運命の番なんて、お断り
※猫じゃらし様主催「獣人春の恋祭り」参加作品です。
運命の番なんて、見つからなければいいのに。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
雲一つない爽やかな青空の下、わたしは盛大にため息をついた。
わたしは猫獣人のティナ。15歳。
ふわふわな亜麻色の髪に、ブルーの瞳をした女の子。白い耳と、細長い白の尻尾が生えている。
獣人は16歳になると一人前とみなされる。12の時から通っている学校も、3月には卒業だ。そして、春になると結婚も認められるようになる。
16歳の春に結婚する獣人は多い。何故かというと、獣人には運命の番というものが存在するからだ。人間で例えるなら、赤い糸で結ばれた相手といったところだろうか。
不思議なことに、番には会ったらすぐに分かるらしい。
といっても、いつでも分かるわけじゃなくて、16歳の春になって初めてセンサーが反応するようになるのだとか。
もちろん相手が同じ年とは限らないので、その場合はお互いが16歳になるまで、相手が分からないままとなる。
でもたいていの人は5歳差くらいでおさまるので、大半の獣人が20歳を過ぎる頃には既婚者となっている。わたしのパパとママも16歳で結婚したと言っていた。
運命の番は、こわい。ものすごく強力な感情が働くらしく、それまでどんなに好きな人がいても、運命の番が現れたらそっちが良くなるんだって。
運命なんて素敵だよね。なーんて。みんな憧れているけれど……
それって呪いじゃない? とわたしは思う。
「どうしたの、ティナ。ため息なんかついちゃって」
「シリル……」
隣に並んで歩いているのは、幼馴染のシリル。
サラサラの銀髪に、甘い蜂蜜色の瞳をした男の子。彼は狼獣人なんだけど、性格は穏やかで落ち着いていて、全然、狼ってかんじがしない。羊とかヤギの方がイメージとしてはピッタリくる。
まあ、外見的には犬の方が近いかも。濃いグレーの耳はピンと立ってるし、ふさふさの尻尾もあるしね。
シリルは隣の家に住んでいて、昔からよく一緒に遊んでいた。彼も私と同じ15歳。今年中に16歳の誕生日がやってきて、この春には番が認識できるようになる。
どんよりしているわたしを見て、シリルが心配そうに眉を寄せた。
「明日のテストが不安なの? 分からないところがあるなら、僕が教えてあげるよ」
「わあ! ありがとう!」
シリル、好き! 大好き!
テストのことは今の今まですっかり忘れていたけれど、全然大丈夫じゃなかったので、彼の申し出は非常にありがたい。
嬉しくなって尻尾をくるくる踊らせていると、シリルが目を細めてにっこりと笑った。
「じゃあ、後で僕の部屋においでよ」
「うん!」
やったあ! 久しぶりのシリルのお部屋だ、嬉しいな♪
「少しでもやる気が出るように、ティナの好きなお菓子を用意しておくよ」
ええっ!?
お菓子まで用意してくれるなんて、優しすぎるよシリル……!
きらきらとした瞳でシリルを見つめたら、くすっと笑みをこぼされた。
シリルってばほんと、優しいよね。
自分の勉強もあるだろうに。幼馴染のわたしのことを、いつもいつもこうして気に掛けてくれるんだ。うちのパパとママもシリルのことはすごく信用していて、2人きりでお部屋で会ってもシリルだとなにも言われない。
こんな優しいシリルのことが、幼い頃からわたしはずっと好きだった。
わたしを優しく見つめる蜂蜜色の瞳も、落ち込んだ時に励ますように頭を撫でてくれる温かな手も、ふわりと柔らかく笑うところも、お勉強を教えてくれる時は意外と厳しくなるところも、全部、全部、大好きなの。
でも……わたしのこの想いも、春になると消えてしまうのかな。
こんなに大好きなのに。
不安で身体がぶるっと震える。
自分の感情が自分じゃないものに支配されるなんて、ものすごくこわい。みんな番に会う日を夢見てうっとりしてるけど、運命なんて甘い言葉でわたしは騙されない。
運命の番とか、そんな呪われた相手なんていらないよ!
