菊池はフミに、キスをねだった
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小学生の低学年の折、フミというがりがりに痩せた女のコがいた。話しかけたことがあるわけじゃない。だから、友だちだとか――でもない。ただ、どうしてだろう。いつもいつも教室の隅の席にちょこんとついている姿は不思議と、ほんとうに不思議と気になっていた。あたしは物分かりがいい奴なのかもしれないと自身を評価するいっぽうで、慈悲深いだけなのかもしれないとも考えた。具体的に後者だとするとかなり最悪だ。あたしはいわゆる偽善者が大嫌いだから。そんなの死ねばいいのにくらいに思っているから。
イジメがあるというわけでもないし、誰からか蔑まれているわけでもないけれど、学校にいて彼女は何が楽しいのだろう――くらいには思いを巡らせていた。まるでそうすること、そうあることを神さまに課せられ、強いられたように。フミはいつもきちんと座り、いつも楽しげににこにこ笑っていた。菩薩か、おまえは。でなければどこぞの神話の女神様なのか――?
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小五の、夏のある日だ。
性格のひん曲がった男子の佐藤くんが、朝っぱらから「これやるよ」と青いパッケージのそれをフミの机に置いた。日本でも有数の知名度を誇るであろうアイス「ガリガリ君」だった。それを見ていたコは男子も女子も関係なく、クスクス笑った。「良かったなー、フミ!」とか、「フミぃ、良かったじゃん!」などと言う男子と女子もいた。馬鹿にしているわけだ。だけど、フミは「ありがとう」と言って、やっぱりにこにこ笑った。早速、食べ始めたくらいだ。買い食い厳禁はいつの世においても学校の常とするところだろうけれど、そんなのおかまいなしに歯を立てた。おちょくられていることは百も承知、それでもしゃくしゃく食べたのだ。
フミは穏やかで、なによりきっと優しいから、先生に見つかったとしても、急いで頬張り、食べ、その旨、隠そうとしたことだろう。
その日以来、そんな「からかい」が横行する――ということはなかった。「フミっていっつも笑ってるから気持ちワリィよな」とか、「フミってさ、体育出ねーよな。ズルいっての」などという男女の心無い物言いはときどき耳にしたけれど、フミの人権が侵害されるようなことまではなかった――ように思う。陰でもっと何か、こう、陰湿なイジメが展開されていたのかもしれないし、本人からすれば悲しい出来事がままあったのかもしれない。でも、私はそんなこと、知らない。知ったこっちゃない――はずだった。
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小六の、秋口のことだった。
朝、教室の後ろのほうであたしがおしゃべりしていると、フミが入ってきた。びっこをひいていた。右足を悪くしたようだった。ふと、不安になった。……あれ? と思った。まさかあたしってば、フミのこと、本気で心配してる?
フミは白いソックス姿で、上靴を履いていなかった。誰かに隠されたんだ……。あたしの鋭く賢く尊い頭はあたしに即座にそう告げ、あたしの豊かな想像力は「画鋲とか踏んじゃったんじゃないか」との答えを導き出した。
「誰だよ!!」
気づけば、あたしはそう叫んでいた。
カッとなった、わけもわからず、とにかく、一瞬で沸点を超えた。
あたしは急いでフミに近づき、肩を貸し、席まで連れていったうえで、もう一度、「誰だよ!!」と怒鳴った。フミの机をバンバン叩き――なんだか悔しくて悔しくて、まるで大型犬が低い声を出すように、まるで小型犬がきゃんきゃん吠えるように、「誰だよ!! 誰だよ!!」と連呼した。
どうして、それでもおまえはにこにこしているのか。
腹立たしさを覚え、フミの頬をぶとうとした。お門違いだとわかったから、すぐにやめた、振り上げた手を下ろした。フミはにこにこ笑っていた。「だいじょうぶだよ? ありがとう」、そう言って、むしろここ一番の笑みを浮かべてみせた。
その日の六限目、体育の授業だった。あたしが知る限り、初めてのことだ。フミが参加した。跳び箱だった。フミは裸足で、綺麗なフォームで跳んでみせた。あたしは思わず立ち上がり、「すごいすごいっ!」と拍手を送った。能ある鷹はなんとやらだ。やろうと思えば、フミはやれたのだ、やれるのだ。
