『遠い日の灯り、今日の輝き』
『遠い日の灯り、今日の輝き』
タワーの展望台から見下ろす横浜の街並みが、マジックアワーの柔らかな光に包まれていた。
菜緒子と隆介は展望用のベンチすわり、煉瓦造りの赤レンガ倉庫群に沈みゆく夕陽が映える様子を見つめていた。
オレンジ色に染まった空の下で、歴史ある建物の影が長く伸び、その姿は堂々とした威厳を湛えていた。
数分前、エレベーターに乗り込んだ時の緊張が、まだ菜緒子の胸の内に残っていた。
細い鉄骨が風に揺られる度に軋む音を立て、海からの潮風がタワー全体を包み込んでいた。
展望台まで上がる間、思わず隆介の腕を強く握りしめていた自分が恥ずかしくなる。
でも、彼は優しく微笑むだけで、何も言わなかった。
「綺麗だね」
横から聞こえた声に、菜緒子は声がする方に向いた。
二人はカジュアルな服装でリラックスした表情を見せている。
先月、突然に隆介に横浜行を誘われた時は驚いたが、こんな素敵な景色を見られるなんて来て良かったと思った。
「うん、本当に」菜緒子は穏やかな笑みを浮かべながら答えた。
「この時間の光って不思議よね。すべてが優しく輝いて見える」
隆介は菜緒子の隣に座り、同じように街を見下ろした。港に停泊する船々のシルエットが水面に映り、その光景は絵画のように美しかった。
遠くには東京の高層ビル群が夕暮れの中にぼんやりと浮かび上がり、近代的な街並みと歴史的な建造物が見事に調和していた。
隆介は、開通したばかりのベイブリッジに男友達4人でドライブに来た時にマリンタワーを観光した。
それ以来、数十年振りに訪ねることになった。
その時は、こんな風に女性と夜景を眺めるとは想像もしていなかった。
「ここからの眺めを見たくて、ずっと誘おうと思ってたんだ」隆介が静かに言った。でも、タイミングが難しくて」
菜緒子は隆介の横顔を見つめた。職場で見る隆介とどこか雰囲気が違って思えた。
でも、こうして並んで同じ景色を見ていると、まるで時間が止まったかのように感じられた。
港町の景色は、夕暮れの空気に溶け込むように優しい色をしていた。
マリンタワーの展望台では、他の観光客たちも夕景を楽しんでいた。
カメラのシャッター音や観光客の声が聞こえる中、二人だけの小さな世界が確かにそこにあった。
みなとみらいの街灯が一つ、また一つと灯り始め、街は昼から夜への移ろいの時を迎えていた。
赤レンガ倉庫の屋根には最後の夕陽が輝き、その景色は二人の心に深く刻まれていった。
「菜緒子さん」隆介が真剣な表情で彼女の名を呼んだ。
「疲れていない?」
彼の言葉は、マジックアワーの空が深い紺碧へと変わりゆくように、二人の関係に新しい色を添えようとしていた。
二人は、なんとなく昔の話をし始めた。
菜緒子は、目の前に広がる夜景に目を細めながら、微笑んだ。
「中学生の頃が、一番楽しかったな…」
そう呟くと、隆介は驚いたように菜緒子の横顔を見つめた。
「へえ、そうなの?」
「うん。毎日が新鮮で、何もかもが楽しかった。友達と部活に打ち込んで、放課後は駄菓子屋に寄って、たわいないことで大笑いして…未来に対する不安なんてほとんどなくて、ただただ毎日がキラキラしてたの」
隆介は静かに頷いた。
「なるほどな。青春ってやつですね」
「隆介さんは?」
菜緒子が問いかけると、隆介は苦笑しながら夜景を見つめた。
「俺の高校時代は、まあ、ハチャメチャだったよ。」
「ハチャメチャ?」
「うん。正直、勉強はそっちのけで、毎日友達と遊び回ってた。バイクでちょっと遠出したり、夜遅くまで映画を観たり…。それが楽しくて仕方なかったんだけど、そのツケが回ってきてさ」
「…大学受験?」
隆介は苦笑を深めた。
「そう。見事に失敗して、結局、希望していた大学には行けなかった。もっと真剣にやっていれば、違う未来があったのかなって、たまに考えてしまいます」
菜緒子はじっと彼の横顔を見つめた。
「でも、今は後悔してるわけじゃないでしょ?」
「そうですね。結局、今の仕事にも巡り合えたし、こうして菜緒子さんと一緒に夜景を見てるわけだから」
隆介が茶化すように言うと、菜緒子は微笑んだ。
「そうね。どの道を選んでも、今が幸せならそれでいいのかもしれないね」
「いいじゃないの幸せならば♪」ですね。
菜緒子はクスっと微笑んだ。
その横顔は、夜景の光に照らされて落ち着きのある綺麗な横顔だった。
二人はしばらく無言で夜景を見つめた。
みなとみらいの高層ビル群が鮮やかな光を放ち、観覧車がゆっくりと回っている。
遠くにベイブリッジが見え、その向こうには闇に沈む海が広がっていた。
「なんかさ、こういう話をしてると、時間を忘れるね」
隆介がぽつりと言った。
「うん、私もそう思う」
菜緒子も同意するように頷いた。
ただ、隆介は、菜緒子がなにかを考えているように思えた。
その瞳はどこか遠くを見つめ、微かな寂しさが滲んでいた。
彼女の唇はわずかに動いたが、言葉にはならなかった。
まるで、言葉にすることで壊れてしまうような大切な何かを抱えているかのように。
「子どもの頃の思い出って、きっとずっと色褪せないんだよね」
「そうかも」
隆介は夜景に視線を向けながら、静かに息を吐いた。
「でも、これからも新しい思い出を作っていけますよ」
菜緒子はその言葉に少し驚いたように彼を見つめた。
「そうですね」
隆介は突然、思い出すように呟いた。
「今年、あなたは一つ年を取る。その度に歳相応にとか、いい歳をしてとか、つまらない言葉があなたを縛ろうとする。あなたは耳を貸す必要はない。世間の見る目なんていつだって後から変わる。着たことない服に袖を通して、見たことのない自分に心躍らせる、他の誰でもない私を楽しむ。年齢を脱ぐ、冒険を着る。私はわたし」
菜緒子は黙って聞いていた。
「さあ、いきましょうか」
夜の風が心地よく吹き抜ける中、二人はゆっくりと時間を過ごした。
横浜の街は、変わらぬ輝きを放ちながら、静かに彼らを包み込んでいた