることがある気がした。


「じゃあ、また会ったら、少しだけ喋ろうよ」


 彼女が立ち上がる。

 その言い方は、約束でも誘いでもなかった。

 でも、確かに“提案”だった。


 うなずく代わりに、小さく「うん」と言った。

 彼女はホームの階段をゆっくり降りていった。

 その背中を、最後まで見送った。


 風が冷たくなってきた。

 でも、心のどこかで、

 “また明日、来るかもしれない”と思った自分がいた。


 ***


 それから何度か、駅で彼女と会った。

 同じ時間、同じ場所。話す内容は他愛のないことばかり。

「今日ちょっと寒くない?」「あそこの自販機、最近お釣り遅くない?」

 どうでもいいようで、でも確かに“会話”だった。


 三度目の夜だった。

 彼女はベンチに座らず、フェンスにもたれて空を見上げていた。


「星、全然見えないね」

 隣に立つと、彼女がぽつりとつぶやいた。


「ここ、明るすぎるからな」

「うん。でも、暗いよりはマシかも。夜の中でも、光ってる場所って安心する」


 その言葉に、少しだけ胸がざわついた。

 自分にとっての“安心”も、きっと同じような場所だったのかもしれない。

 しばらくして、彼女がポケットから飴を取り出して差し出してきた。


「食べる?」

「……うん」


 口に入れると、やけに甘かった。

 誰かにもらった飴なんて、いつぶりだろう。


「私ね、学校でちょっと色々あって。教室で吐いたことがあるんだよね」


 突然の告白に、驚いて彼女を見た。

 でも彼女は目をそらさず、続けた。


「体調悪いの、ずっと我慢してたのに、ある日耐えきれなくて。しかも体育の後で、みんなの前でさ。最悪だったよ」

「……それは、キツいな」

「キツいとか、そういうレベルじゃなかった。あの日から“ゲロ女”って呼ばれてたし」


 ふっと笑った。でもその笑いには、少し傷が混じっていた。


「そのあと、なんか全部が面倒になって。学校も、人も、何もかも」


 黙って聞くしかなかった。

 でも、なぜか不思議と居心地が悪くなかった。


「君は?」

 彼女がこちらを見た。


「……野球部にいた。中学の時」

「へえ、スポーツ男子?」

「だった。ちょっと揉めて、行きづらくなって。気づいたら、こうなってた」

「ふーん」


 そう言って、彼女はまた空を見上げた。


「なんか、似てるね。逃げてる理由は違っても、“逃げてること”は同じ」

「……逃げてる、って自分でも思ってる?」


 彼女は答えなかった。

 その代わり、ポケットに手を突っ込んだまま、ぽつりと言った。


「名前、聞かないんだね。君」

「……聞いていいのか、わかんなかった」

「じゃあ、今度ちゃんと名乗るから、今日はそれでいいや」


 そう言って、笑った。

 本当に、少しだけ、笑っていた。

 駅のアナウンスが流れる。電車が通り過ぎていく。

 音が消えたあと、少しだけ世界が静かになった。


 ***


 その日も、俺たちは駅のベンチにいた。

 風は弱く、空気は静かだった。

 少し前まで、ここに他人と並んで座るなんて想像もしてなかった。

 彼女はカバンから缶ジュースを二本取り出して、片方を差し出してきた。


「炭酸、大丈夫?」

「うん」


 プシュッという音が、夜に小さく響いた。


「ねえ」

 彼女が缶の口をつける前に言った。

「家って、どんな感じ?」


 いきなりすぎて、答えに詰まった。


「……父親は怒鳴ってばっかで、母親は最近ほとんど喋らない。俺がこのままいるせいで、家の空気が終わってるって感じ」


 彼女はうなずいた。缶を唇にあてて、少しだけ飲んだ。


「うちも、似たようなもん」

 缶を両手で包んだまま、ぽつりと続けた。


「お父さん、ずっと単身赴任でさ。家にいるのは年に数回だけ。お母さんは仕事と家事でバタバタしてて、私が夜にいないことすら気づいてない感じ」

「会話、あるの?」

