第三話 「いってきます」
政略結婚が決まったあの日から、あっという間に三ヶ月が過ぎ、フェリシアがエセリアル天帝国へ嫁ぐ日がやってきた。
朝から晩まで、エセリアルからやってきた講師たちに、マナーや礼儀作法はもちろん、歴史や政治、文化や風習、さらには流行に至るまで、片っ端から詰め込まれる日々。
宮殿内が慌ただしくする一方で、フェリシアは自分の部屋のバルコニーに立ち、もう二度と見ることができないかもしれない景色を目に焼き付けていた。
バルコニーの向こうに広がるのは、庭園。美しく整えられた花畑の奥には、広い草原と大きな木があり、その木はフェリシアにとって数え切れない思い出が眠る場所だった。
シンシアと木登り競争をして降りられなくなったこと。母に絵本を読み聞かせてもらったこと。大樹の枝に取り付けられたブランコから靴を飛ばしては明日の天気を占い、外れたこと。
終わりのない幸福な思い出は、これから旅立つフェリシアの背中を引き止めるかのようだった。
「姫様、エセリアル天帝国からのお迎えが到着しました。陛下が執務室でお待ちです」
「えぇ……今行くわ」
普段ならなんてことのない、自室から父の待つ部屋へ向かう道のりは、そのときばかりは酷く長く感じられた。
会話もなく、ただフェリシアと呼びにきた従者の足音だけが廊下に響く。沈黙の中、その一つ一つの足音が足枷のように重く、フェリシアの歩みは遅くなるばかりだった。
そしてついに、フェリシアは父の待つ執務室に辿り着いた。
三度ノックし、入室の許可が下りると、フェリシアは扉をそっと開ける。
そこにいたのは、窓の外を見つめる父リベルタの姿だった。
「お父様?」
「フェリシア。アーレス・エセリアル・ファータリオンという男は、悪魔のような男だ」
「今からその人に嫁ぐのに、怖いこと言わないでよ……お父様」
リベルタは、アーレスという男について語り出した。
実父である前皇帝と、その正室である実母や側室あわせた十人の妻、さらにその子供たち──母の同じ弟を除いて、全員を処刑したこと。
戦場での血も涙もない戦略。
皇帝としての手腕と外見以外には、何一つ良い噂のない皇帝だということ。
それはただフェリシアを怖がらせるためではなく、娘への忠告ともいえる言葉の数々で、彼女の虚勢を打ち砕くには十分だった。
「……お前が断れないことを確信した上で、婚約を申し出たのだ」
「私はお前の幸せを願っていたのに、結局は国の未来のためにお前を犠牲にしてしまった」
「すまない。本当に取り返しのつかない過ちを、私は犯してしまった……」
「お父様、違いますよ……ここが戦場になれば、民も、私も、シンシアやレアリテも、お父様も、皆が犠牲になったかもしれないのです」
「最良の決断だったのですよ、お父様」
リベルタは、今にも泣き出してしまいそうな瞳でフェリシアを見つめた。だが、そんな父に、フェリシアは精一杯の強がりで笑顔を返す。
コンコンコン──。
三度のノックと共に、勢いよく扉が開かれた。
「陛下!! 皇女殿下!! エセリアル天帝国の皇帝が……直接、我が国にお越しになられました! 至急、皇太子殿下と皇子殿下が対応しています!!」
「あの男が直接迎えに来ただと!? ……兵の数は!? 連れてきているのだろう!?」
「兵は十名ほどかと。戦争の意思はないと思われます!」
「そうか……ならよい」
「フェリシア、行きなさい」
「……はい、お父様」
コンコンコン──。
「フェリシアでございます。入室のご許可を」
「許可する」
扉の向こうからレアリテの声が聞こえる。扉を開くと待っていたのは、退屈そうに窓の外を見つめる、いい身なりをした男性がいた。