冬になって、わたしの16歳の誕生日がやってきた。番なんて見つからなくていいのに、周囲の人間は16歳となったわたしにおめでとうと言ってくる。春になると番と結婚するかもしれないね、なんて、にこやかな顔を向けられてげんなりしてしまう。
「ティナも16才か。早いな、もう嫁にいってしまうのか」
「春が待ち遠しいわね。ふふ」
パパとママはいいよね。大好きな恋人と番になれたんだから。
「春になると、いよいよティナにも番が現れるのね。良かったわね」
「運命の番は最高だからな。楽しみにしていろよ!」
お姉ちゃんもお兄ちゃんもいいよね。密かに想っていた人が、運命の番だったんだから。
ちっとも楽しみなんかじゃないよ!
好きな人と、シリルと番になれるかどうか分からないんだよ?
ううん、むしろなれなくて当たり前だと思う。男の子なんてたくさんいるのに、その中からシリルが選ばれる確率なんて、きっとものすごく低いよね。
学校で習ったもん。2人だと50%に落ちちゃうの。10人だと10%で、100人もいたらたったの1%しか望みがないんだよ?
年頃の男の子なんてうちの街だけでも100人は軽く越えているのにさ。よその街の人も合わせたら、可能性は1%すら残ってないんだよ?
そんなの、よっぽど運が良くなくちゃ無理だよね。
わたしは自分の運がそんなにいいとは思えない。むしろ悪い方だと思うんだ。
だって、今年もシリルと同じクラスになれなかったし。
毎日牛乳飲んでるのに、チビのまんまだし。なんか胸ばっかり大きくなっちゃうし。そのせいで、この前なんて変な人に絡まれちゃったしさ。全然いいことなんてない。
シリルが助けてくれたから無事だったけど、ものすごく怖かったんだから!
「ひゃっ!」
「ティナ!大丈夫っ?」
ほら。なんにもないのに、こうしてつまづいちゃうし!
ほんっと私、ついてないな。
シリルが支えてくれなかったら、いまごろ地面にキスをしていたよ。
「ふぅ……危ないとこだったね」
「う、うん。助けてくれてありがとう」
シリルにぎゅっと抱きしめられて、毛糸の粗い編み目が頬に触れた。16歳になったシリルに、わたしがプレゼントした白い手編みのマフラーだ。初めて編んだマフラーは編み目だって不揃いで、お世辞にも上手とは言えない出来なのだけど、シリルは毎日これを巻いてくれている。
白って、ティナの色だね。
なんて言って、にっこり笑って受け取ってくれたの。ほーんと、シリルってば優しいなあ。
シリルの腕の中は温かくて、ふかふかなおひさまの匂いがした。とっても好ましい匂いなんだけど、春の日向を連想してしまい、再び落ち込んでしまった。
白い耳も白い尻尾も、元気をなくしてぺたんと垂れ下がってしまう。
シリルが体を離して顔を覗き込んできた。わたしを心配しているのか、蜂蜜色の瞳が不安そうに揺れている。
「最近ぼうっとしている事が多いけど、何かあったの? 僕で良ければ相談に乗るよ」
「ううん、なんでもないの。心配かけてごめんね」
だって、もうすぐ春がやってくる。
シリルとの、別れの時がやってくる。
3月に入って、冷たい空気がだんだん柔らかなものに変わってきた。雪もすっかり溶けてなくなり、地面からは春の草花があちこちで芽吹きかけている。
わたしとシリルは学園を無事卒業した。後ひと月もしないうちに、わたしたちに16歳の春がきてしまう。いよいよ運命の番が決まってしまうのだと思うと憂鬱で、耳は力なくうなだれちゃうし、尻尾はしょんぼりしおれちゃう。
「その指輪、もしかして気に入らなかった?」
左手の薬指に光る銀の指輪。16歳の誕生日にシリルがくれたそれをじっと見つめていると、ぼそりと呟くような低い声が聞こえてきた。
パッと顔を上げると、不安に揺れる蜂蜜色の瞳と目が合った。
「そんなことないよ、宝物だよ!」
「そう。それならいいけど……」
気に入らないなんて、とんでもない!
だってシリルがくれたんだよ?
シリルの髪と同じ色をした、銀色の指輪なんだよ?