「買い物行ってくるとか、洗濯出しといてとか、その程度。だから、私が学校に行ってるかどうかなんて、正直どうでもいいんだと思う」


 声に怒りはなかった。ただ、すごく冷めていた。


「でも、たまにね、急に笑ってくるの。“今日テレビでさ~”って。私はずっと返事してなかったのに」


 彼女の指が、缶の表面をなぞる。


「そういう時だけ、“家族ごっこ”みたいに見えるんだよね」


 俺は何も言えなかった。

 共感とも違う。ただ、心が同じ空気に触れたような感覚があった。


「……あのさ」

 彼女が缶を膝に置いて、こちらを見た。


「名前、教えてよ。ちゃんと」

「……ああ」


 一瞬だけ迷って、でもすぐに答えた。

「ハル」


 彼女は一度うなずいてから、小さく笑った。

「そっか。よろしくね、ハルくん」


 その笑顔は、ほんの一瞬だけ子どもみたいだった。

 彼女は一度うなずいて、それから少し黙ったあと、自分の胸を軽く指で押さえた。


「私の名前は――ユイ。東條結」

 そう言って、缶を見つめたまま続けた。


「いまさら名乗るの、ちょっと変な感じするね」

「……でも、ありがとう」

「いいよ。君になら、言ってもいい気がしたから」


 少しの沈黙のあと、俺も口を開いた。


「ユイ、って呼んでいい?」

「いいよ。ハルなら」


 “ハルなら”――

 その言葉が、夜の空気に溶けていった。

 誰もいないベンチ。

 通り過ぎる電車の風が、少しだけ優しかった気がした。


 ***


「今日さ、ちょっと歩かない?」


 ベンチに座って間もなく、ユイがそう言った。

 声のトーンはいつもと同じなのに、なんとなく“いつもと違う”のがわかった。


「……いいよ」


 立ち上がって並ぶと、自然と歩調が揃った。

 線路沿いの道。自販機の灯り。人気のないバス停。

 どこも見慣れたはずなのに、隣に誰かがいるだけで景色が変わって見える。


「こっち来るとね、猫がいるの。たまにだけど」

 ユイが指差した電柱の下に、小さな皿が置かれていた。


「餌あげてる人がいるみたい。こないだ白いのがいてさ、めっちゃ可愛かった」

「へえ、いいな。猫、好き?」

「うん。でも触れない。逃げられるから」


 そう言って小さく笑った。


「人も、逃げるよね。変なことしたらさ」


 その言葉が刺さった。

 でも彼女は、俺を見て言ったわけじゃなかった。

 たぶん、自分自身の話。


「……それでもさ、逃げなかったやつもいたよ」

 気づいたらそう言ってた。

「全部失ったわけじゃないって、思いたいから」


 ユイはしばらく黙って、それから空を見上げた。

「……言葉って、タイミングだよね。遅すぎると、どんなに優しくても意味なくなる」


 俺は何も言えなかった。

 でも、そういう“何も言えない空気”を、彼女は受け入れてくれてる気がした。

 歩きながら、話はだんだん他愛ない方に流れていった。


 好きなアイスの味、教科書に落書きした話、通学路で見かけた変な人。

 笑いながら、ふとユイが言った。


「君と歩くとさ、“どうでもいい話”ができるから、いいね」


 “どうでもいい話”ができる相手。

 それは、彼女にとってきっと特別なことなんだと思った。

 帰り道、駅に戻る直前、ユイがぽつりと言った。


「また歩こう。来週とかじゃなくて、明日とか、明後日とか」

「うん。俺も、また来たい」


 言葉を交わすたびに、少しずつ夜の静けさがやわらかくなっていく。

 二人で歩いた道が、どこにもつながっていなくても、今はそれでいいと思えた。


 ***


「……今日、昼間ちょっと外出た」


 歩きながらユイがぽつりとつぶやいた。

 いつもの道。自販機の明かりが、二人の影を細く伸ばしている。


「昼ってさ、世界が全然違うよね。人の目があるし、音も多いし、空が白すぎて息が詰まりそうになる」

「わかる」

「久しぶりに外に出たら、歩いてるだけで疲れた。なんか、自分だけ場違いな気がして」


 俺は黙ってうなずいた。


