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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

きみに捧ぐは野辺の花

作者: 吉田ルネ

短編として投稿しなおしました


 オスカーは、輝ける自分の未来を信じて疑わなかった。

 敬愛する父、兄。

 愛する母。

 愛しい恋人。

 友人。王国。国民。

 

 最大級の愛をもって、守り守られるべきもの。

 それが、自分の未来。

 けっして覆ることのない。

 そのはずだった。


 オスカーは二番目の王子。金髪碧眼の見目麗しい王子さま。

 公明正大、清廉潔白、頭脳明晰。国王である父を敬い、臣従を誓う。十八才にして王太子の補佐を任されるである切れ者である。

 たくさんの友人に囲まれ、その気安さが慕われる。

「王子なんだからもっと威厳を持たないと」

 冗談交じりにそういう友人に

「そんな性分じゃないよ。威厳は陛下がぼくの分も持っているからね」

 そう返す。


 聡明な国王とその一家、忠実な家臣、豊かな国、国民。すべてが幸福だった。




 第一報が届いたのは、そんなありふれた一日だった。


 ――イルフォード辺境領に魔物大発生。


 イルフォードの兵士は一騎当千の精鋭ぞろい。魔物の駆除はもちろん、国境の小競り合いや、野盗の討伐、密輸の取り締まりまで行う。

 イルフォード軍にまかせておけばだいじょうぶ。


 そのはずが、今回の魔物大発生は、イルフォード軍が追いつかないほど大規模だったのだ。聖剣の使い手、王太子エドガーが王国軍を率いて応援に駆けつけることになった。


 その準備を横目に、オスカーは王宮を抜けだしだ。従者ひとりだけを連れて、イルフォード辺境伯のタウンハウスへと馬を駆った。


 タウンハウスでは、使用人たちが右往左往の大騒ぎの真っ最中だった。そこへオスカー殿下の来訪が拍車をかけてしまった。

「オリビアは!」

 あわてる家令を手で制して、オスカーはずかずかと玄関ホールへ踏み入れた。


「オスカー!」

 咎めるようにオリビアが階段を降りてきた。

「せめて先触れをよこしてちょうだい」

「ごめんよ、突然。でも待ってなんかいられないよ」

「ああ、そうね。そうだわ」

「行くんだね」

 オリビアはすでに旅装である。ドレスではなく兵士と同じ服装で、明るい栗色の髪を後ろでひとつに結んでいる。


「ええ、行かなくちゃ」

 それを聞いてオスカーはぎゅうっと眉間にしわをよせた。

「任せてはおけないのか」

「両親も兄も戦っているの。わたしも行かなくちゃ」


 イルフォード辺境伯は戦闘の一族である。妻であっても娘であってもそれは同じ。

 領地の危機をだまって見ているわけにはいかないのだ。

 たまたまオリビアは、十才から教育と社交のため王都に住んでいるが、それまではイルフォードで剣技や武術を習っていた。

 野に出て、魔物や動物を狩ったり魚を釣ったり、野草や果実で煮炊きをしたり。

 見かけによらず、野生児だった。

 そんな気取らないオリビアに、オスカーは惹かれたのだ。


「このまま行くのか」

「ええ、支度が出来次第」

「護衛は?」

「マシューとあと三人」

 はあ、とオスカーはため息をつく。わかっている。わかってはいるのだが。


「せめて王国軍といっしょに行けよ」

 心配なのだ。

 マシューがついていればだいじょうぶ。それはわかる。でも。


「待っていたら初動が遅れるわ」

 イルフォード領まで馬で駆けて丸一日。歩兵と馬車を含めた王国軍が到着するのに二日から三日。遅れを取るのは否めない。


「だいじょうぶ、さくっとやっつけてくるから」

 イルフォードの大輪のバラ、と称されるこの可憐なお嬢さんが、馬を乗りこなし、剣をふるって魔物をたたき切るなど信じられない。

 その辺の柔な子息などとても太刀打ちできない。


「心配性だな」

 マシューが階段を下りながら、ちょっとバカにしたように笑った。


 マシューはオリビアに付き添ってきた護衛。辺境伯の親戚筋の子息で幼なじみある。辺境領軍の兵士でもあるマシューは、ガタイもよく百人力。

 マシューがついていればだいじょうぶ。しかもほかに三人の護衛がつく。

 だいじょうぶ。

 だいじょうぶ。


「マシュー。オリビアをたのんだよ」

 オスカーはもう泣きそうである。

「ああ。任せておけ」

 できれば自分がついて行きたい。行けない自分がもどかしい。


「お嬢さま、支度が整いました」

 使用人が告げる。

「わかった。今行きます」

 オリビアはオスカーに向き合った。

「行ってくるわね」

 オスカーはたまらずに、きつく抱きしめた。

「気をつけて」

「うん」

「行かせたくないんだ、ほんとうは」

 オリビアはくすっと笑った。

「ほんとうに、心配性ね」

「帰ってきて。かならず」

「うん、かならず帰ってくる」

「待っているから」

「うん」


 颯爽と馬に飛び乗り、駆けていくオリビアの後姿をオスカーは見送った。その胸の内には、いいようのない不安が渦巻いていた。



 第一報は吉報だった。

 ――王国軍、イルフォード軍優勢。

 後から後から湧いてくる魔物の数に苦戦はしているものの、着実に駆除ができていた。


 火薬を仕掛けて、洞窟を封鎖してしまおう。

 そんな作戦が建てられた。

 これならば少々時間はかかるかもしれないが、二、三日中に討伐は完了するだろう。


 その知らせにオスカーはもちろん、王宮中が胸をなでおろした。


 が、次の一報ですべてが覆った。

 ――バジリスク出現。


「バジリスクだと?」

 伝説級の魔物の出現に、王宮だけでなく王国中が騒然となった。

 トカゲに似たバジリスクは、体長五メートルほど。太く長いしっぽを振り回し、手当たり次第に吹きとばす。厄介なのは火を噴くことだ。

 

「ぼくも行かせてください!」

 オスカーは国王に申し出る。

「おまえが行って、なにになる。足手まといになるだけだ」

 許されるわけがない。それでも、オリビアのそばにいて、些細なことでも助けになりたかった。

「おまえはここで、エドガーが帰ってくるまで王国を守らねばならんのだ。そうでなければ、エドガーもオリビアも安心できんだろう。しっかりしろ。おまえにはおまえの仕事があるんだ」