こんなに感動したのは、生まれてはじめてかもしれない。
そんなふうに思いながら誰の目も気にすることなく、あたしはわんわん泣いたのだった。
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中二になった今、あたしは結構、フミと仲良しだ。あたしは「一番の友だちだよ!」とは言わないし、フミも「キクちゃんが一番の友だちだよ!!」とは言わない。フミというコは誰とでも仲良しでいたいから、ヒトに順番をつけるようなことはしたくないのだ。あたしはそれを知っていて、フミを困らせたくないから、相応に気を遣っている。でも、優しくて大らかで素敵なフミは間違いなく親友だし、彼女もそう感じていてくれるはずだと大いに自分に言い聞かせ、それで良しとしている。
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フミはあまり元気とは言えないものだから、部活には入っていない。あたしは中二に上がるまではバスケをやっていたけれど、フミと一緒に帰り道を歩きたいから案外さっぱりと部を辞めた。後悔はしていないし、しない。あたしの運動神経の良さを知っている先生が派手に嘆こうが、父と母に「帰宅部は良くないと思うんだ」的な小言じみたことを言われようが気にしない。
近所の肉屋で評判のコロッケを買って、店前の青いベンチに並んで座って食べるのが、とても好きになった。ほんとうにがりがりで、お弁当も少しだけで、何を食べるにも少し苦しそうにするフミだけど、コロッケだけはおいしそうにかじった。「おいしいねっ」と声を弾ませ笑った。そのたび、かわいい奴だなぁと感じ、ついフミの頭を撫でてしまった。フミは「えへへ」と歯を見せて笑ってくれた。一人占めにしたい笑顔だった。
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フミの元気が徐々に失せていくのがわかった。身体はがりがりのくせに顔がぷくぅとむくんでいる日ばかりになった。お弁当もほとんど食べない。小さなおにぎりすら食べられない。
フミはやっぱり病気なんだ……。
今更だけど、事実がリアリティをもって首をもたげてきた。
コロッケもほとんど食べられなくなった。
一つだけ買って、はんぶんこ。
でも、その半分も食べきれないものだから、ほとんどあたしが食べる……。
フミに未来なんてないことくらい、素人でもわかった。
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フミが十五歳の誕生日会をするのだという。「キクちゃんに来てほしいの。ダメ……?」などと美少女に上目遣いで言われてしまうと断る術などあるはずもない。
思えば、フミの家に来るのは初めてだな――と思いつつ、それはもう立派な邸宅に招き入れられた。次の瞬間、どうして今の今までフミが家に誘ってくれなかったのか、それがわかった。出迎えてくれたお母さんが口元を両手で押さえると、膝から崩れ落ちて、泣きだしてしまったのだ。ああ、そうか。そういうことだったんだな。――いろいろと察し、悟ってしまい、なんだか、変な話だけど、肩の力が抜けた。おかあさんは子どもみたいに声を上げて泣いた。あたしに、あたしごときに「ありがとう」をくり返して、あたしの右手を両手で握って、やっぱり「ありがとう」を重ねて言った。
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その日、学校からの帰り道、冬の河川敷を歩いていると、聞きたくなかった言葉をついに聞かされた。
「キクちゃん、わたしね? 学校は今日でおしまいなんだ」
その深刻さに見合わない、さっぱりとした言い方だった。
あたしは伏せた目でフミのほうを見た。
尖った顎のその青白い横顔は、ほんとうにさっぱりとしたものだったのだ。
「身体が悪いってこと?」
「うん。自宅療養だけど、近いうちに――」
「入院しちゃうの?」
「うん」
ほんとうに、さっぱりしている。
なんだ、このさっぱり感は。
本場の塩ラーメンか?
