第八話 象徴の紫
「ねぇ、マリー?」
「どうかなさいましたか?」
「なんだか、今日はみんな慌ただしいけど何かあるの?」
「え……え、!?」
ちょうど焼き菓子を載せた銀盆を持ってきたニーナは、手を震わせながら立ち尽くした。皿の上で砂糖菓子が小さく音を立て、彼女の動揺を映す。顔はみるみる青ざめ、視線は泳ぎ、落ち着かない。
「ニーナ、もしかしてフェリシア様に何も話してないの!?!?」
「姉様っ……! 私、てっきりもうフェリシア様にお伝えしている気でいました……!!」
「二人ともどうしてそんなに慌てているの……??」
マリーは一瞬言葉を詰まらせたが、意を決したように姿勢を正した。
「実は今宵、陛下が急遽フェリシア様のお披露目パーティーを催されることになりまして……」
「え……!?」
「ロザリア様がお越しになった夜――つまり二週間ほど前から、密かに準備が進められていたのです」
「フェリシア様、申し訳ございません……!」
ニーナは銀盆を置くと、今にも泣きそうな表情で深く頭を垂れた。
フェリシアは少し驚きながらも、柔らかな声で言う。
「誰にでも失敗はあることだから良いけれど……でも、私は何も準備してないよ……?」
マリーは胸に手を当て、安心させるように微笑んだ。
「どうかご安心くださいませ。ご招待されるのは皇帝派の限られた方々だけ。ドレスや装飾はすべて手配済みでございます。フェリシア様は、ただ陛下のお傍におられれば十分に」
「でも……招待される方々のお名前も私、知らないのよ……?」
「私とニーナが常にお側に控えております。何かございましたら必ずお支えいたします」
「……そう?」
フェリシアは胸の奥に小さな不安を抱えながらも、二人の言葉に頷いた。
*
夕暮れ、フェリシアの居室は灯された燭台の明かりで黄金色に染まっていた。
鏡の前に座る彼女を、侍女たちが四方から取り囲み、器用な手つきで髪を梳き、宝飾をあしらい、ドレスを整えていく。絹の衣擦れが絶え間なく響き、部屋全体が華やいだ雰囲気に包まれていく。
やがて、ドアを叩く重い音が響いた。
「姫君の準備は終わりそうか?」
低い声に、マリーが振り向き答える。
「はい、もう時期完了いたします」
扉が開かれ、アーレスと側近のガイオスが入ってきた。アーレスは無表情のまま、両手ほどの大きさの小箱を差し出した。
「姫君、これを」
フェリシアが小箱を開くと、深紫の光を宿したネックレスと、大ぶりのピアスが現れる。
「あの、陛下……?」
「何だ?」
「これは?」
「今回の宴は急遽決まったものだから、その詫びだと思ってくれ」
「ありがとうございます……」
マリーが横から促す。
「フェリシア様、せっかくですしお付けになってはいかがでしょう」
フェリシアは小さく眉を寄せた。
「でも……紫色って、この国では皇族にしか許されていないものでしょう?」
「構わない。この日のために用意したのだ」
アーレスは一言で言い切る。
(……本当にいいのかな、?)
