素因数分解
小さな居酒屋で怒声と銃声がする。割れた窓、雨も降っていないのに雨漏りする赤い天井。喧騒まみれのこの街にお似合いの居酒屋である。そんな物騒を絵に書いたような居酒屋の店の中に一つ、異彩を放つものがある。この店にはてんで似つかわしくない本棚である。この街に本を読むようなまともなやつはいない。本を読むような真っ当な人間はこの街にはたどり着かないか、もしくは辿り着いたとして三日と立たずその辺の動物共の餌になっている。だから、この街で本を読むなんて高尚な趣味を持って生き残っているやつには近づかない方がいい。
ラインナップはバラバラだ。目に付いた一つを手に取る、タイトルは「月光に灼かれて」あらすじがないのでパラパラと読むと推理小説らしい。魔法のあるこの世界で一体どうやって推理性を保つのだろうか。魔法に詳しくはないが、密室なんて数十センチの転移ができれば完成だ。人を操ることもできるだろうに、後期クイーン問題はどうした。そもそも、魔法の超常的力で犯人くらいすぐに分かるのではないか。
本格的に読もうと一から開き直した時声がかかる。待ち人来たり。
「へー、懐かしいもん読んでんじゃん」
「嘘つけ、お前の手が酒以外の物を持ってるとこなんて見たことがない。そして、席につくより先に酒を飲むな、一応お前が呼び出した仕事相手だろう」
「きひひ、硬いこと言うなよ。そもそも店に入る前から飲んでんだ、どっちにしろ一緒だよ。それに俺とお前の仲だろ」
「昔からそんなに仲良くはなかっただろ。さっさと本題に入れ」
「まあ、飲ませろよ」
本を閉じ酒を飲む男に視線を上げる。相変わらず本を閉じるのはいい感覚である。バタンという音、紙の重量感、本を閉じるために生きていると言っても過言ではない。活字離れが実に嘆かわしい。とはいえ、電子書籍だっていいものだ。活字であるべき利点なんて、反対に言えば無駄な重量感程度のものである。
そんな事を考えながら男を見る。今日は呼び出した手前かベロベロではない。服もいつもより真面目な物を着ている。元リーダーに会う時以外にこいつがこんなきちんとした格好をしているところは見たことがない。きちんとしていればそれなりには見えるのだから、いつもそうしていろ。
この酔っぱらいは通称助言屋、人に助言をして金を稼いでいるという稀有なやつである。確かに有用ではあるのだが、こいつに金を払って助言を貰うと思うとなんだかやるせない。嬉々として金を払うやつがいるのなら顔を見てみたい。いや、やっぱり見たくない。できれば関わり合いになりたくないので、どこぞの草場の陰にでも隠れていて欲しい。
俺とこいつとは元同僚であるがそのチームは解散したため、今ではこいつの副業で繋がっている。副業は斡旋屋である。今日はこいつに良い仕事があると呼び出されている。
「それで仕事は?」
「きひひ、そう生き急ぐと嫌われるぞ。入口は他愛もない話から始めるってのが社会のルールだろ」
「他の社会ならともかくこの街が形成する社会にそのルールは存在しないと思うがな」
「まずは俺からサービスの助言だ」
それを聞いていぶかしむ、どういう心積もりか知らないがプロが話す言葉をただで受け取ることの意味が分からないわけではない。そもそもこいつの助言なんて必要に迫られない限り聞きたくもない。
「そう邪険にするなよ、悲しいなぁ。少し良いように言ってみただけだよ。心配しなくてもこの分の代金は貰ってるよ。サービスではなく、これも俺の仕事のうちさ。それこそ仕事話に入る前の他愛もない話程度に聞き流せよ、楽な仕事だろ」
「分かったよ、好きに話し始めてくれ」
「きひひ、いいね。好きにね。そう好きにだ。お前にも好きな物はあるか?あるよな。皆まで言うな興味なんてない。俺にもあってね、教えてやろう。素因数分解だ。変な目で見るなよ、悲しね。そうだよ、数字の素因数分解が好きなやつはそうそういない。俺がその一部の数学狂であるのかと言えば、否だ。じゃあ、一体全体、素因数分解の何が好きなのかって?素因数分解の対象を変えるのさ、例えば、そうだな、魔力車だ。この街では廃車を探すには事欠かない魔力車だ、たまには動いてるやつだっているな。それを分解するのさ、元素とかつまんねえ事言うなよ?ハンドル、イス、タイヤのゴム、変な機構の鉄……鉄なのか?まあ、詳しくは知らねえや。すまんな車の事は好きじゃなかった。いい思い出がなくてね。そんな詳しくないんだよ。例えが悪かったか?いいじゃねえか、どうせお前も知りゃしねえだろ。