男性不信令嬢は今日も「フヒ、フヒヒ」と笑う
「ケ、ケイン様……今なんと仰いましたの?」
伯爵令嬢エリーザ・アルメットは、先程婚約者に言われた言葉が信じられず、震えた声音で聞き返す。
それに対してゲスデス公爵家長男のケインは、どこまでも冷淡に先程エリーザにぶつけた言葉を繰り返した。
「エリーザ、君との婚約を破棄させてもらう。僕はそう言ったのだ」
いよいよ聞き間違いではないことを悟ったエリーザは、色を失う。
「わ、わたくしのことを『愛している』と、『君のことを一生支える』と仰ったのは、全て嘘でしたの?」
「言ったか? そんなこと?」
まさかの言葉に、エリーザは愕然とする。
なぜなら『愛している』にせよ『君のことを一生支える』にせよ、ケインが事あるごとにエリーザに向かって囁いていた言葉だったからだ。
その言葉を真に受けて、ケインのことを心底から愛していたエリーザは頭が真っ白になってしまう。
そんな彼女の反応を楽しんでいるのか、ケインは薄ら笑いを浮かべながら、聞いてもいないのに婚約を破棄する理由について語り出す。
「一緒に過ごしていて気づいたのさ。僕の伴侶にふさわしいのは君じゃないってことに。まあ、片時とはいえ伯爵家の小娘に過ぎない君が、王家の血を引く僕の婚約者になれたんだ。それだけでもう充分だろう?」
充分? なにが?――と、頭の中では思えども、口に出す気力がなかったエリーザは、何も言葉を返すことができず。
これ以上は時間の無駄だと思ったのか、ケインは薄ら笑いを深めながらエリーザの前から立ち去っていった。
そして、そのわずか三日後。
ケインが今度は子爵家の令嬢と婚約を結んだことを、エリーザは知った。
◇ ◇ ◇
「わたくしが愚かでしたわ」
自室のベッドに突っ伏しながら、エリーザは呟く。
実のところケインには、エリーザの前にも一人、婚約者がいた。
ケインが言うには、その婚約者はひどい女性だったらしく、事あるごとに癇癪を起こし、あまつさえ自分に暴力を振るったとの話だったが……今ならわかる。その言葉が全てを嘘であったことを。
ケインは弄んでいるのだ。
そのためだけに、エリーザのような世間知らずな小娘と婚約を結んでいたのだ。
そうでなければ、自分に向かってああも散々愛の言葉を囁いておきながら、ああも簡単に捨てるなんて真似ができるわけがない。
そうでなければ、爵位の差をいいことに、ゲスデス公爵家の方から今回の件については決して他言しないようにと、エリーザの父であるアルエット伯爵に圧力をかけてきたりなどするわけがない。
「もう信じませんわ……! 殿方のことなんて……!」
そう吐き捨てると、エリーザは涙に濡れた枕に顔を埋めた。
一週間後――
(何なんですの、これは?)
今自分が侯爵家の長男と縁談をさせられている状況に、エリーザは辟易していた。
自分で思っている以上にエリーザがモテてるのか、それとも、ケインが「エリーザって女、マジちょろいからw」と吹聴しているのかはわからない。
兎にも角にも、エリーザの心の傷が塞がらないうちに、侯爵家から縁談の話が持ちかけられてしまったのだ。
そして、例によって爵位が上の相手に「NO」を突きつけられなかった父――アルエット伯爵は、エリーザの心傷を知りながら話を受けてしまい……こうして、縁談させられるハメになってしまったのであった。
人の気持ちも知らないで縁談を持ちかけた時点で、侯爵家の長男が信用ならない人間であることは火を見るよりも明らか。
人の気持ちを知っていながら爵位が上の貴族には強く出られず、縁談を組んでしまった父親も、エリーザの中では信用ならない人間のカテゴリに片足を突っ込んでいた。
(ここまでひどいと、逆に笑えてきますわね)
その内心どおりに、エリーザの口から勝手に「フヒ、フヒヒ」と笑い声が漏れる。
貴族の令嬢らしからぬ、不気味な笑い方だった。
事実、侯爵家の長男も、同席していたその親も、肉親であるアルエット伯爵すらも引いていた。
そんな三人の反応を見て、エリーザは確信する。
これですわ!――と。
◇ ◇ ◇
侯爵家長男との縁談が破談になって以降、エリーザはよく笑うようになった。「フヒ、フヒヒ」と不気味に。
その噂は瞬く間に社交界に拡がり、貴族の令息たちはエリーザに縁談を持ちかけるどころか、彼女に近寄ることすら忌避するようになった。
今やすっかり男性不信に陥ってしまった、エリーザの狙いどおりに。
露骨なまでに男を避けるようになった娘を見かねて、アルエット伯爵は不気味な笑い方をやめるよう促したが、エリーザは頑として聞き入れなかった。
爵位が上の相手に強く出られないことからもわかるとおり、アルエット伯爵は決して気の強い人間ではない。
その性格のせいで娘を精神的に追い込んでしまった自覚もあってか、アルエット伯爵はエリーザに対しても強く出ることはできなかった。