 理屈はわかっているが。

「情けない顔をするな。そんな顔を見たらオリビアががっかりするだろう」

 そう言われてしまえば、引き下がるしかない。

 イルフォード軍がいればだいじょうぶ。負けやしない。そしてエドガーの聖剣がとどめを刺すんだ。

 オリビアが前線に出ることはないはず。

 だいじょうぶだ。だいじょうぶ。

 オスカーは呪文のようにくり返した。


 だがそれから届く報告は、悪くなる一方だった。

 ――王国軍、一個大隊全滅。

 ――イルフォード軍、三個小隊全滅。

 ――バジリスク、「瘴気の森」を出て民間農地へ。

 ――小麦畑の被害拡大。

 ――民間人が巻き添え。ケガ人多数。死者も数名。

 国王はさらに援軍を派遣した。


「父上、ぼくも行きます。行かせてください!」

 オスカーの訴えは却下された。

「言っただろう。おまえはここを守るのが仕事だ。気持ちはわかるが、堪えるんだ」

 だから理屈はわかるのだ。でも気持ちがついて行かない。じっとすわって仕事をするなど、とてもできなかった。

 侍従や大臣たちがなだめすかして、やっとのことで仕事をこなす。そんな日が数日続いた。


 ――バジリスク討伐。

 援軍と入れ違いに、待ちに待った報告が届いた。

 が。


 ――エドガー王太子、戦闘中に死亡。

 ――イルフォード辺境伯、子息、戦闘中に死亡。

 ――イルフォード辺境伯夫人、後衛にて巻き添えで死亡。


 王宮を、王都を、王国全体を絶望が覆った。


 国王は天を仰いだ。それから静かに両手で顔を覆った。

 しばらく誰も口を開かなかった。


 オリビアがどうなったのか、報告がなかった。


 間に合わなかった援軍は、そのままイルフォードに行き、事後処理に当たることになった。

 さいわいイルフォード軍の将軍は軽傷で、指揮が取れるという。将軍の元、残ったイルフォード軍と王国軍が、混乱するイルフォード領を統治することに決まった。

 倒したバジリスクは解体して処分され、魔物の洞窟は予定通り爆破して封鎖された。


 その翌日、オリビア重体の報が届いた。


「行きます! 行かせて! おねがいだよ、父上!」

 オスカーの悲痛な叫びが響いた。

「だめだ」

「どうして! ぼくは行かなければ」

「おまえが王太子になるんだ。わかるな?」

「は?」


 王太子である兄が亡くなった。ならばオスカーが次の王太子になる。当然のことだった。


「おまえはここに居なければならん」

「いやだ! ああっ、ぼくが行けばよかった! 兄上じゃなく、ぼくが行けばよかったんだ。そうすればオリビアのことも助けられたのに!」

「エドガーは聖剣使いだから行ったのだ。おまえではバジリスクは倒せなかったのだよ」

「でも」

「いいかげんにしないか! 自分だけが悲しいと思うなよ!」


 父の顔は真っ青だった。となりの母も震えながら歯を食いしばって涙をこらえている。


 わかっている。わかっているんだ。

 でも、湧き上がってくる悲しみとか不安とか怒りとか、いろんなものが入り混じった例えようのないこの感情をどうしていいのかわからない。

 どうしてぼくが聖剣使いじゃなかったんだ。

「あああーーー」

「部屋へ連れて行け。いいと言うまで部屋から出すな」

 とうとう国王がそう命令を出した。泣き崩れるオスカーは、自室に送られた。


 わかっている。わかっているんだ。

「今はみんなが混乱しているんだ」

 侍従のトーマスがなだめるように言った。トーマスはオスカーと同い年の侯爵家の子息である。

 器用にお茶を淹れて、ソファにすわるなり頭を抱えてしまったオスカーの前に湯気の立つカップを置いた。


「オリビアのことはくわしく聞いてくるから。マシューも心配だしな」

 そうだ、マシューはどうしただろう。任せろと言ったくせに。


「やるべきことはたくさんあるんだ。気持ちはわかるがひとまず落ち着いてくれ」

 トーマスは無理やりカップを持たせた。香りたかいお茶を一口飲むと、沸騰していた頭から、すうっと血が下がっていく。


「エドガー殿下はまもなく帰還される。そうしたら葬儀だ。並行しておまえの立太子の準備もしなければ。イルフォードの後始末も任せっぱなしにはできないだろう。オリビアの容態次第だが、辺境伯の代理を立てないといけないだろう?」


 王国軍の兵士もイルフォード軍の兵士もたくさん命を落とした。

 追悼もしなくてはなるまい。

 オリビアだけを優先するわけにはいかないのだ。


 オリビアの容態が知らされた。

 バジリスクの炎を浴びて大火傷を負って意識不明。現在治療中。

 マシューも複数の骨折で重傷。

 兵士や民間人にも多数の負傷者がいて、イルフォードの医者だけでは手が足りず、王宮から医療班が派遣された。


 一度イルフォードに行きたいと言ったオスカーは、諸々終わってからだ、という国王のことばを信じて、不安や苛立ちを飲みこんで奔走した。

 だが、王太子の仕事の終わりはいつなのだ。


 ひと月がたつ頃、オリビアの意識がもどったと報告が来た。

「イルフォードに行かせてください。お願いします」

 切に願うオスカーに国王は冷酷だった。

「王太子の仕事はいつ終わると思う?」


 終わりなんてない。


「おまえは王太子なのだ。オリビアのことはあきらめろ」

 オスカーは血がにじむほど唇を噛んだ。

 ただひとり生き残ったオリビアは、イルフォード辺境伯を継がねばならなくなった。

 ふたりの結婚はありえない。


 こんなことならもっと早くに婚約しておけばよかった。そうしたら、いくらかでも無理を言えたのに。

 オリビアが十八になったら、結婚を申し込むつもりだった。バラの花束を用意して、ドラマティックに演出をして。


 なんの問題もない結婚のはずだった。辺境伯はオリビアの兄が継ぐ。オリビアは自分と結婚して王宮に住む。やがて王弟の夫人として、王妃のサポートを務め、王家の社交の一端を担う。