誕生日は憂鬱だったけど、シリルがくれたプレゼントは尻尾をブンブン振るほど嬉しくて。その日は一晩中、指輪を眺めてニマニマしてたっけ。
それから毎日つけたままにしている。わたしの大事な大事な宝物。
……宝物なのに。これがいらなくなっちゃうのかな?
シリルに貰った花で作った、お気に入りの栞も。誕生日のプレゼントに添えられていた、手書きのメッセージカードも。一緒に行ったお祭りで、ティナに似合うよと言って髪に挿してくれた、お星さまの髪飾りも。
どれもこれも思い出深くてキラキラしている宝物なのに、ある日あっさり光を失うようになるのだろうか。
シリルに番が現れたら、わたしがあげたマフラーも捨てられちゃうのかな?
シリルは優しい人だから、大切にしてくれると思いたいけれど……番になった女の人にとって、他の女が編んだマフラーなんて視界に入れるのも嫌だよね。
少なくとも、もう2度と、使ってくれることはないんだろうな……。
運命の番なんて、見つからなければいいのに。わたしの番も。シリルの番も。お互い、ずっとずっと、見つからなければいいのに。
「ねぇ、シリル。もうすぐ春が来ちゃうね」
「そうだね。いよいよ僕たちも運命の番が決まるのか。春が待ち遠しいね、ティナ」
「…………っ」
とっさに声が出なかった。シリルの嬉しそうな微笑みと期待のこもる眼差しに、頭をガツンと殴られたような衝撃が走った。
ああ、シリルも運命の番がいいんだ……
そんなの獣人として当たり前のことなのに。シリルの言葉に、ものすごくショックを受けてしまっている。
馬鹿みたい。
シリルに優しくされて。指輪を貰って。心の何処かで、シリルもわたしと同じ気持ちでいてくれるんじゃないかって、――――わたし、期待しちゃってた。
わたしは番よりもシリルがいいよ。
シリルに番が見つからなければいいのにって、思ってるよ!
でも、シリルはそうじゃなかった。
「そうだね」
ほんとのことなんて言えなくて。
かわりに嘘――――ついちゃった。
「……ティナ?」
わたしを呼ぶシリルの声。
春が来ると温かで優しいこの声が、わたし以外の子を呼ぶようになる。
シリルがわたしじゃない子と並んで歩き、わたしじゃない子が編んだマフラーを巻くようになる。
春が来てしまうと、この蜂蜜色の甘い瞳に映るのは……もう別の女の子。
…………そんなの、嫌だよ。
「ごめん、今日はもう帰るね!」
「ティナ?」
ぽろりと涙が零れてきそうになって、慌ててシリルの家を飛び出した。美味しそうなチーズケーキがテーブルの上にのっていたけれど、結局一口も食べないままおうちに帰ってきちゃった。
自室にこもり、机の引き出しを開けて中のものを見つめる。どれもこれも、シリルとの思い出がつまった大事な宝物ばかり。それを引き出しから一つづつ取り出して、クローゼットの奥から引っ張り出してきた大きなカバンに全部詰め込んだ。
「――――よし、決めた!」
運命の番になんて、会いたくない。シリルの番になんて、もっともっと会いたくない。
だから。
春になる前に、いっそこの街を出てしまおう。
◆ ◇
「ティナちゃん、5番テーブルにこれ頼んだよ」
「はーい!」
「それ終わったら、あっちのテーブル片付けてね!」
フリルたっぷりの白いエプロンに、紺色のフレアスカートがひらりと揺れる。この店の制服。最初は地味だと思ったけれど、着てみると意外と可愛くて気に入っている。
丸いトレーの上に載っているのは、うちの店一番の人気メニューである丸鶏の香草焼き。中にはキノコや野菜などヘルシーな具材が詰め込まれていて、美味しいだけではなく栄養も満点なのだ。ボリュームもあるから、騎士の皆さまにも喜ばれている。
重いそれを慎重に運んだあと、空いたトレーに食べ終わった後の皿を積み上げていく。ここに来た当初はコツがつかめなくて何度か皿を割ってしまったけれど、今はもうそんなへまはしていない。
「おーい、エール2つ追加で!」
「手羽先のハーブ焼き、3人前ね~!」
「は~い、少々お待ちくださいっ!」
くるくると店の中を動き回っている間にも、あちこちでお客さまから声を掛けられる。
食堂は今日も大賑わい。う~ん、忙しい!