娘は一生独り身でいるつもりかもしれない――そんな恐ろしい未来がアルエット伯爵の脳裏に浮かび始めた頃だった。
とある伯爵家から、縁談の話を持ちかけられたのは。
「わたくしに縁談……ですか」
露骨に嫌そうな顔をするエリーザに内心気後れしながらも、アルエット伯爵は極力威厳を保ちながら首肯を返す。
「うむ。クトキ伯爵家の三男で、ヴィンセントくんと言ってな。なんでも、今のエリーザに一目惚れして、周囲の反対を押し切ってまで縁談を組むようクトキ伯爵にお願いしたそうだ」
「今のわたくしにですか?」
要はヴィンセント某が、「フヒ、フヒヒ」と不気味な笑い方をするようになったエリーゼに一目惚れしたと言っているのだ。
エリーザがますます嫌そうな顔をするのも無理はないと、アルエット伯爵ですらも思っているくらいだった。
しかし、だからといって娘に同調して縁談を――もしかしたら最後かもしれないチャンスを――なかったことにするわけにはいかない。
ゆえにアルエット伯爵は、エリーゼの顔色を窺いながらも縁談を受けるよう促した。
「ヴィンセントくんは裏表のない性格で、国王陛下からの覚えもめでたいと聞く。一度会ってみてはくれまいか?」
エリーザはしばらく難しい顔で考え込んでから、諦めたように「わかりましたわ」と答えてくれた。
◇ ◇ ◇
縁談当日。
「フヒ、フヒヒ」
アルエット伯爵家の当主である父親に頼まれた手前、縁談の話は受けたものの、内心ではさっさと終わらせたいと思っていたエリーザは、これでもかと不気味な笑みを浮かべていた。
何せ今この場には、縁談相手のヴィンセントに、その父親であるクトキ伯爵、エリーザの父――自分一人に対して三人の男性が同席しているのだ。
男性不信に陥ってしまったエリーザにとって状況そのものが苦痛でしかなく、さっさと終わらせたいと思うのは当然の帰結でしかなかった。
だが、
(なんでこの方、恋する乙女が恥ずかしさのあまり意中の殿方を直視できないみたいな顔をしていますの?)
まさしくそんな感じで、ヴィンセントは「フヒ、フヒヒ」と笑うエリーザをチラ見しては、恥ずかしげに視線を逸らすことを繰り返していた。
「ほ、本当に彼女でいいのか?」
小声で訊ねるクトキ伯爵に、ヴィンセントは力強く首肯を返す。
「彼女だからいいのです」
「そ、そうか……」
困惑するクトキ伯爵は、助けを求める様にアルエット伯爵に目配せする。
「あ、後はお若い二人に任せるというのはどうだろうか?」
場の異様な空気に耐えられなかったのか、逃げる気マンマンなアルエット伯爵の提案に、クトキ伯爵は喜々として首肯を返すと、二人の伯爵はそそくさとこの場から立ち去っていった。
そんな情けない父親の背中を見送りながら、エリーザは思う。
(殿方とは言っても、肉親だから信じたいという気持ちはありますけど……)
あるいは、心の奥底ではまだ、殿方のことを信じたいという気持ちが燻っているのかもしれない。
縁談を受けたのも、父親の顔を立てることだけが理由ではないかもしれない。
そんな内心を否定するように「フヒ、フヒヒ」と笑っていると、またしてもヴィンセントがこちらをチラ見しては恥ずかしげに視線を逸らすのを見て、エリーザは思わず眉根を寄せてしまう。
ヴィンセントが如何にも男らしい男な外見をしており、だからこそその反応の異様さは殊更際立っていた。
(そういえばお父様はヴィンセント様について、裏表のない性格だと仰っていましたわね)
物は試しだと思ったエリーザは、単刀直入かつ棘まみれの問いをぶつけることにする。
「ヴィンセント様はどうして先程から、わたくしが笑う様を見るたびに気持ちの悪い反応をしてらっしゃるのですか?」
いっそこれで嫌われてしまって、さっさと縁談が終わってしまえばいいと思っていたエリーザだったが。
ヴィンセントから返ってきた言葉は、予想外かつ理解不能なものだった。
「す、すまない。こんな感情を抱いたのは生まれて初めてで、俺自身も困惑しているのだが……エリーゼ嬢の笑い方が、あまりにもチャーミングすぎてな。直視できないんだ」
「……………………………………………………は?」
エリーザ史上最高に間の抜けた「は?」が、口から漏れる。
そんなエリーザの反応が目に入っているのかいないのか、ヴィンセントは話を続ける。
「失礼な話で申し訳ないが、社交パーティの場で君の笑顔を目の当たりにするまで、君のことは顔も名前も認知していなかったんだ。だがその日、君の笑顔を見て、笑い声を聞いて……俺は生まれて初めて一目惚れという感情を知った」
ヴィンセントが言っている言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
チャーミング?