 父も母も兄も喜んでいた。オリビアならば、いい王弟夫人になるだろうと。

 オリビアは受け入れる。そのはずだった。


 それなのに。


「手紙も見舞いも送るんじゃない」

 国王に言われてオスカーは絶望的になった。

「……手紙くらいは」

「気を持たせるな。そのほうが残酷だ」

 手紙すらゆるされない。わずかな希望も絶たれてしまった。




「……」

「……」

「……手紙なら来ていないぞ」

「……うん」


 沈黙に耐えかねてマシューが言った。辺境伯邸のオリビアの自室。友人たちからは、お見舞いやお悔やみや慰めの手紙が山ほど届いたのに。

 肝心のオスカーからはなしのつぶてだ。


 バジリスク討伐から二か月。オリビアはようやく起き上がれるようになった。

 オスカーからは何度か心配する手紙が来ていた。

 オリビアは意識を取り戻してからそれを読み、返事を送った。


「心配をかけてごめんなさい。もうだいじょうぶです」


 ペンを持つことができなかったので、代筆してもらった。

 もうじき、帰ります。

 そのことばは言えなかった。

 こんな姿は、とてもオスカーには見せられない。

 オリビアの右半分は、バジリスクの炎に焼かれていた。


 体長五メートルのバジリスク。その半分はしっぽである。そのしっぽを振り回すから、なかなか近づけない。

 討伐に手こずったのはそのせいもある。


 動きを封じようと、脚にロープをかける。せっかくかけても、バジリスクが脚を一振りすれば簡単にロープは外れてしまう。

 くり返すうちにバジリスクは「瘴気の森」の外に出てしまった。

 このままでは、領民や農地に被害が出る。

 なんとか食い止めないと。


 兵士たちは懸命にロープをかける。矢を射がける。領民たちも手伝って、バジリスクの行く手を塞ぐ柵を作る。

 その間にもしっぽに吹き飛ばされるもの、炎に焼かれるものが続出する。畑も焼かれる。家も破壊される。

 散々だった。


ようやく掛けたロープを十人がかりで押さえ込み、一本の脚を封じた。続いて反対の脚も。

 なんとか前脚の動きを止めたところで、エドガーがバジリスクの右目に聖剣を突き立てた。

 脳まで深く突き刺さった剣は致命傷だったはずだ。が、バジリスクは最後の力をふりしぼって暴れに暴れた。


 エドガーは吹きとばされ大木に激突した。

 オリビアはバジリスクの正面から、開いた口の中に向かって矢を放った。同時に吐きだされた炎がオリビアを襲った。

 オリビアが覚えているのはそこまでだった。


 炎に包まれる寸前、マシューがオリビアに飛びついて助け出したのだった。

 焼死は免れたが、オリビアの右肩から腕、首、そしてほほまでもがひどいやけどを負ってしまった。


 その直後、バジリスクは断末魔の叫びをあげて絶命した。


 オリビアはすぐに辺境伯邸に運ばれて手当てを受けた。

 意識がもどるのに一週間。その後一週間は熱にうなされ朦朧とした状態が続き、いくらかはっきりしてきた頭で、状況を理解するのにさらに一週間。

 そして教えられた両親と兄、エドガー王太子の死。

 すでに葬儀と埋葬は終わったと告げられた。

 そしてオリビアは、現実から目を背けるようにふたたび昏睡状態に陥った。


 二か月がたって、少しずつ食事もできるようになってきた。火傷の跡が引きつれて右手がうまく動かせない。ほほも引きつれるから、話すことばも少しだけはっきりしない。

 なによりも右上半身の火傷の跡がオリビアを絶望の淵に追い込んだ。


 こんな体ではオスカーに会えない。

 そんな気持ちを見透かしたように、オスカーからの手紙は途絶えてしまった。


「忙しいんだろうよ。なにしろ急に王太子になったんだから」

 そう言ったマシューの左の袖は空っぽで、ひらひらとたよりなく風に揺れていた。


「わかってるわよ、そんなこと」

 つい、つっけんどんに言ってしまってうしろめたくなる。マシューだって大怪我だったのだ。左腕の肘から先を失くし、肋骨を何本も折った。オリビアをかばったせいだ。

 骨はくっついた、と言う。でもまだ痛いはず。ほかにも細かい傷は数えきれない。腕だって痛いはずなのに、それでもオリビアを気遣う。

 同じ年なのに、オリビアよりもずっと大人だ。


「状況が変わったんだ。あいつは王太子に、おまえはイルフォード辺境伯を継がなければならない」

 前言撤回。やっぱりちょっといじわるだ。言われなくてもちゃんとわかっているのに。


「かならず帰る」

 たぶんその約束は叶えられない。

 帰ったときは、まったく違う立場になっている。

 もう恋人じゃないのだ。


 それでもやっぱり会いたいと思ってしまう。いや、こんな体じゃ会えない。気持ちが交錯する。

「それでもな、なにか一言あってもいいだろう。とは思うがな」

 マシューは苦々しげに言った。


 もしかしたら、オスカーはとっくに添い遂げられない恋人のことなんか見限ったのかもしれない。

 そうだ。きっとそうだ。


 そのほうがいい。そうやって切り捨てられたと思えば、こっちだってオスカーを恨める。


 それに、きっと王太子にふさわしい縁談が持ち上がる。

 