窓から差し込む光に照らされ輝く整えられた短い黒髪、そして三七に分けられた前髪の隙間から見える、一級品のアメジストにも劣らぬ美しい菖蒲色の瞳ーーこの男こそがエセリアル天帝国現皇帝、アーレス・エセリアル・ファータリオンと悟るには、そう長い時間を要さなかった。
「お初にお目にかかります、リュミエール神聖国第一皇女、フェリシア・リュミエール・アルストロメリアでございます」
ドレスを持ち上げる手も、クロスさせ少し曲げる足も、声色も、お辞儀する時の角度や表情も一国の姫として恥じぬ完璧な作法でフェリシアは皇帝に挨拶をした。
「顔を上げてくれ」
アーレスに言われるがまま顔を上げると、驚いたと言わんばかりに目を大きくする彼女の兄達と、どこか柔らかな表情を浮かべたエセリアルの皇帝がいた。
アーレスは立ち上がると、フェリシアの側へ一歩ずつ歩いていく。
フェリシアの目の前で足を止め、彼女の手を取ると、その甲に短く口づけを添えた。
「初めまして、姫君」
「エセリアル天帝国の皇帝、アーレス・エセリアル・ファータリオンだ」
「礼を欠いた形となったこと、お許し願いたい」
フェリシアはわずかに肩を落とし、視線をそらしながらも静かに頭を下げる。
「……こちらこそ、突然お目にかかることになり、恐縮でございます」
フェリシアは小さく頭を下げながらも、緊張した面持ちでアーレスを見上げると、アーレスはわずかに眉を動かし、口元に微かに笑みを浮かべていた。
じっと、フェリシアの手を取ったまま、彼女を柔らかな笑みで見つめるアーレスと、それを見上げるフェリシア。
同室にいるレアリテやシンシアはアーレスの次の行動を待っており、部屋は沈黙に包まれた。
コンコンコン──。
「陛下、后殿下のお荷物を全て積み終わりました」
「では姫君、そろそろ出発しようか」
「…はい」
アーレスが腕を差し出すと、フェリシアはそっとその腕に手を添えた。
互いの歩幅を気にしながら、ふと後ろを振り返ると、レアリテとシンシアが控えめに距離を置きつつついてきているのが見えた。
フェリシアは少しほっとしながらも、慎重に視線を戻し、長い廊下を進んだ。
やがて、外の広場に停められた豪華な馬車へ辿り着くと、フェリシアはアーレスの腕から手を離し、レアリテとシンシアに飛びつくように抱きついた。
(もう行かないといけない……)
生まれ育った場所から、共に育った兄たちから離れる寂しさ。
そして、生まれて初めて見るリュミエール神聖国の外の世界への緊張や恐怖。
それらを全て包み隠すように、フェリシアは笑顔で二人を見上げた。
「私、もう行かなきゃ」
レアリテは妹の震える体を優しく抱きしめ返し、落ち着いた声で囁いた。
「フェリシア、無理して笑う必要はない」
「別に無理して笑ってなんか……!」
「お前の作り笑いは下手くそでバレバレだ。周りは騙せても、俺らには通じねぇよ」
「下手くそじゃないし……!!!」
シンシアはいつも通りおちょくるような口調だったが、二人の抱擁はフェリシアに家族の温もりを感じさせた。
「姫さま……」
馬車の近くから慣れ親しんだ声が聞こえ、振り返ると乳母のアリサが涙を堪えながら立っていた。彼女の手には小さな包みが握られている。
「これを……お守りとして」
アリサが差し出したのは、一つのペンダントだった。
中には、幼いレアリテ・シンシア・フェリシア、そしてまだ白髪のない父と、今は亡き母が映る。背景には、あの大樹がそびえる花畑。
それはリュミエール神聖国の庭で過ごした穏やかな日々の象徴のようだった。
「アリサ……ありがとう」
フェリシアはアリサと抱き合い、別れを名残惜しむように涙を流した。
「姫君、そろそろ行こう」
フェリシアは馬車に乗る間際、家族の方へと振り返った。
どこか吹っ切れたような表情で、満面の笑みを浮かべて。
「いってきます!!」
ここまでお読みいただきありがとうございました。
次回、【第四話 寄り道】