フェリシアは疑念を抱きながらも、マリーの手で宝飾を身につけた。紫水晶が喉元で冷たく光り、耳元で揺れた。
支度が整うと、アーレスは自然に手を差し出した。
「そろそろ行こう」
差し出された掌に導かれるまま、フェリシアは会場へと足を進めた。
*
夕刻、アルカナ宮の大広間は光の海に包まれていた。
天井から吊るされた幾筋ものシャンデリアが眩いばかりの輝きを放ち、磨き抜かれた白大理石の床に反射してきらめく。壁面を飾る紫紺のタペストリーには、エセリアル帝国の双頭鷲が金糸で織り出され、来賓たちの威容を見守るかのように広がっている。
会場には既に選りすぐりの皇帝派貴族が集まっていた。男たちは黒や濃紺の礼装に金や宝石を散らし、女たちは色鮮やかなドレスに身を包んで互いに美を競い合う。控えめに笑い合う声と、楽師たちが奏でる弦楽の旋律が交じり合い、穏やかなざわめきが広がっていた。
扉口に立つ門官が高らかに告げる。
「アーレス・エセリアル・ファータリオン皇帝陛下、ならびにフェリシア・リュミエール・アルストロメリア皇女殿下、御入場!」
ざわ、と空気が揺れた。
入場してきたアーレスの姿に、貴族たちの視線が一斉に吸い寄せられる。その隣に寄り添うフェリシアは、透き通るような白肌を淡い紫のドレスが際立たせ、胸元に輝く紫水晶のネックレスと耳元で揺れるピアスが、凛とした気品を添えていた。
「……まあ……」
小さく息をのむ声があちこちから漏れる。
紫は直系皇族にのみ許された象徴の色。その禁色を纏う少女の存在が、会場にさざ波のような動揺を広げていった。
アーレスは淡々とした表情で、フェリシアの手を取ったままゆっくりと歩みを進める。近くにいた高位貴族が彼を呼び止め、二言三言言葉を交わすと、アーレスは短く告げてフェリシアから離れた。
「すまない、少し席を外す」
取り残されたフェリシアに、すかさず近づいてきたのは数名の令嬢たちだった。鮮やかな緋色や翡翠色のドレスを纏い、扇子を手にしながら微笑を浮かべているが、その目には探るような色が滲む。
「ところで、リュミエールの皇女様はご存じかしら?」
一人が唇に笑みを貼り付けたまま囁くように言う。
「エセリアル帝国において紫を纏うことは、直系皇族だけに許された特権なのですのよ」
周囲の貴族が一斉にざわつく。
「まさか……」「あの方が……?」と小声が飛び交う。
フェリシアは一瞬言葉を詰まらせた。だがすぐに背後から、低く重みのある声が響いた。
「私が姫君に贈って、私が許可した」
「何か問題でもあるか?」
ドスの効いた声で令嬢たちに威圧
「あ、いやっ…!!良いでのはないのでしょうか、!」
「ねぇ?みなさんもそう思うでしょう?」
「ええ、もちろんでございますわ!」
令嬢たちは顔を引きつらせながら、慌てて扇子で口元を隠す。
「陛下、やはり陛下が良くても皆様が良くなければ外した方が良いのではないでしょうか…?」
「私が良いといえば良い、他は関係ない」
「(関係ないって…)」
フェリシアは国を率いる者として相応しくない響きに胸の奥につっかえるものを覚えた。
それからは、貴族たちに挨拶を受けては応じ、宴は大きな混乱もなく進んでいった。
*
「――あの! 皇女殿下!」
先ほどの令嬢たちの一人が、思い切ったようにフェリシアへ声をかけてきた。
「どうかしましたか?」
振り返ったフェリシアに、令嬢は一瞬たじろいだが、やがて勇気を振り絞ったように一人が勢い込んで問いかける。
「皇帝陛下とはどのような生活を送ってらっしゃるのでしょうか……!!」
「ちょっと、メアリ……! 失礼よ!」
「っ……! も、申し訳ございません……」
フェリシアは目を瞬き、少し考えてから微笑む。
「えっと……どうして気になるの?」
「だって……紫を纏うことは直系皇族の証。それを皇帝陛下直々に贈り、着用を許されるなんて……まさに愛ではありませんか!」
「愛かどうかはわからないわ。だって陛下とお会いしたのなんて、今日を含めて三度きりだもの」
「いいえ!」令嬢は扇子を握りしめて力説する。
「女嫌いとまで噂される陛下が、皇族の象徴である紫を姫様に贈られたのです。謙遜なさることも、不安に思われることもございませんわ!」
その場にいた令嬢たちが一斉に頷き合う。話題は自然と「愛」や「結婚観」へと移り、笑い声が弾んだ。フェリシアも次第に緊張を解き、頬を染めながら語らいに加わる。
やがて一人の令嬢が、思い切ったように切り出した。
「殿下、もしよろしければ……後日、私たちのお茶会にいらしていただけませんか?」
「殿下がいらしてくだされば、きっと素敵なひとときになります」
フェリシアは驚きと喜びの入り混じった表情を浮かべ、微笑んだ。
「えぇ是非、私も楽しみにしていますね」
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次回、【第九話 焦げた匂いとマドレーヌ】