 辺境伯の代理を務めるクーパー将軍が、オリビアの元へ決裁する書類をどんどん持ってくる。

「休み休みで結構ですから」

 そう言うくせに、催促にくる。

 たぶんマシューの入れ知恵だ。オリビアがひとりで鬱々と考えないように、忙しくさせているのだ。

 不自由な右手に苦戦しながらも、オリビアはオスカーへの想いにふたをして、辺境伯の仕事を引き継ぎつつあった。


 バジリスク討伐から三か月後、オスカーと隣国のアニエス王女との婚約が発表された。




 この婚約発表には賛否両輪だった。

 オスカーとオリビアが仲のいい恋人だったのは、多くの人が知っていたし、きっと結婚するのだろうとも思っていた。

 あの厄災がなければ。


 事情は分かる。オスカーはエドガーの死によって急遽王太子になった。オリビアも父と兄の死によって急遽イルフォード辺境伯を継ぐことになった。

 立場上、結婚は無理である。


 でもオリビアと辺境伯一家はその身を犠牲にして、王国の危機を救った英雄である。

ひどい傷を負ったからといって、オリビアを見捨てるなんて。

 そういう思いが、どこかにある。

 オスカーとオリビアのカップルに憧れを寄せていた娘たちはとくにそう思った。


「オリビアーーー」

 リリーは馬車を下りるなり、出迎えたオリビアに抱きついた。

「あっ、おい、危ないだろ!」

 マシューがあわててリリーの腕を引いた。

「やあね、ちゃんと痛くないように加減してるわよ」

 不服そうにリリーはオリビアを放した。


 リリーは友人たちを代表して会いに来たのだ。

 みんな心配している。体のことも、オスカーのことも。

 みんなが会いに来たかった。でも、いまだに混乱が収束しないイルフォードに押し寄せるほど考えなしでもない。

 だから、リリーはみんなの思いを背負ってやって来たのだった。


 リリーはいまだに痛々しいオリビアに目を潤ませた。

 火傷の痕は生々しく赤い。襟の高いドレスですっぽりと覆っているが、隠し切れない右のほほは晒されている。来客があるときにはベールをかぶって隠しているが。


 焼けてしまった髪の毛は、男の子のように短く切ってしまった。少しずつ伸びてはいるけれど、まだ結うことはできない。

「こんなになってしまって」

 リリーはことばを詰まらせた。

「すぐに伸びるわよ」

 ケラケラとオリビアは笑った。

「でもまあ、思ったより元気そうでよかったわ」

 それが空元気であるのはリリーもよくわかっている。


「オスカーと連絡が取れる人は少ないの。トーマスとあとふたりか三人」

「側近になる人たちなんでしょう?」

「そうでしょうね。あとはぜんぜんよ。王太子になってわたしたちのことなんて忘れちゃったのかしら。それでもって婚約でしょう?」

 リリーはぷりぷりしている。

「しかもオリビアにさえ一言もないなんて不実にも程があるわ。オリビア、あなた一発殴ってもいいのよ」

「おいおい、物騒だな」

 マシューがあきれたように言った。


「もともと結婚の約束をしていたわけでもないし、わたしが怒る理由がないわ」

「もう!」

「みんなでお祝いしてあげないと。王女さまがかわいそうよ」

 言っていて悲しくなる。なぜ見捨てた恋人をかばうのか。


「理屈はわかるのよ。王太子の立場で愛だの恋だので結婚ができないのも。それでもやっぱり素直に『おめでとう』とは言えないわ」

 やれやれ、とマシューはため息を飲みこんだ。

 王太子とその妃は、この先の人間関係にひどく苦労しそうだ。


 ただオリビアは、リリーをはじめ友人たちが自分の代わりに怒っているのを知って、ちょっとだけ留飲を下げた。

 口では「お祝いしてあげなきゃ」なんて言っておいて、心の半分では「ひどい目にあえばいい」と思っている。

 嫌な女だ。

 きっと火傷のせいよ。火傷の痕のせいで、心まで醜くなったんだわ。

 これじゃあどうせ、結婚もできやしない。領地を立て直すことに専念して生きていくのだ。

 それが亡くなったエドガーや家族、兵士や領民への手向けである。そうしなければなるまい。

 でなければ、彼らの死は無駄になる。


「おまえにはおれがずっと付いているよ」

 マシューのそのことばが、今のところのオリビアのお守りである。




 隣国から縁談が来ている。

 オスカーは父からそう聞かされた。いずれは来る、と思っていた。でもこんなに早く来るなんて。

「断れないのですよね」


 イルフォード辺境領をはさんだ隣国と、軍事協定を結んだ。

 今回のバジリスク騒動は、下手をしたら隣国にまで災いが及ぶところだった。「瘴気の森」は国境にある。

 今回は無事だったが次はそうとは限らない。

だから魔物に対しては共闘しよう。それが軍事協定の骨子である。


「断る理由があるのか」

 ほんとうに、婚約だけでもしておくんだった。そうすれば紆余曲折はあるにしろ、縁談が来ることはなかっただろう。オスカーは誕生日やドラマティックな演出にこだわった自分がくやしくてしかたがない。


「道は分かたれたのだ」

 国王は続ける。

「おまえはおまえの責任を果たせ。オリビアはオリビアの責任を果たさねばならん。それに、オリビアはもう人前には出られまい。妃は務まらんよ」


「そんな……」

 オスカーは呆然と国王を見つめた。

自分の生は王国のため、国民のためにある。自分のわがままなど、しあわせなど望んではいけない。

 オスカーは自分が空っぽになっていくのを感じた。


 すまない、オリビア。


 もし、オスカーがもうすこしわがままだったら、我を押し通すこともできたかもしれない。オスカーはまじめで責任感が強かった。それが仇になってしまった。


 オリビアに噓をつき続けるのか、事実を告げてさらに絶望の底へ突き落すのか、オスカーは決めかねた。


「アニエス王女はまだ十六だが聡明な子だ。王妃としてりっぱに務まるだろう」

 十六の子が、協定のために嫁いでくる。

 そんな覚悟をしたと言われたら、オスカーは否とは言えなかった。


「オスカーさま」

「義姉上」

 自室へ戻る途中、エドガーの妻だったエミリに話しかけられた。昨年結婚したばかりだった。まだ新婚だったのに未亡人になってしまった。

子どももいなかったので、実家である公爵家へもどったのだ。今日はなにか用があって来ていたのだろう。


「もう義姉ではないのよ」

 そうですね、とは言えない。

「縁談が来たんですって?」

「……はい」

「一度お会いしたことがあるのよ。利発でかわいらしい子だったわ。あなたとお似合いよ」

 血の気が引いた。

 そんなこと、言われたくない。

 

 アニエス王女のことは知っている。二回ほど会った。たしかに聡明で利発でかわいらしい子だ。そんなの知っている。


 オスカーとオリビアは「お似合い」だと、誰もが言った。それがとてもうれしくて誇らしかった。オスカーはオリビアに見合う人物で、オリビアは王家に見合う人物なのだと誰もが認めていたのだ。

 この人だって、そう言ったじゃないか。

 オリビア以外と「お似合い」だなどと決して言われたくないのに。


「隣国の軍事力があれば、もう犠牲者は出ないわね」

 どうしてこの人は、心を抉るようなことばかり言うのだろう。

「もうたくさんなのよ。これ以上犠牲者は出てほしくないの。あなただってそうでしょう」

 もちろんそうだ。そうだけれど。

「エドガーの死を無駄にしないでね。兵士や領民も。イルフォード辺境伯のご一家も」

 吐き気がした。

「あなたならだいじょうぶよ。これで安心だわ」


 愛するエドガーを失った。エミリは絶望した。まだ子どもも授かっていなかった。

 未亡人として実家に戻ることになった。


 それなのに、みすみすエドガーを死なせてしまったイルフォードの娘がこのままオスカーと結婚するなんて、ずるいと思った。

 わたしを不幸のどん底に落としたくせに、自分だけしあわせを手に入れるなんて!