あれから、わたしはすぐに街を飛び出した。
わたしの住んでいた街は獣人だらけの街だったから、あのまま春を迎えると、番に出くわす確率はとても高いのだ。くずぐすしている暇はない。
家族には悪いと思ったけれど、誰にも知らせず黙ってこっそり家を出た。だって絶対、反対されるもん。運命の番は素晴らしいってみーんな信じきっているから、何を言っても宥められて止められるに決まってる。
もちろん心配させるといけないから、ちゃんと書き置きはしておいた。運命の番と一緒になるのは嫌だから、街を出ます。落ち着いたら連絡するので、心配しないで!ってね。
獣人は16歳になると親元から離れる人も多い。結婚して家を出る人もいれば、働いて一人暮らしを始める人もいる。だからきっと、わたしのこれは家出ではなく一人立ちと言える…………はず。
シリルにも、なにも言えなかった。
だってシリルは番を求めているんだもん。シリルが好きだから、なーんて言ってしまったら……シリルは優しいから、きっとものすごく困らせてしまうよね……。
どうして街を出ていくのか、追及されても上手く答える自信がなくて。
結局、お別れの挨拶すら出来なかったなぁ。
はぁ…………
「どうしたの、溜息ついちゃって」
「わわ、エイダさん!」
「おつかれさん! もうそろそろ上がっていいよ」
ポンと肩を叩かれて、振り返ると店長の奥さまであるエイダさんから業務終了のお知らせが来た。本当は夜中まで営業しているんだけど、防犯面を考慮して、女性従業員は食事のピークが過ぎる21時頃には終わらせてくれている。すごく恵まれた職場だと思う。
「今日も忙しかったねえ。ティナちゃんが来てくれて、ほんと助かってるよ」
「私の方こそ! ものすごーく助かってます」
運命の番に会いたくないのなら、獣人のいない場所に行けばいい。
そう思ったわたしは、人間だらけのこの街にやってきた。気持ちの整理がつくまでは、ここでひっそりと暮らそうと思って。
けれど住む家もなければ仕事もない。知り合いすらいない土地でオロオロしていたわたしに、手を差し伸べてくれたのがエイダさんだった。
エイダさんは行き場のないわたしに女の子が安心して暮らせるアパートと、安心して働ける仕事を紹介してくれた。人手不足で困ってたんだよ!なんて明るく笑ってくれたけど、面倒見が良くて優しい人なのだ。
「なにか暮らしにくいことでもあるのかい? 悩んでいることがあるなら言ってみな、相談にのるよ」
「いえ。みなさん気さくでいい人ばかりだし、大丈夫です!」
「ふぅん」
この街では獣人が珍しいようで、ジロジロと見られることも多いけれど、排他的な態度を取られることはない。近くに騎士団の施設があるので治安は良い方だし、わりと暮らしやすい街だと思う。
「じゃあ、あれか。シリル君とやらがまだ忘れられないんだね」
「ええと……まあ、そんなとこです」
「ははっ。よっぽど好きだったんだねえ。そんなに好きならフラなきゃ良かったのに」
フッてないし、そもそもシリルとは付き合ってすらいないんだけど……
人間には番がピンとこないのかな?
エイダさんには、この街にやってきた理由をシリルとの想い出まで含めてしっかり語っておいたのに、なぜか「心変わりが怖くて恋人を振った女の子」認定されてしまっている。
全然違うんですけど!
「シリル君もティナちゃんが突然消えて、落ち込んでいるんじゃないかい?」
「そんなことないと思います。心配はしているかも知れないけれど……今頃、番に出会って幸せにしてるんじゃないかな……」
言いながらだんだん落ち込んできた。
そう。ここにきて、早くも一月が経とうとしている。
空気はすっかり暖かいものに変わっているし、マフラーを巻いている人など見あたらない。
季節はもうすでに春なのだ。
地元では、16歳になった男女が番を見つけている頃だろう。
そして、シリルもその中の一人かもしれない――――
「一度、ちゃんと話をしてみればいいのに」
話なんてとんでもない!