「でもね」

 彼女は続けた。


「……学校の近くまで行ったんだ。正門の前まで」

 その声は少し震えていた。


「門の横の壁に、私が書いた落書き、まだ残ってた」

 目元が少し笑っていたけど、それは懐かしさというより、諦めに近かった。


「なんで行ったのか、自分でもよくわかんない。ただ、見たかっただけ。自分がいた場所を、もう一回だけ」

「中には、入らなかったの?」

「……うん。怖かった。誰かに会うのも嫌だったけど、それより、誰にも気づかれずに通り過ぎられるのが、もっと怖かった」


 “いなかった人”として扱われること。

 存在を無視されること。

 それがどれだけ残酷なのか、俺もよく知ってる。


「戻りたいわけじゃないの。でも、取り残されたままってのも、つらいね」

「俺もさ、学校の前まで行ったことある」


 気づけば、話していた。


「門の向こうにグラウンドが見えて……あいつら、今でも普通にやってるんだなって思った。俺が消えても、何も変わってないんだなって」

「うん。そういうの、しんどいよね」

 ユイがうなずいた。


 しばらく二人とも黙った。

 沈黙が苦じゃないのは、きっと、わかり合ってるからだと思う。

 ふと、ユイが立ち止まった。


「ねえ、今度さ、昼にどっか行ってみる?」

「……昼?」

「学校じゃなくていい。駅前とかでも。ちょっとだけでいいから、昼間の世界に行ってみたい気分」


 俺は驚いたけど、それと同じくらい、自分の中にも同じ気持ちがあることに気づいた。


「……いいよ。一緒なら」

 ユイが、静かに笑った。

「じゃあ、決まり。無理しない程度で、ね」


 決まり、というにはあまりに頼りなくて、曖昧で、不確かな約束だった。

 でも、夜の中で交わした“はじめての明るい話”だった。


 ----


 昼前に目が覚めたのは、久しぶりだった。

 ここ最近は、起きたらもう夕方だった。


 窓のカーテンの隙間から、光が差していた。

 まぶしい、じゃなくて、“重い”って感じた。

 昼の光は、俺にとってまだそういう存在だった。


 階下から食器の音が聞こえた。

 母がいるらしい。

 のそのそと階段を降りると、キッチンのテーブルにコンビニのおにぎりが2つ置かれていた。

 母は洗い物をしながら背中を向けている。


「……それ、食べたら?」

 背中越しに、そう言った。


「……ありがとう」

 たったこれだけのやりとりなのに、心臓が少し早くなる。


 会話はこれだけ。

 でも、それすら何日ぶりか分からない。


 母は、やつれて見えた。

 髪もぼさっとしていて、目の下にうっすらクマができてる。

 それでも、ちゃんと食べ物を置いてくれた。


 言いかけた言葉が喉の奥で止まった。

 “ごめん”でも“ありがとう”でもなく、“俺のせいで”に近い何か。

 でも言えなかった。


 そのとき、玄関のドアが勢いよく開いて、父の靴音が響いた。

 思わず体が固まる。


「ただいま」


 無駄に大きい声。

 リビングに入ってきた父と、目が合いそうになったけど、すぐに目を逸らした。


「まだ部屋にこもってるのか」


 吐き捨てるような声。

 母が小さく「やめて」と言った。

 でも父は止まらない。


「いつまで甘やかすつもりだ? 俺が高校の頃なんて――」

「知ってるよ」


 思わず言っていた。

 父が黙る。

 母も、手を止めた。


「皆勤賞だったんでしょ。生徒会長で、成績もよくて、完璧だったんだよね。でも、それ俺じゃないから」


 吐き出した瞬間、体が軽くなるかと思ったけど、逆だった。

 ぐっと重くなる。

 父が何かを言いかけたが、言葉にならなかった。


 静かにその場を離れて、部屋に戻る。

 階段を上がる足が震えてた。

 ドアを閉めて、ベッドに倒れ込む。

 ユイとの会話が頭に浮かんだ。


「今度さ、昼にどっか行ってみる?」


 あのときは軽く答えたけど、

 昼ってこんなに、気力を削るものだったっけ。