 ゆるせない。


 だから、オスカーは別の人と結婚すればいい。

 王太子にふさわしい家柄の、素養を持った人と。隣国の王女はちょうどいい。

 どうせオリビアのことなんかすぐに忘れるわ。そしてアニエス王女と仲のいい夫婦になる。

 エミリはそう思った。


 隣国の王は、軽い気持ちで言ったのだ。

「アニエス、嫁に行くか?」


「どちらに?」

 アニエスも軽い気持ちで答えた。そろそろ嫁ぎ先を決める年頃だった。

「隣国と軍事協定を結ぶことになった」

「ええ、聞きました」

「エドガー殿下が亡くなって、オスカー殿下が王太子になる」

「はい」

「婚約者もいないようだし、年頃もちょうどいいだろう。おまえがいいのなら打診してみるか」


 アニエスはちょっと考えた。オスカーとは二回くらい会っている。金髪碧眼の文字通り王子さまだった。国王もエドガーもそうだったから、家系なんだろう。

 頭脳明晰、公明正大、清廉潔白。

 みんなに慕われて、大勢の友人に囲まれていた。


 ステキな人だったわ。

 アニエスは新しい王太子に思いを馳せる。

 あんな人が旦那さまだったらいいわね。

 

 婚約者がいないのなら、いいかもしれない。婚約者がいるなら嫌だけど。無理やり掠奪するようなマネはしたくないもの。

 嫌なら断ってくるだろうし。ダメだったらほかを当たればいいわ。わたしはまだ若い。焦ることはない。

 それに隣の国だし、そんなに遠くないし。

 

「そうね、いいですよ」

 アニエスは、ほんとうに軽い気持ちで答えた。


 オスカーの気持だけを置き去りに、婚約話はとんとん拍子に決まってしまった。




 オスカーの立太子と婚約のお披露目を兼ねた夜会があるとオリビアの元に招待状が届いた。

 そんなもの行きたくない。


「喪中と療養を理由に欠席すればいい。無理していく必要はないよ」

 マシューはあっさりと言うが、たぶん行った方がいいのだ。


 オリビアが、オスカーとアニエスにお祝いを述べなければ、あのふたりは社交界に受け入れてもらえない。

 たぶんそうだ。

 なにも知らずに嫁いでくるアニエスに、そんな苦痛を突きつけるのは理不尽だ。


 相手が誰であってもオリビアがそうしなければ、みんな納得しない。

 やれやれ。

 オリビアはため息をついた。

 オリビアだって体の傷は癒えても、心はまだじくじくと血を流している。

 もし、オスカーが自分の口で別れを告げ、別の人と婚約をするとはっきりと言ってくれたら違っただろうか。

 あるいは、どんなに厳しい状況でも、オリビアと添い遂げると宣言してくれたらうれしかったのだろうか。

 あるいは、誰とも結婚しないと言ってくれたら。


 どれをとっても、誰かが傷つく。

 けっきょく諦めるしかないのだ。


「おまえだって、跡継ぎ残さないといけないだろう?」

 マシューが言う。

「わかってるわよ。でも今は立て直しが最優先よ」

 辺境領軍が半分に減ってしまった今、隣国の軍が国境に駐留しているのは非常にありがたい。領民も安心できる。

 それも隣国との協定のおかげだ。皮肉なことに。


「……行くわよ」

 なぜわたしばかりが犠牲になるのだ。

 いや、そんな被害者意識を持つからダメなのだ。もっとポジティブにならないと。

 はあ、とマシューはため息をついた。

「しかたがないな。おれがずっとついていてやるよ」

 体が不自由になってしまったマシューに、頼ってしまうのも気が引けるが、それでも今のオリビアが安心して頼れるのはマシューしかいないのも事実だ。


「気にするな」

 マシューはやさしい。涙が出そうなくらい。


 喪中でもあるし、あまりきらびやかなドレスで行くのもはばかられる。それに火傷の痕を隠さなくては。

 かといって、夜会に喪服で行くわけにもいかないし。なにより目立ちたくない。

 いるだけで目立つのだろうが。いったい、どんな目で見られるのか。

 かわいそうに、なんてぜったいに思われたくない。


 しゃん! と顔を上げて、ふたりにお祝いを述べるのだ。


 選んだのはグレーの無地のドレス。夜会服にはほど遠い首元まで隠す高い襟に長袖。髪はやっと首筋が隠れるくらいに伸びた。結いあげることはできない。装飾も極力外した。ジュエリーもパールで。