肉親すらドン引きするあの笑い方が?
ウッソでしょ?
(お、落ち着きなさい、エリーザ・アルエット! これはおそらく、わたくしを誑かすための嘘。ケインと同じように、甘い言葉でわたくしをその気にさせて、弄ぶつもりに違いありませんわ!)
とは思ったものの、小娘一人を弄ぶために「不気味な笑い方にハートを射抜かれた」などという不名誉極まりない評価を得るのは、社交界的な意味であまりにも収支が合わない気がする。
(……マジですの?)
まさか。そんなはずは――などと考えながらも、今一度「フヒ、フヒヒ」と笑ってみる。
案の定ヴィンセントが恥ずかしげに視線を逸らしてきたので、身を乗り出しながらさらに「フヒ、フヒヒ」と笑ってみせると、
「す、すまない……もう少しだけ離れてくれないか。この近さで君の笑顔を見せられるのは……俺にはあまりにも刺激が強すぎる」
顔を真っ赤にしながら、そんなことを懇願してきた。
これには男性不信のエリーザといえども(……マジですわね)と確信せざるを得なかった。
結局、エリーザが不必要に「フヒ、フヒヒ」と笑い、そのせいでヴィンセントがまともに会話できなくなってしまったことで進展はおろか後退すらままならないまま、この日の縁談は終わりを迎えたのであった。
エリーザに一目惚れしたヴィンセントが、次の縁談を要望するのは当然の話だったが、エリーザがそれを承諾したことは、少なくともアルエット伯爵にとっては嬉しい予想外だった。
そして、二度目の縁談当日。
「よくよく考えてみれば、君のチャーミングな笑い方に一目惚れしたから婚約してほしいと言うのは、我ながらどうかと思った。だから今回は、君の人となりを教えてほしい」
例によって「あとは若い二人に任せて」と親たちが退散したところで、ヴィンセントがこんなことを言ってくる。
裏表のない性格だとは聞いていたが、ヴィンセントがここまで腹芸の「は」の字もない人間であったことは、エリーザも予想外だった。
その一方で、こうも思う。
そういう人間だからこそ、二度目の縁談を了承してしまったのかもしれない――と。
もっとも、腹芸の「は」の字もないという意味ではエリーザも同じ。
何せ自分は、ケインの甘い言葉を真に受けて、弄ばれた末に捨てられた、取るに足りない世間知らずの小娘なのだから。
なので、ヴィンセントに倣ってというわけではないが、エリーザは自分の人となりについて嘘偽りなく答えることにした。
「殿方のことがこれっっっっっっっっぽっちも信じられない、ただの世間知らずの小娘ですわ」
直後、ガーンという効果音が聞こえてきそうなほどにショックを受けたヴィンセントが、よろよろと後ずさる。
「そうか……男が……信じられないのか……」
本当に腹芸の「は」もなくションボリと項垂れるヴィンセントに、さしものエリーザも慌ててしまう。
慌ててしまったから、ついこんなことを口走ってしまう。
「で、ですが! 殿方のことを信じたいという気持ちはまだ残っていますわ! でなければ、またあなたと会おうなどとは思うはずがありませんもの!」
途端、パァ~~ッという効果音が聞こえてきそうなほどに、ヴィンセントの表情が喜びに満ちていく。
この方、こんなザマで社交界でやっていけますの?――と、心配になるほどのわかりやすさだった。
「そ、そうか……よし! 次は俺の人となりについて話そう。俺は……そうだな……人からはよく裏表がない性格だと言われている!」
自覚というものが微妙に感じられない物言いで、既知にも程がある情報を自信満々に言ってくる。
そんなヴィンセントのことがあまりにもおかしくて、久しぶりに、普通に、声を上げて笑ってしまう。
突然笑い出したエリーザに、しばし呆気にとられていたヴィンセントだったが、
「こちらの笑い方もチャーミングではあるが……やはり君は、あの笑い方をしている時が一番チャーミングだな。何せ今の笑い方は、まだなんとか直視できているからな」
予想外なようで予想どおりな言葉に、今度はエリーザの方が呆気にとられるのであった。
それからエリーザは、三度、四度と、ヴィンセントとの縁談を重ねた。
会って、話して、彼の人となりをより深く知っていくにつれて、こんな感情が芽生えてくる。