泣きそうになった。
流したくもない涙が流れ落ちそうになった。
「コロッケ、買ってくる……っ」
あたしはフミのマフラーの上に自分のマフラーをぐるぐる巻きつけて、フミには「静かに座って待ってなさい」と言いつけ、涙も声も押し殺して一目散に走った。
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堤防の、短い緑の草の斜面で、傾いた日の赤に包まれながら、フミは小さな口をぽしょぽしょ動かして、コロッケを一つ、きちんと食べた。「やっぱりおいしいね」と笑ったあとで、財布を取り出そうとするあたりがフミだ。「要るか、バカ」と彼女の小さな頭をぽかと叩いてやった。
二人で赤い空を見上げながら――。
「あーあぁ、もっと生きたかったなぁ……」
そのセリフ、がつんときた。
……馬鹿。
バカバカバカバカッ。
いよいよ泣きそうになっちゃうじゃんかよ、こんちくしょぉぉぉ……。
「わたしが死んだら、泣いてくれる?」
「……泣かない」
「どうして?」
「あんたが死んじゃったって、認めてしまうようなもんだからだよ」フミの横顔を見る。「あんたは泣いてほしいの?」
「ううん。泣いてほしくない」にこりと笑ってみせた、フミ。「どれだけ苦しくても笑って死んでやろうって決めてるの。だから、みんなにも笑ってほしい」
「なに、その暴論」
「そうかな?」
あたしはなんだかバツの悪さに駆られ、右手で頭をがしがし掻いた。フミに「綺麗な髪だから伸ばしたほうがいいよ」と言ってもらえながらも嫌がりつづけていたのだけれどやがて負けて――そんな感じで、今では胸にかかるほどまでになった。
「ねぇ、フミ、お願いがあるんだ」
「キクちゃん、それってなあに?」
あたしは目を閉じ、すぅと息を吸ってから、「キスしたい」と言った。今までで一番綺麗に物を言えたし、ひょっとすると、世界で最も美しい声だったかもしれない。
目をしばたいてみせた、フミ。
それからにこりとまた笑った。
「キクちゃんはそういうヒト?」
「フミにはどう見える?」
「男っぽいところもあるけれど……」
「そうだよ。あたしはあんた以外の女に、こんなこと、ねだったりしない」
「わたし、セックス、したことない」
「だろうね」
「キスも、ない」
「そう思ってた。そう、期待してた」
フミは俯き、気恥ずかしそうに、少し困ったような顔をすると、晴れやかに笑って、「いいよ」と返事をしてくれた。
あたしは立ち上がった。「ほら、フミも」と急かした。彼女の腰に両腕を回すと、その細い身体は小さくびくりと跳ねた。
「えへへ。なんだか変な感じ。目は? 閉じたほうがいい?」
「自分で決めなよ。きっと……きっと、最初で最後なんだから」
「じゃあ見てる。キクちゃんのこと」
「舌、入れるから」
「うん。いいよ……?」
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最初で最後のキスをして、それからフミと会うことはなかった。「わたしもキクちゃんも、きっと泣いちゃうだけだから」――その声を言葉を尊重した。それでもLINEのやり取りくらいはして。ウチのダックスフントくんに子どもが生まれて、その写真を送ってやると、フミはメチャクチャ喜んだ。「何かが生まれるって、ほんとうに素晴らしいことだね!」とか意味深なことを返してきやがったものだから、そのときだけは電話をかけて、だけど病室だからすぐには繋がらなくて、だけどだけどきちんと折り返しをくれたから、そのときあたしは「バカッ!!」とだけ怒鳴って電話を切った。その夜は泣いた。ヒトってこんなに泣けるのかと思うくらい泣いた。たぶん、人類史上、誰よりも泣いた。
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入院から二月ほど、フミは生きた。二月もったと言ったほうが適切かもしれない。お葬式には呼ばれなかった。フミの最後の願いだったらしい。亡骸を晒すことすら嫌がったのだという。だったらせめて、何か、そう、手紙くらいは残せよなぁ――と思ったけれど、それも含めて、最後の願いだったのだろう。
どうあれ、忘れないものがある。
忘れられない、感触、味がある。
フミの紫色の唇は、とても柔らかだった。
舌も、べろんべろん舐め回してやったベロも、とても甘ったるかった。
フミ。
残念だったね――って言ったらいい?
あたしの記憶は、ずっと続く。
あたしの人生が続く限り、ずっとずっと続くよ。
何があっても忘れない。
あんたの生きた証は、あたしの胸に、強く強く響いてる。