 そして頭から黒いベールをかぶる。素肌は見えない。


 ベールがあってよかった。どんな顔をしているか、わからないもの。泣いたらこまるし。


 だいじょうぶ。一言お祝いを言ったらすぐに帰る。

 自分の存在が誰の手にも余ることは理解している。

 だいじょうぶ。

 リリーもいるし。


 夜会当日。

 会場についたとたん、たくさんの友人に囲まれた。

「まあ……」

 頭のてっぺんからつま先まで、すべてを覆い隠した姿のオリビアと、左の袖をひらひらさせているマシューに、彼らはしばし絶句した。

「見苦しくてごめんなさいね」

 オリビアがそう言ったら、女の子たちはハンカチで目頭を押さえた。男の子たちもことばを詰まらせる。


「王国のための負傷だ。恥じることはない。きみはぼくらの名誉だよ」

「そうよ、あなたたちのおかげでわたしたちは平和に暮らしているんだわ」

「そうだよ。王国を救った英雄なんだから、堂々としていればいい」

 やがて、オリビアをいたわるように、口々にそう言った。


 泣きそうになった。




「イルフォード辺境伯、おなりです」

 手続きを踏んで、無事に爵位を継いだオリビアはそう紹介された。

 王家一同の前に進みでてひざを折ると、お祝いを述べる。

「王太子殿下、アニエス王女殿下にご婚約のお祝いを申し上げます」


 全身を夜会に不似合いなドレスとベールで覆ったオリビアと、付き従うマシューの腕を、オスカーはどう思うのか。

 後ろの方がざわついているが、気にしてはいけない。

 ベールをかぶっていて本当によかった。今自分がどんな顔をしているのか、考えるのがおそろしい。

 どうせ顔を上げることはないのだが。


「祝福をありがとう」

 オスカーの声は固い。今なにを思っているのだろうか。その声からは想像もできなかった。

「イルフォード辺境伯も息災にな」

 国王からも一言。


 オリビアは立ち上がると、後ろに控えたマシューに手を引かれて下がった。

 これでおしまいだ。

 周囲の空気がすこし和んだ。


 オリビアがお祝いを述べた。これで一件落着だ。この婚約に誰も気兼ねすることはない。

 もういいだろう。もう帰ろう。


 リリーたちがオリビアとマシューを囲んだ。

「車寄せまで送るわよ」

「いいわよ。みんな夜会を楽しんでよ」

「送りたいのよ」


 そんな会話をしている最中。

「オリビア」

 みんながいっせいに振りかえった。

 オスカーだった。

 オリビアはすっとひざを折った。

「あ、いや。イルフォード辺境伯か」

 オスカーの声はかすかに震えていた。

 

 マシューがずいっと前に出た。リリーをはじめとした友人たちも、盾になるようにオリビアの前に立った。殺気立った彼らに、オスカーは戸惑いを見せた。

「だいじょうぶよ」

 オリビアは彼らだけに聞こえるように小さな声で言った。

 

「なにか?」

 口を切ったのはマシューだった。

「……具合はどう?」

 どれを聞いてどうするのだ。

「すっかりよくなりました。御心配には及びません」

「そうか…」

 沈黙が続く。だから、なんなのだ。

「少し話ができないだろうか」


 今さら、なんの話をするのだ。

「おたがい時間はございませんよ。話すこともございません」

 ああ、いやだ。ほほが引きつれてことばが不明瞭になる。気付かれただろうか。

「でも!」

 マシューがぐいっとオリビアの腕を引いた。ひらりと揺れたマシューの左の袖を、オスカーは厳しい顔で見つめた。


「今さらなにを言っても詮無いことです。どうかお戻りを」

 そう言ってオリビアはオスカーに背を向けた。マシューに腕を引かれて出口に向かって歩きはじめた。

 その後ろをリリーたちがついてくる。

 後にはオスカーがぽつんと取り残された。


「どうして行列になるのよ。わたし、偉そうに見えるじゃないの」

「偉いのよ! 王国を救った英雄なんだから!」

 リリーがフン! と鼻を鳴らした。

「あとでお咎めを受けても知らないわよ」

「やれるものならやって見なさいよ! バカオスカー」


 くすくすと忍び笑いをしながら、一行は場車寄せまで歩いた。


「マシュー」

 リリーが、呼び止めた。

「オリビアをおねがいね」

「わかってるさ。言われなくてもね」

 マシューはニカっと笑った。




 まだあいさつの列が途切れていないというのに、オスカーはひとり壇を下りて行ってしまった。

 あれ? と思った。国王が渋い顔をした。


 その行きついた先を見て、アニエスは「ああ、あの人のせいだったのか」と納得してしまった。

 イルフォード辺境伯。

 バジリスク討伐の折、家族を亡くして後を継いだただひとりの生き残り。ひどい怪我を負ったと聞いた。

 その話は知っている。

 自国にも関係が深かったから。


 だから、よそよそしかったのか。

 オスカーも、大臣も、侍女たちですら。

 婚約者はいない、そう聞いたのに。たしかに婚約者はいなかったのかもしれない。でも「もうすぐ婚約者」がいたんじゃないの。

 まぎらわしい。

 

「オスカーをすぐに戻らせろ」

 国王がそばにいた近衛に言った。近衛は「は」と短く返事をしてすばやくオスカーへ向かって行った。


「すまないね、すぐに戻らせるから」

 国王はアニエスに言った。

 もう遅いでしょう。こんな公式な場で王太子の席をほうり出してまで追いかけて。

「婚約者はいないと聞きましたが」

 こんなふうに物おじしないのは、長所なのか短所なのか。


「ああ、いないよ。なんの心配もいらない」

 国王は言い切ったけれど、そうですか、と納得するほどアニエスはバカじゃない。

 軽くほほ笑んで、その場はしのいだが、心の中は穏やかじゃない。


 なんなの、あれ。ぜったい後を引くでしょ。未練たらたらだもの。

 いくらアニエスが色恋に疎いといっても、それくらいわかる。

 きっと、わたしがあの二人の仲を引き裂いたと思われているんだわ。

 現にオリビアを取り巻いている人たちはひどく厳しい目をアニエスに向けていた。

 だったら、わたしはこの国に来ただけで悪者なんだ。

 アニエスは絶望的になった。

 この結婚に未来はあるのか。


 断ってくれればよかったのに。

 受けるにしても、ちゃんと彼女との折り合いをつけてからにしてほしかった。なにも知らずに悪者にされるなんて、冗談じゃない。


 その晩、少し話す時間がほしい、とアニエスはオスカーに申し入れたが、オスカーからの返事はなかった。




 夜も更けてから、イルフォード辺境伯のタウンハウスの裏門に、家紋も装飾もない馬車が着けられた。

 あたりの気配をうかがうように、こっそりと降りてきたのは、オスカーとトーマスだった。

 