 でも――

 俺は少しだけ、“誰かと歩く昼間”を想像していた。


 ***


 その夜、駅にユイはいた。

 でも、様子が少し違った。

 いつもより背中が丸くて、目が合っても笑わなかった。


「……ごめん、今日あんま喋れる気分じゃない」


 そう言って、ベンチに腰を下ろした。

 俺も黙って隣に座る。

 しばらく、何も言葉はなかった。

 ただ、自販機の音と、時折通り過ぎる車のライトが空気を揺らしていた。

 ユイが、小さく息を吐いた。


「昼に行こうって言ったの、やっぱり無理かも」

 その声は、消え入りそうだった。


「うん。無理なら、やめよう」

 俺はそれしか言えなかった。


 でも、否定も肯定もせず、ただ受け止めるように答えた。

 ユイは、うっすら笑った。


「ありがとう。……たぶん、期待されたくなかったんだと思う。“できるかも”って思われると、できなかったときに、自分が余計ダメな気がして」

「わかる」


 本当に、それだけだった。

 できない自分を、自分で一番責めてるのに、外からも何かを背負わされると、潰れてしまいそうになる。


「私さ、昔から“平気なふり”するのが得意でさ。泣きたくなっても、笑って“なんでもない”って言っちゃう癖があるの」


 ユイが自分の指をいじりながら、ぽつぽつと話し始めた。


「でも、それやってると、だんだん本当に“なんでもない”顔しかできなくなる。心の中で何が起きてても、外ではただの“無表情な人”になる」

「……今は?」

「今も、たぶんそう。けど、君の前では少しだけ、違うかも」


 その一言に、胸が少しだけ熱くなった。

 何かを言い返すと壊れてしまいそうで、黙ってうなずいた。


「私さ、たぶん、生きるのが下手なんだと思う」

「俺もだよ」


 ユイが、横目で俺を見た。


「じゃあ、下手同士、もうちょっと夜を歩こうか」

 そう言って、立ち上がった。


 夜の道に、足音が二つ。

 何も変わってないようで、でも確かに一歩進んだ気がした。


 ***


 次の日、時計の針は、いつも通りの時間を指していた。

 駅前のベンチも、いつも通りそこにあった。

 でも――ユイの姿はなかった。


 最初は「少し遅れてるだけだろう」と思った。

 コンビニで時間を潰し、ジュースを買って戻った。

 でも、まだいない。


 気づけば、もう30分以上が過ぎていた。

 何も言わずに来ないのは、これが初めてだった。

 約束をしていたわけじゃないけど、“来る”と信じていた。


 というより、彼女は“ずっといた”。

 それが、もう当たり前になっていたから。

 目の前にないだけで、こんなに心がざわつくなんて。


 ふと、「もう来ないかも」という考えが頭をかすめた。

 足元のアスファルトを見つめながら、心臓の音だけが妙に大きく感じる。

 周りの音が遠くなって、ただ一人で夜に取り残されていく感覚。


 “また一人に戻るのか”

 そう思った瞬間、喉の奥が詰まった。


 ユイは、限界だと言っていた。

「無理かも」と言った。

 もしかしたら、あの瞬間にもう――

 彼女の中で、何かが静かに決まっていたのかもしれない。


 “また歩こう”という言葉は、ただの気休めだったのか。

 それとも、本当に、もうここには来られないほどのことが――。


 目を閉じた。

 足元の冷たい空気が、スニーカーの隙間からじわりと染み込んでくる。

 しばらくそのまま立ち尽くしていた。


 電車が一本、また一本と通り過ぎる音がする。

 でも、その音の中に、ユイの声はなかった。


 ポケットの中で、握っていたスマホが汗ばんでいた。

 連絡先なんて、交換していない。

 知ってるのは名前だけ。フルネーム、たったひとつ。


 そのとき初めて、自分がどれだけ彼女のことを知らないかに気づいた。

 でも、それ以上に、どれだけ彼女の存在が今の自分を支えていたかも、知った。


 “今、彼女に何が起きてるんだ”