シリルの口からのろけ話を聞かされるなんて、絶対にごめんだよ!
せめて、わたしの知らないところで幸せになってほしい。
「まあどうしても無理なら、新しい恋をしてみるのもいいと思うよ!」
「へっ!?」
「気づいてた? ティナちゃん、結構人気あるんだよ。ティナちゃん目当てでここに通う子だっているくらいだし、恋人募集すればすぐに名乗り出る奴が現れるんじゃないかな」
「なっ、なに言ってるんですかエイダさん! わたしなんて全然モテないですからっ!」
わたしが人気あるとか……それ絶対にありえないよ!
そりゃ、いろんな人から見られているのは知っているけどさ。たぶん、この耳と尻尾が珍しくて見ているだけだと思うよ?
その証拠に、獣人だらけの地元では視線なんて感じなかったし。
もちろん告白されたことなんて一度もない。
にやにやと笑うエイダさんに、顔と両手をぶんぶんと横に振ってありえないアピールをしていたら、カラコロとドアベルの鳴る音がして。
冷やりとした夜の空気と共に、とんでもなくいい匂いが忍び込んできた。
――――なに、この匂い。
鼻先を掠めたそれに。
警鐘のように。ドクン、と心臓が重い音を鳴らす。
「ティナちゃん?」
「…………」
どうしたんだろ。わたし、おかしい。頭がぼうっとして、ドクドクと胸が高鳴っている。お酒を飲んだ人みたい。頬が火照って、ものすごく熱くなっている……。
「どうしたの、具合でも悪いの? 顔が赤いけど……」
「…………」
ああ、これは番だ。
ふらふらと誘われるような感覚と、うっとりするようなこの匂いは、運命の番で間違いないだろう。白い尻尾が、番の存在を察知して喜びにプルプルと震えている。
ああ、振り返りたい。振り返って、番の元まで駆け寄りたい……。
――――だめ。絶対に、振り返っちゃだめ!
運命の番なんて冗談じゃない。そんなものに、わたしの気持ちを決められたくないよ!
鼻をぎゅっとつまんで、理性が蕩けそうになるのをグッとこらえる。
「エイダさん、帰りますね」
「え? ティナちゃんっ?」
戸惑うエイダさんをそのままに、するりと身をひるがえして店の奥へと急いで逃げた。控室に置いてある荷物を掴み、ウエイトレス姿のまま裏口から外に出る。
私服に着替えている余裕はない。恐らく相手はわたしの存在に気が付いている。あの場所からわたしの匂いが消えたことで、後を追ってくる可能性は非常に高いだろう。一刻も早く、安全な場所まで帰らねば。
月が煌々と身を照らす。アパートの部屋を目指して、夜の道を必死に駆けた。追いつかれたらおしまいだ。本能がそう告げている。
ねぇ。どうしてここにわたしの番がいるの?
どうして。
どうして。
駆けながら、頭の中にぐるぐると疑問が浮かんだ。だってここは人間だらけの街なのに。獣人なんて、この一月の間に一人も見かけなかったのに。運命から、わたしは逃げたはずなのに。
それなのに、出会ってしまった。
「もう! わたしってば、ほんっとーに運が悪すぎるよ……!」
大きな通りを真っ直ぐ走っていると、横手に広い公園が見えた。ここは通り抜けると近道になっていて、ちゃんとした道を通るよりも早く家に辿り着く。夜は暗くて人気がないので普段は避けているけれど、今日ばかりはそんなことも言っていられない。
森のようにうっそうと茂る木々の中を、迷わずに突っ切っていく。
もうすぐ遊具のある広場に出るというところで、背後から地を蹴る音がした。振り返ると、一匹の狼が唸るような咆哮をあげてわたしに躍りかかってきた。
銀色の綺麗な毛並みに、金の瞳が闇夜に光る。
それはとても美しい狼で。恐怖も忘れて、わたしはその光景に見惚れてしまっていた。
――――この狼がわたしの、番。
柔らかな肉球がわたしの肩とぶつかって、草むらの上にどさりと倒れ込む。たっぷりと草が生えていたおかげで、思ったよりも身体は痛くない。それよりも、わたしを見下ろす金色の瞳に悲哀の色が浮かんでいて、胸がぎゅっと痛んだ。
わたしが、逃げてしまったから。
わたしの上に乗り上げたまま、銀色の狼がわたしの首筋にすりすりと顔をすり寄せる。ふさふさとした毛の感触がくすぐったくて、泣きたくなるほどいい匂いがした。耳元でくぅーんと寂しそうに鳴かれて、胸が切なくなっていく。
「……どうして出て行ったんだ、ティナ」
え……シリル?