二人が詳しいことを探す方が大変だ。大変なことはなるだけ避ける主義なのさ。まあ、だいたい意味は伝わっただろ、ここからが本題だ。俺が好きなのはな、心の素因数分解だ。特に幸福だな、というより幸福以外はあまりやらない。気持ち悪がんなよ、これは俺の学びから来た習慣だぜ?これをやらずに痛い思いを何度かしたのさ。だから、お前も自他問わずやっておいた方がいい。自分のも他人のも正しい重心を知っておけ、その重心が狂ってると間違った方に傾くのは天秤さ。天秤が間違ったときに間違うのは世界だよ。分かりやすく言い直そうか。ここから先、愛しき妹さんのこと以外を考えるな。それ以外を見ると世界が壊れるぞ。それじゃあ、世界を間違えてこんな街に来ちまった子女の紹介だ。今回のお前の仕事仲間だよ」
その子女は、助言屋の座った席の後ろにずっと佇んでいた。俺が読んでた本を見た時、助言が進んだ時、二度苦い顔をしそれに俺が気付いたことに気付き表情を取り繕っていた。付き人かなんかだと思っていたが、まさか仕事相手だったとは。この街でこんな小さな女の子ができる仕事なんてあまりないだろうに。しかも、この助言屋が俺と仕事をさせる程度の人物である。異様な街にいる、異様な人物の紹介で、異様な仕事をする、異様な子供で、異様に本が好き。つまりどこからどう見ても異常者である。
「きひひ、ほら、名を名乗れよ」
「初めまして、そんなことを言われましても、名前なんかありませんわ。ただの世界を間違えたしがない子女でございます。どうぞお好きにお呼びください」
挨拶をする際に組んだ腕を離す時の異様な動き、名を捨てている。子守ならまだマシだが、違うんだろうな。
「そこは後で考えよう。俺の名は……ファエトン、親愛を込めてファエと呼んでくれ。それで、二人で何をすればいいんだ」
「君の仕事は、街案内さ。この街でこの子が喧嘩をするからその道案内と喧嘩の後のケアをして、もし死んだらそれを報告してほしい。簡単な仕事だろ?」
喧嘩が毎日特価セールのこの街でわざわざ道案内なんかしなくともその辺で三秒くらい睨み付ければそれで喧嘩は始まる。
「俺が逃げ切れる状況ならな、敵は?」
「その辺は俺が決めるんじゃない。頭脳は別のやつの仕事さ。ああ、お前ら二人は今日から三人目の家で厄介になって貰う。変な気起こすなよ、きひひ、冗談だよ心配はしてないさ。からかってみただけだ。管理上の問題で一緒にするだけさ、三人目とは仲良くする必要はないが、二人は基本そばにいろ。三人目に日に一回敵を聞きにいってそいつを倒せ。それを七日こなせば終わりだ。だいたいそんなものかな」
誰が十歳程度の少女に欲情するものか。子供の特権である綺麗な髪が腰まで綺麗にそろっている水色の髪は美しいが、髪フェチではない。
「報酬は?」
「先に言ったとおり、お前が求めてる全てさ。人一人が一生使っても無くならない魔石と元の世界への帰還方法、更にはおまけで、家一軒買える程度の魔石一つ、こっちは手付だとよ、ほら」
魔石を投げてよこす。俺の目的のためには予備の魔石は多くある方がいい。しかもその他全ての欲しい物をくれるというのならば、破格である。
「その子と三人目も含めたチームの仕事と報酬は?」
「答えがないと思っても聞いてみるのは良いことだが……まあ、含みを持たせて言っておこう俺は知らねえ」
どんな確信を持ってそう言っているのか、それすらも教えてくれない。いや、暗に伝えているのか。この街に顔を見たくないやつは腐るほどいるが。三人目と名前を誤魔化してまで名前を呼びたくないやつの内、誰かと同棲ができる生活力を持っている人物は数人しかいない。
「報酬が高すぎる。一体何を企んでいるんだ?」
「それを決めたのも、あるか無いかも分からない企みをするのも俺じゃない。それは後で依頼人に確認しろ。窓口は三人目さ」
やはり三人目に触れなけば話は進まないらしい。この街のトップクラスの異常者の誰かといきなり同棲させらるなんて、困る。無駄かもしれないが、心の準備くらいはしておかないと出会ったときに許容量を超えそうだ。
「あー、その三人目ってのは誰なんだ」
「いわせるなよ。あー、仕方ない、異名だけ教えてやる。最弱の万屋だよ」
俺はその名前を聞き報酬が釣り合っていることも逃げられないことも悟った。逃げ出してぇ。その名前はこの街で一番の危険人物だった。
とりあえずこの本は店長に頼んで買って帰ろう。本物の化物を相手するのだ。ちょっとした異常者くらいなんてことない、子女さまと仲良くしておくに越したことはない。