 考えれば考えるほど、不安は深くなる。


「何かしなきゃ」


 思わず口に出た。自分への命令みたいに。

 でも、どうすればいいのか分からない。

 分からないまま、夜が静かに過ぎていく。

 ただひとつ、確かだったのは――

 もう、何もしないではいられないということだった。


 ***


 翌朝、いつもよりずっと早く目が覚めた。

 目覚ましはかけていない。

 けれど、体が勝手に起きていた。


 外の光がカーテンの隙間から差し込んでいて、眩しさよりも、“必要なもの”に感じた。

 ユイが来なかった夜から、眠りは浅かった。

 夢の中で名前を呼ばれた気がして、何度も目を覚ました。


 どこに行けば、彼女に会えるのか――

 答えはなかったけれど、何もしないことだけはできなかった。


 顔を洗って、パーカーを着て、玄関のドアの前で一度立ち止まる。

 靴を履く指先が震えていた。

 ドアノブに手をかけたまま、心臓が強く打つ。


 “これは、ユイのためか、自分のためか”


 どちらでもいいと思った。

 ただ、動きたかった。


 ドアを開ける。

 昼の光が、真正面から差し込んだ。

 外は、騒がしかった。

 車の音、鳥の声、道を歩く人たちの会話――

 夜には聞こえなかった音が、無数にあふれていた。

 足がすくみそうになった。

 でも、そのまま進んだ。

 目指したのは、学校。

 一年前まで通っていた場所。

 あの門の前に、ユイも立ったと言っていた。


「私も、一回だけ、行ったんだよね」


 彼女のその言葉が、頭の中で何度も響く。

 通学路を歩いていると、制服を着た学生たちとすれ違った。

 その中に見知った顔はなかった。

 見つかっても、気づかれなくても、どちらも怖かった。


 校門の前に立った。

 そこには、何もなかった。

 笑い声も、視線も、噂もない。

 ただの風景。

 けれど、自分が消えていた場所だった。


「……いないよな」


 思わずつぶやいた。

 でも、それでよかった。

 ここに来ることで、ようやく実感できた。

 ユイが感じた“痛み”が、ほんの少しだけわかった気がした。


 ポケットからスマホを取り出す。

 検索欄に「東條結」と打ちかけて、指が止まる。

 名前しか知らない。

 でも、その名前が俺の中では、誰よりも大きくなっていた。

 そのとき、誰かが声をかけた。


「ハル……?」


 反射的に顔を上げると、そこにいたのは中学の同級生だった。

 同じ野球部だったやつ。今でもスポーツ刈りで、ユニフォームの跡が日焼けで残っていた。


「久しぶり……だな。元気してた?」


 俺は、一瞬言葉に詰まって、それから答えた。

「うん。少しずつ、戻ってきてる」


 彼は驚いたような顔をして、それから静かに頷いた。

「……そうか」


 それ以上の会話はなかった。

 でも、それでよかった。


 別れ際、彼がぽつりと言った。

「また、会おうな」

 昼の光の中で、俺は小さくうなずいた。


 ***


 一週間後の夜、駅にユイがいた。

 見つけた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。


 ベンチに座る小さな背中。

 フードを深くかぶって、風にさらわれそうだった。


 俺はゆっくり歩いて、何も言わずに隣に腰を下ろした。

 ユイは、しばらく何も言わなかった。

 缶コーヒーを握りしめたまま、遠くを見つめていた。


「……ごめん」

 ぽつりと、彼女が言った。

「来れなかった。いろいろ無理で、動けなくて、それで、“もう来なくてもいいかも”って、思ってた」

 声がかすれていた。

「でも……君が来てくれてる気がしてた」


 俺は、ゆっくりと答えた。

「来てたよ。……この駅に。ユイが居るかもって」


 ユイが、こちらを見た。

 目が赤くなっていた。


「なんかさ、ユイがいない夜って、すごく静かだった」

「ごめん」

「違う。……静かすぎて、気づいた。“いなかった時間”より、“一緒にいた時間”のほうが、俺の中で大きくなってたってこと」


 ユイは、唇をかんで、小さく笑った。


「それ、ずるい」

「ずるい?」

「うん。……そんなふうに言われたら、もう離れられないじゃん」


 俺は、その笑いが泣き顔の一歩手前だとすぐにわかった。


「離れないよ」


 そう言って、初めて自分の手をユイの手の近くに置いた。