ふさふさの毛の感触が、すべらかな人間のものに変わっていく。驚愕に目を見開くわたしの上にいたのは、悲痛に顔を歪めたシリルだった。
そういえばシリルは狼獣人だった。雰囲気が優しいから、羊とかヤギとか、犬のような気でいたけれど。
って。今はそうじゃなくて!
「そんなに僕と番になりたくなかったの?」
待って。
「僕はずっと楽しみにしてたのに。君と番になって、堂々と君を僕のものにして。君と一緒に暮らす日を心待ちにしてたのに、それなのに……」
ちょっと待ってよ。
「シリルがわたしの番なの……?」
「そうだよ」
「夢…………」
匂いは、明らかにシリルがわたしの番だと告げている。それでも自分の運のなさを嘆いていたわたしには、この夢のような展開に現実味が感じられないでいた。
これは夢かもしれない。そう思って、頬をバチンと叩く。
「ちょっ!ティナ!?」
「どうしよう。あんまり痛くない……」
叩いた手のひらを見つめると、季節外れの蚊が止まってた。潰れた腹から、たらりと血が流れてる。
「いっやあ! もう吸った後だしっ!」
どうせなら吸われる前にヒットさせたかった!
ほんっと、わたしってばツイてない。やっぱりこれは夢なのかも……
シリルがわたしの肩をがしっと掴んだ。
「夢じゃない! ティナは僕の番だ。もうずっと前から、僕の運命の番だ」
…………ずっと前から?
「いっやああああっ!!」
こてんと首を傾げていると、シリルが何も着ていないことに今更ながら気が付いた。獣化した時に破れるか脱げるかしたのだろう。慌てて、上にいるシリルをドンと突き飛ばす。
「シリル! と、とりあえずこれでも着てっ!」
制服の白いエプロンを脱いでシリルに放り投げると、ジトっとした目を向けられた。
「……あのさ、ティナ。これはこれでヤバい奴に見えると思うよ?」
「で、でもそのままは流石に……」
「ああ、ごめんね。でもティナが逃げるから、追いかけるためにこの姿になったんだ。獣化した方が鼻も利くし、足も速いしね」
「う……」
「ティナのうちまで連れてってよ。そこでゆっくり続きをしよう」
くすっと笑って、シリルはまた狼の姿に戻った。
◆ ◇
「どうぞ」
人型に戻ったシリルに、温かい紅茶を出した。
今は春。昼間は温かいけれど、夜はまだまだ冷えるのだ。獣化している間は平気だと思うけど、シーツ一枚巻き付けただけの今は、少し肌寒そうに見える。
本当は服を渡したかったけど、無いものはしょうがないよね。わたしの服なんてサイズが全く合わないし、買いに行こうにもこの時間だと店はどこも閉まってる。
狼のままだとお話も出来ないし……
「ありがとう」
ふぅ、と息を吹きかけて、シリルがこくりと紅茶を飲んだ。わたしもソファに座って、はふはふと紅茶に息を吹きかける。……うっ、ちょっと熱々にしすぎちゃった。もっとぬるくならないと飲めないや。
涙目になりながらピリピリする舌を突き出していたら、シリルにふふっと笑われた。彼の手元を見るといつの間にかカップが空になっている。すごい、もう飲み干したんだ。
「――――で。どうしてティナは僕から逃げたんだ?」
和やかな空気から一転。シリルが金色の瞳をきらりと光らせて、隣に座るわたしを見下ろした。
う、怒ってる。
でもそれ以上に悲しんでいるのが分かって、胸がずきりと痛んだ。
シリルの尻尾がシーツ越しにもしゅんと萎れているのが分かる。こんなに元気のない尻尾を見るのは、6歳の頃に喧嘩して大っきらいと言ってしまった時以来のことだ。
いつもはピンとしている耳も、心なしかヘタれているように見える。
「あのね、シリルが嫌で逃げたんじゃないよ。運命の番が嫌で、逃げたの」
「それ、同じ意味だよね」
「違うよ! だって街にいた頃は、シリルが番だなんて知らなかったもん」
「えっ?」
シリルがぽかんとしている。
えっと、わたし、そんなに変なこと言ったっけ?