(ヴィンセント様は、信用してもいい殿方かもしれませんわね……)
その感情に従うことに決めたエリーザは、五度目の縁談において、こちらの方から踏み込んだ話をすることに決めた。
「ヴィンセント様。わたくしがなぜ、殿方のことが信じられなくなったのか……聞いてくれますか?」
「正直、その話は聞きたくて聞きたくてしょうがなかったくらいだが……いいのか? 君にとっては、つらい話になるんじゃないか?」
「構いません。それに、何が原因かはヴィンセント様も察しはついているでしょう?」
「……察し?」
ヴィンセントの首が、わずかに傾く。
エリーザがケインに婚約破棄されたことは、当然社交界に知れ渡っている。
エリーザは思わず心の中で(ウッソでしょ?)と思っていたら、
「……そうか。君がケイン卿に婚約を破棄されたことが原因だったのか……」
今さら気づいたような物言いに、エリーザは思わず苦笑してしまう。
同時に、こうも思う。
こういう方だからこそ、話したくなかったのかもしれない――と。
「しかし、いいのか? 婚約破棄のようなデリケートな話は、口外してはいけない話もあると思うのだが」
「構いませんわ。ケイン様は家の力に物を言わせて、婚約破棄の件について他言しないようにと、わたくしたちに圧力をかけてきただけですもの」
そういう契約を結んだわけでもなければ、誓約書を書かされたわけでもない。だから勝手に喋っても問題ない――と言わんばかりの物言いに、今度はヴィンセントの方が苦笑してしまう。
「わかった。君がそう言うなら、是非とも聞かせてくれ」
そうして、エリーザは話した。
ケインの甘い言葉に騙され、弄ばれた末に婚約を破棄されたことを。
全ての話を聞き終えた後、ヴィンセントの表情は見たこともないくらいに険しいものになっていた。
さすがに気になったエリーザは、控えめに声をかける。
「ヴィンセント様……?」
声をかけられたヴィンセントは、我に返ったようにハッとした表情を浮かべると、
「あ……すまない。君の話を聞いて、なぜケイン卿がそんな真似をしたのかと、考え込んでしまってな……」
裏表のない彼にしては珍しく、〝裏〟を感じさせる言葉だった。
嫌な予感を覚えたエリーザはそれとなく追及してみるも、はぐらかされてしまい……一週間後、ヴィンセントが社交パーティの場で、ケインと殴り合いのケンカをしたという報せを聞いたのであった。
◇ ◇ ◇
報せを聞いて居ても立ってもいられなくなったエリーザは、すぐさま馬車でクトキ伯爵邸へ向かった。
「ヴィンセント様!」
「エリーザ嬢……すまない。心配をかけてしまったみたいだな」
申し訳なさそうに謝るヴィンセントの右頬には、ケインに殴られたのか、青痣ができていた。
さしものエリーザも、表情を悲痛に歪めてしまう。
「わたくしのせいですわね……わたくしがあんな話をしたから、ヴィンセント様はケイン様を……」
「確かに、俺がケイン卿に会いに行ったのは君の話を聞いたことが起因している。だが、俺がケイン卿と殴り合ったことは、まかり間違っても君のせいじゃない。あれは一から十までケイン卿が悪いんだからな」
そうして、ヴィンセントは話した。
ケインが出席する社交パーティに、ヴィンセントはあえて出席し、婚約破棄の件でエリーザに謝罪するよう要求したことを。
初めの内は、エリーザとの婚約を破棄した内容については「不幸な行き違いがあった」だの何だのと取り繕っていたケインだったが、ヴィンセントのあまりのしつこさに激昂。
『僕は何も悪くない!』
『たかが伯爵家の小娘が身の丈も弁えず、王家の血を引く僕と結ばれるなどと本気で勘違いする方がおかしい!』
『一時とはいえ、僕の婚約者になれる栄誉をくれてやったんだ! それで満足しなかったあの女が悪い!』
などといった具合に、悪いのは全てエリーザであって、自分は何一つ悪くないと言わんばかりのケインに、今度はヴィンセントが激昂。
殴り合いのケンカに発展した次第だった。
そして、正式な処分が下されるまでの間、ヴィンセントは謹慎処分を受けることになってしまったのであった。
「ごめんなさい……わたくしのせいで」