 触れたわけじゃない。

 けど、彼女が自分からそっと指を寄せてきた。

 ほんの少し、指先が重なる。

 その体温が、何よりも確かだった。


「……ありがとう。ほんとに」

「俺も。……また、一緒に歩こう」

「うん。夜でも、昼でも」


 駅に電車が入ってきて、ホームが明るくなった。

 風が吹いて、二人の髪を揺らした。

 もう、何かを隠す必要はなかった。

 それぞれの傷を抱えたまま、僕らはまた、同じ場所から歩き出す。


 ***


 その日は、晴れていた。

 約束の時間は午後二時。

 場所は駅から少し離れた図書館の前。


「昼に会おう」と言ったのはユイだった。

「行けるか分からないけど、行きたいと思ったから」と。

 それだけで、十分だった。


 昼の空気は、やっぱりまだ少し重い。

 けれど、それでも今日は、歩けた。

 図書館の前に着くと、彼女はもういた。

 明るいグレーのカーディガン。

 フードはかぶっていない。

 表情は、どこかぎこちないけど、ちゃんと前を見ていた。


「……よく来たね」

「うん。がんばった」

 彼女が、ちょっとだけ照れたように笑った。


「緊張してる?」

「……ちょっとね。息苦しいっていうか、まだ慣れない。でも、君がいるから、大丈夫な気がする」


 その言葉を、俺は一生忘れないと思った。

 二人で並んで図書館の中に入った。

 涼しくて静かな空間。

 誰もこちらを見ていない。

 それだけで、ほっとした。


 児童書のコーナーの隅のソファに座って、しばらく本を眺めた。

 ユイが指でページをなぞりながら、ぼそっと言った。


「昔、ここに母と来たことあるの。あのときは、絵本読んでもらってた」

「今は?」

「今は、自分で読むよ。……でもね、今日思ったの。誰かと一緒にいるだけで、安心できるんだなって」


 俺は何も言わなかった。

 ただ、隣で座っていた。

 それだけで良かった。


 図書館を出たあとの空が、少しだけまぶしかった。

 でも、もう顔をそむけなかった。


「また来ようか」

「うん。……また来ようね。」


 夕方に近づく光の中、二人の影が並んで伸びていた。

 誰にも見られてなくてもいい。

 誰にも評価されなくてもいい。

 それでも俺たちは今、“夜だけが自由だった”あの頃を、少しだけ越えている。


 ***


 朝、目が覚めた。

 部屋の空気はひんやりしていた。

 窓のカーテンがほんの少し開いていて、そこから差し込む光が、部屋の壁にやわらかく広がっている。

 ずっと重たかった光が、今日は少しだけ、違って見えた。


 目覚ましは鳴っていなかった。

 というか、セットしてもいなかった。

 でも、自然に目が覚めた。


 理由なんてわからない。ただ、体が「起きよう」と思っていた。

 天井を見つめながら、しばらく布団の中でじっとしていた。

 何かが変わったわけじゃない。

 昨日と同じ部屋、同じ天井、同じ自分。


 でも――

 “何かを始めてもいいかもしれない”

 ふと、そんな考えが浮かんだ。


 すぐに動き出すつもりはない。

 学校に行くわけでも、誰かに電話するわけでもない。

 けれど、「何もできない」と思い込んでいた自分とは、少しだけ違う気がした。


 枕元に置いたスマホの画面が光っていた。

 通知がひとつ。

 ユイからだった。


「おはよう。また歩こうね」


 たったそれだけのメッセージ。

 でも、文字の奥に彼女の声が聞こえた気がした。

 夜に並んで歩いたときの足音、昼の図書館で笑った声。

 あの時間が、ほんの数文字の言葉に宿っていた。


 俺は、小さく笑った。

 誰かに見られたら、きっと気づかれないくらいの、かすかな笑い。

 それでも確かに、心が動いた。

 スマホの画面を見つめながら、指を動かす。


「うん。今日も、生きてるよ」


 送信ボタンを押して、目を閉じた。


 “歩く”って、誰かに見せるためじゃない。

 ただ、自分がまだ動けるって確かめるためだ。


 いつかまた、昼の街に出る日が来る。

 その日が明日じゃなくても、来週じゃなくても、かまわない。


 大切なのは、「もう一度歩こう」と思えること。

 それだけで、俺はたしかに“生きている”と感じた。

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