 トーマスが正面玄関ではなく通用口の扉を叩く。顔を出したのは、下っ端の下僕だった。

 あきらかに場違いなりっぱな身なりの貴公子ふたりに下僕はあわてて家令を呼んだ。


 さらにあわてた家令に呼ばれたのはマシューだった。

「なんの用だ」

 不機嫌を隠しもしないマシューは、すでにくつろいだ格好だった。


「オリビアに会いたい。会わせてくれ」

 オスカーの訴えにマシューは露骨に顔をしかめた。

「なにを言っているんだ、できるわけないだろう。さっきも言ったはずだが」

「わかってるよ。でも、一度でいいから、ちゃんと話したいんだ」

 マシューはため息をついた。

「勝手にも程があるだろう。オリビアは公の場でお祝いを言った。それで終わりだ」

「お願いだ。会いたいんだ」

「おまえはオリビアの会いたいという気持ちを踏みにじったじゃないか。それを今さら!」

 掴みかかろうとしたマシューを、トーマスが止めた。


「それは重々承知している。でもな、それは陛下に止められたんだ。オスカーにはどうしようもなかった」

「ならば、それでいいだろう。今さらなんだよ! すべてが!」

 マシューは吐きだすように言った。

「オリビアは熱を出して休んでいる。あれ以来、すぐに熱を出すんだ。一度弱った体はなかなか戻らないらしい。ほんとうはここに来るのも無理だったんだ。それを、自分が来てお祝いを言わなければアニエス王女が受け入れられないだろう、と言ってがんばって来たんだぞ。それを無駄にするな」

 それを聞いてオスカーは頭を抱え、低くうめいた。

「わかったら、もうイルフォードにかまわないでくれ」


「悪かったな」

 トーマスが言った。

「きみはだいじょうぶなのか」

「ああ、少々不便だがな」

「そうか、イルフォードまで気をつけて帰ってくれ。オリビアをたのむな」

「ああ、まかせてくれ。オスカー、自分の責任を全うしろ、余計なことに気をとられている暇はないぞ」

 オスカーは返事ができなかった。

「うん、きみも元気で」

 トーマスが代わりにそう言い残して、オスカーを連れて馬車に乗りこんだ。


「気は済んだか」

 馬車の中でトーマスは話しかけた。

 気が済むはずがない。でも、今無理にでも矛先を納めなければ、この先いつまでたっても納まらないだろう。

 オリビアがそう望んだのだ。

 ならば、そうしなくてはならない。

 

 オリビアが身を挺して守ったこの国を、自分が守っていかなくては。

 それが自分の使命なのだ。

 オスカーはすべてを呑み下した。




 熱が下がるのを待って、オリビアは王都を発った。

「もう少し、休まなくてもよかったのか?」

 マシューが聞いた。

「いえ、早く戻りたいもの」

 それが、文字通り早くイルフォードにもどりたいという意味なのか、王都を早く去りたいという意味なのか、どちらなのかはわからない。

 たぶん、両方入り混じっているんだろう。


「もう、王都には来ない」

 オリビアはしばらく馬車の中から、ぼうっと外の景色を眺めていて、それからぽつんと言った。


「うん、そうだな」

 マシューが答えた。

「タウンハウスは売ろうかしら」

「うん、それもいいな」

 マシューは一言答えた。

「使用人たちは、領地へ来たい人は呼び寄せて、残りたい人には紹介状と退職金を出して」

「そうだな」


「ねえ」

 ちょっとイラついたようにオリビアは言った。

「わたしが勝手に決めていいの?」

 今はベールを脱いでいる。ほほはいまだに赤く痛々しい。その瞳が不安げに揺れた。


「なんだ、不安なのか」

 言われてオリビアはうつむいた。

「だって……」

 マシューはくすりと笑った。

「おまえが領主だ。おまえが決めていいんだよ」

「わかってるけど……」

「不安なら相談すればいい。家令でも将軍でも、おれでも」

「……うん」

「領主はおまえだが、おまえはひとりじゃない。不安も心配もみんなで分ければいい。そのためにおれたちはいるんだ」

 生き残った者たちは、手を取り合って先へ行く。

 イルフォードの復興はまだ始まったばかりだ。


「うん、わかった」

 オリビアは顔を上げた。

「マシュー、ありがとう」


 馬車は軽快にイルフォードに向かって進んでいく。


 


 エドガーの喪が明けてすぐにオスカーとアニエスの結婚式が挙げられた。王国中にのしかかった重苦しい空気を一掃するにはふさわしい晴天の日で、パレードの沿道は大勢の人々で埋め尽くされた。

 紙吹雪が舞う中、新しい王太子と隣国の王女という理想的なカップルは、歓声に包まれた。

 オリビアは遠く辺境領からお祝いの儀礼的な手紙を送った。


 オスカーはあれ以来、自分の気持を封印して、王太子として精進していた。

 オリビアの欠席には、正直ほっとしたのだった。

 やっぱりどこか、うしろめたい。

 そんな気持ちをアニエスに悟られるのもなんだか疚しい。


 悪いことをしているわけじゃないのに。


 アニエスもオリビアの欠席に、胸をなでおろした。

 彼女の顔を見たら、きっとまた想いがぶり返す。

 あの夜会の晩、オスカーがどこへ行っていたのか、トーマスに探りを入れてみたが、はぐらかされた。

 たぶん、いやぜったい彼女のところだ。通用口から馬車で出かけ、それほど遅くならないうちにもどって来たのはわかっている。


 あれ以来、彼女は領地から出ていない。オスカーが行くこともない。もしかしたら手紙のやり取りくらいはしているのかもしれない。


 アニエスは追及するのはやめた。追及してどうするのだ。

 オスカーの心の奥を暴き出したところで、どうなるものでもない。虚しいだけだ。

 アニエスにはどうしようもない。

 不貞を働いているわけでもないし。

 

 オスカーは王太子として、これから結婚する相手として申し分ない。しまい込んだ恋慕すら、取り上げてしまえばおそらくオスカーは壊れる。


 知らないふりをすればなかったことになる。

 それでいい。


 王太子夫妻は、王子をふたり、王女をひとり授かった。

 アニエスは王太子妃として、誰もが認める存在になった。




「イルフォードのタウンハウスが売りに出された」

 ある日トーマスが言った。

 オスカーは、ペンを持つ手を止めた。

 それは、もうイルフォード辺境領の者が王都に来ないということか。

 そうか、もうオリビアは来ないのか。


「それから、オリビアとマシューが結婚するそうだ」

 そうか。

 オスカーは、改めて自分の心に眠っていたオリビアへの恋心に気がついた。

 忘れたと思っていたのに。

 

 いや、忘れたふりをしていたのだ。自覚はある。

 眠れない夜がある。なにかのはずみで、夢と希望にあふれた日々を思い出せば、心に血がにじむ。そして指のすき間から砂のようにこぼれ落ちてしまったその日々を思って苦悩する。