「だから、エリーザ嬢のせいではないと言ってるだろう」
とは言いながらも、なぜか嬉しそうに笑っているヴィンセントに、エリーザは眉根を寄せる。
「曲がりなりとはいえ、王家の血筋の令息を殴ってしまったのですよ? この後、どのような厳しい処分が下されるかもわからないのに、どうしてそんな風に笑っていられるのですか?」
言われて初めて気づいたのか、ヴィンセントは意外そうに片眉を上げる。
「……そうか。笑っていたか……」
と、独りごちてから、ヴィンセントはますます嬉しそうに笑いながらエリーザに返した。
「俺がこうして笑っているのは、たぶん――いや、間違いなく嬉しかったからだな。何せ『殿方のことがこれっっっっっっっっぽっちも信じられない』と言っていた君に、心配してもらえたのだ。嬉しくないわけがない」
言われて初めて、男性不信を公言して憚らない自分が心底から男性を心配していたことに気づき、エリーザの顔が瞬く間に真っ赤になる。
「もうっ!」
と、ふくれっ面でそっぽを向くエリーザに、ヴィンセントはいよいよ声を上げて笑い出すのであった。
その後――
結局のところ、ヴィンセントは一ヶ月の謹慎処分を受けるだけで済んだ。
殴り合いのケンカに発展する前、ケインが頭に血が昇ってつい口走った、エリーザとの婚約を破棄した真相を聞き、パーティに出席していた紳士淑女の多くがヴィンセントの行動を支持したことが大きかった。
一方ケインも、ヴィンセントと同じように一ヶ月の謹慎処分を受けることになったが、やはりというべきか、ケインは下された処分を承服しなかった。
青痣一つで済んだヴィンセントと違って、ケインの方は、前歯を二本へし折られるほどボコボコに殴られたという理由もある。
だが一番の理由は、王家の血を引く自分が、たかが伯爵家の、それも跡取りですらない男と同じ処分を下されたことが、気に入らなくて気に入らなくて仕方がないことにあった。
そこでケインは、謹慎処分を受けているにもかかわらず登城し、自分の処分を解いてヴィンセントの処分を重くするよう国王に直談判したが、その行為がかえって自分の首を絞めることとなる。
一年ほど前、国王がクトキ伯爵の領地で鹿狩りに興じた折、ヴィンセントは父に命じられて国王のお供をすることになった。
王家の血筋は裏表がありすぎる者が多く、そのことに辟易していた国王は、鹿狩りを通じて、ヴィンセントが一歩間違えれば無礼になりかねないほどに裏表のない人間だと知り、
その人柄をいたく気に入った。
そのヴィンセントの処分を重くして、自分の処分は軽くしろと、王家の血筋らしい裏表っぷりを披露しながらケインが直談判してきたのだ。
しかも、殴り合いのケンカに発展した経緯が、国王の耳にも届いているとも知らずに。
結果、先の手を出したヴィンセントは、当初の予定どおり一ヶ月の謹慎処分となり、息子の婚約破棄について他言しないようアルエット伯爵に圧力をかけたゲスデス公爵への罰の意味も込めて、長男であるケインをゲスデス家から追放するよう命じた。
その後ケインがどのような末路を辿ったのかは、少なくとも社交界では耳にすることはなかった。
そして――
エリーザは六度目の縁談にて、婚約を結ぶ決心がついた旨をヴィンセントに伝えた。
「ほ、本当にいいのか? エリーザ嬢」
感極まった声音で訊ねるヴィンセントに、エリーザは恥ずかしさのあまり頬を赤くしながらも首肯を返す。
「正直に言えば、今でも殿方のことを信じる気にはなりません。ですが……この世でただ一人、ヴィンセント様だけは……心から信じられると思いましたので……」
赤くなった顔をそのままに、エリーザははにかむ。
その笑顔に釣られて、ヴィンセントも笑う。
「その笑顔も、とてもチャーミングだ。だが……やはり君は、あの笑い方をしている時が一番チャーミングだな」
「……本当に、ヴィンセント様は裏表のない方ですわね」
と、呆れたように言いながらも、エリーザは「フヒ、フヒヒ」と笑う。
その笑顔は、相も変わらず不気味なものだったけれど。
心底から信じると決めた男性に向けたものだったからか。
拒絶のために浮かべていたいつもとは違って、とても、とても、幸せそうな笑顔だった。