「ティナは僕が番だって分からなかったの?」
「えええええ! むしろシリルの方こそ、16の春になる前からわたしが番だって分かってたの?」
「物心ついた頃から、なんとなく分かってたよ」
嘘っ!!
番センサーは、16歳の春になって初めて反応するんじゃなかったの?
そう聞いたんだけど! どうなってるのよパパ、ママ!
「………ああ、ティナが猫獣人だからか」
「?」
「僕はね。両親に、番を見つけても16の春までは自制しろって言われてた」
「それ、わたしと言われていることが違う……」
今度はわたしがぽかんとする番だ。
シリルが顎に指の背を当てて、真っ直ぐに前を見た。大人びた横顔にどきりとする。すっと細められた目は、さっきと比べるとずいぶん穏やかになっている。
「獣人でも嗅覚の鋭い種族は、それまでに薄々感づいているんだと思う。16歳の春にならないと強い衝動が伴わないだけで」
「え、じゃあシリルの他にも……?」
「うん。ゾウ獣人や犬獣人の友人たちは、僕よりもはっきりと番に気づいていたよ」
「わたしが仲良くしていたサル獣人の女の子は、運命の番が誰なのか楽しみって口癖のように言ってた……」
「ティナが分からないなら、サル獣人の子も分からないだろうな」
ゾウ獣人は数が少ない。狼獣人はシリル以外に仲の良い子はいない。犬獣人は男の子なら親しい子もいたけれど、男の子相手に恋バナなんてしようと思わなかった。あれは、女の子同士だから盛り上がるのだ。
そう。思い返せば、わたしの友人に鼻の利く種族の女の子っていなかった……。
「――――で」
再び、シリルがわたしの方を向く。
「僕は昔からティナのことが好きだったし、これまでずっと16歳の春がきたらティナと結婚するつもりでいたけれど。…………ティナは運命の番である僕は嫌?」
シリルがわたしの手をぎゅっと握る。はっきりとした声色は強気にも聞こえるけれど、彼も不安なんだと分かった。
だって。蜂蜜色の瞳が揺れている。
ううん、そんなことないよ。シリルのことはわたしもずっと好きだったし、シリルと結婚できるのはすごく嬉しいよ。好きだと言ってもらえるのも嬉しい。でもね。
シリルの手を払いのけ、昔よりも精悍になった両の頬をわたしの小さな手で挟み込む。
「わたし、運命の番なんてお断りだからね」
「ティナ……」
泣きそうになったシリルの唇を、自分のものできゅっと塞いだ。震える彼の声はくぐもって、わたしの中に溶けていく。
シリルの唇は柔らかくて、温かくて。触れ合った部分から、じんわりと熱が身体に広がっていく。
ああ、わたしの大好きな人。
身体を離して、驚き目を見開くシリルを見上げて、きっと睨んだ。呆然としていた白い頬が、状況を把握してじわじわと赤く染まっていく。
わたしも負けじと真っ赤になって、叫んだ。
「シリルだから! シリルだから、いいんだからねっ!」
運命の番だから好きなんじゃない。
シリルとのこれまでのすべてが、全部、全部、大好きなの。
シリルが口元を震わせて、わたしをぎゅうぎゅう抱きしめた。それは今までのような優しい抱擁ではなくて、苦しく感じるような強さだったけど。
「……僕も、ティナが番で嬉しい。嬉しいよ」
心も身体も、ぴったりと触れ合えたことがすごく幸せで。腕の中で、春の日向のような匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、わたしもシリルの背中に抱きついた。