 一度その思いに捕らわれると、なかなか抜け出せない。

 何日も何日ものたうち回る。食欲も落ちる。周囲に気を遣わせないように、無理やり流しこむ。そして吐く。


 精神安定剤と睡眠薬は手放せなくなってしまった。

 さいわいなことに、国王は健勝である。オスカーは王太子のまま年を重ねた。


 そして月日は流れ。

 オスカーの息子が十八才をむかえると同時に、オスカーは王太子を息子に譲った。

 オスカーが不調を押して王太子を務めているのは皆がわかっていた。だからそうしたと聞いても誰も驚かなかった。むしろ、これで解放されるのなら、いいことだとすら思った。


 衰弱し薬漬けのオスカーの先が長くないと医師によって宣言されたことは、ごく一部のものしか知らない。

 オスカーは病気療養のために保養地に行くことになった。


 たぶんイルフォードに行くんだわ。

 アニエスはそう思った。


 二年ほど前にイルフォード辺境伯の訃報がもたらされた。

 虚弱な体でイルフォードの立て直しにずいぶん無理をしたらしい。無理がたたって質の悪い感冒にかかってあっけなく亡くなってしまった。まだ四十前だった。


 オリビアに献身的につくしたマシューも、後を追うように亡くなった。

 自分の体では子どもは望めないと、後継者として早くに縁戚の子を養子に迎えていた。その子がイルフォード辺境伯を継いだ。

 その決裁書にサインをしたのはオスカーである。


 それを聞いたとき、オスカーは妙に静かだった。取り乱すこともなく、薬に頼ることもなく、ただ静観していた。

 あのときは、もう決めていたのだとアニエスは思う。


 やはり忘れていなかった。いい夫、いい父親の裏に隠していたのだ。

 これほどの月日を重ねても、自分はオリビアに勝てなかった。

 最後のときを、家族ではなくあの人のそばで迎えることをオスカーは選んだ。

 少し虚しかった。


 トーマスだけを伴い、オスカーは出立した。

「アニエス、勝手を言ってすまない。子どもたちをたのむ」

「ほんとうに勝手だわ。子どもたちのことはわたしがちゃんと見ます」

 子どもたちはもう、親の手を離れているのだが。それから、オスカーを睨んでやった。

「わたしも、もう勝手にしますから」


 オスカーはちょっとびっくりしたように

目を瞠ったが、ふっと力を抜いたように笑った。

「うん。ほんとうに今までありがとう」




 のんびりと旅を続け、ようやくイルフォード領に入った。辺境伯邸までさらに馬車で一日。

 街道の脇には空色の小さな花が群れるように咲いていた。


勿忘草(わすれなぐさ)と言うの。一面に咲くのよ」

 オリビアが言っていた。

 ああ、これがそうか。

 窓から身を乗りだすように前を見ると、街道に沿って空色の筋ができている。振りかえれば後ろにも空色の筋はできていた。

 その勿忘草に導かれるように馬車は進んでいく。

 やがて、森の入り口にある王族が住むにはあまりに小さな、でもよく手入れのされたこざっぱりとした家に着いた。


 二階建ての石造りで、一階に食堂と応接室。キッチンと浴室。二階にオスカーの寝室とトーマスの部屋。客室。

 客が来ることはないだろう。


 家から二十分ほど歩くと辺境伯の墓地がある。

 オスカーはついたその日から墓地に通った。

 オリビアの墓はすぐに分かった。まだ新しい白い墓石に、くっきりとオリビアの名前が刻まれていた。

 となりにはマシューの墓。


 オスカーは途中で摘んだ勿忘草の束をオリビアとマシューそれぞれに捧げた。

 大輪のバラに例えられるほど、華やかで美しいオリビアだったけれど、イルフォードの道端に生えている小さな花が好きなのよ。

 そう言っていた。


「こうやって墓参りに来るのを許してくれるかい」

 刻まれたオリビアの名前を指でなぞる。

「オリビア」

 涙が流れた。

「会いたかったよ」

 オスカーはしばらく動かなかった。


 それからオスカーは毎日墓に通った。夕暮れ時に行って花を捧げ、日が暮れるまで墓の前でオリビアに語り掛ける。


 近隣住民たちは、突然集落のはずれの空き家に越してきたのは誰なんだろうと、ささやき合った。

 どうやら、やんごとないお方らしい。


 それについて辺境伯からは、彼はオリビアとマシューの古い友人で、療養を兼ねてここに移り住んだのだと説明があった。


 一日おきにやって来る家政婦と、王都から食料や衣類、手紙などを運んでくる馬車以外に訪ねてくる人もなく、オスカーはひっそりと暮らしていた。

 弱っていく体と反比例するように、心は凪いだように穏やかだった。

「トーマス、つき合わせて悪いね」

 折に触れてオスカーは言う。

「田舎の空気もいいものさ」

 トーマスは決まってそう返す。

「ぼくは、きみの家族に恨まれるね」

 ははっとトーマスは笑った。

「子どもたちも、手のかかる年じゃないし、妻も好き勝手にのびのび暮らしているようだよ」

「そうか。もうじき帰れるだろうから、あとちょっと我慢してくれ」

 トーマスは返事ができなかった。


 もうそろそろ雪が降ろうかという寒い日だった。

 トーマスはオスカーに厚いコートを着せてやった。やせ細った体には、コートすら重そうだった。


「おそくならないうちにもどれよ」

 それに「うん」と答えて出ていったオスカーは、すっかり日が暮れても帰ってくることはなかった。

 トーマスは待ち続けた。そして、迎えに行くのは朝になってからにしよう、と思った。

 最後にいっしょに朝を迎えても誰も文句は言わないだろう。なにしろ、マシューがついているし。

 三人でなにを話しているんだろうなぁ。

 オスカーはしあわせだったんだろうか。

 トーマスは、その生涯を思って涙を流した。


 夜が明けて、トーマスは霜が下りて草が真っ白になった小道を墓地まで歩いて行った。

 オスカーはオリビアの墓石に額づくように、くるりと丸くなって冷たくなっていた。


 オスカーの遺体は王都に運ばれ、王家の墓地に葬られることになった。

 トーマスは運ばれる前に、オスカーから一房だけ髪の毛を切り取った。そして、その髪の毛を辺境伯家の墓地の縁に立っている、大きなクスノキの根元に埋めてやった。


 ほら、この大木がおまえの墓標だ。オリビアの愛したイルフォードがよく見渡せるだろう?


            おわり


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