その一
「た、退去ォ!? どういうことですいきなり……」
真樹さんの言葉に、私はすっかり参ってしまった。正体を突き止めるのを通り越してこんなことを言うのは、よほど事情があるはずなのだ。
「真樹さん、いったい昨日、あなた何を見たんですか」
眠気もいっぺんに醒めて、私はちゃぶ台へ両手をついた。真樹さんの目は、弱ったような色を向けている。
「――こんなことを言って馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないがね。昨日起こったことをありのまま話そうじゃないか」
手から牛乳パックを離すと、真樹さんは徐に、昨夜の出来事を話し始めた。
「君が酔っぱらって寝落ちたのがちょうど十二時ごろ。で、布団の中へ運び込んでから、僕は部屋の明かりを落として、テレビを薄くつけていたんだ。すると、一時を少し過ぎたところで、例の三味線の音が聞こえだした」
「やっぱり、昨日も来てたんですね」
なおのこと、酔って寝つぶれたのが惜しまれた。なおも、真樹さんは話を紡いでゆく。
「音の聞こえた途端、僕はおいでなすったな、と思ったよ。で、カーテンの下から窓辺に立つと、僕は持ってきていたセロハンテープを一つずつ、窓ガラスへ貼っていったんだ」
そこで真樹さんが指をさしたので、つられて私は横を向いた。見れば、すりガラスの一角がセロハンテープのおかげで素通しになっている。
「そして、ようやっと最後の一枚を貼り付けると、僕は改めて窓の外へ目をやった。そうしたら、いたんだ」
「……なにが、ですか?」
「真っ白い着物を着た、編み笠姿の三味線弾きの女さ」
「……え?」
真樹さんの言葉に、私は少し戸惑ってしまった。思っていた通り、といったら変だけれど、あの奇妙な三味線の音は、やっぱり人間の仕業だったわけだ。それならば堂々と、警察などの手を借りれば済む話なのである。それなのになぜ、真樹さんはあんなことを言ったのだろう。
「真樹さん、大げさですよぉ。人が三味線弾いてたんなら、止めるように言ってみれば良いわけじゃないですか。それをまるで――」
「地上げ屋でも出たみたいに騒いで、って言いたいのかい? ヤクザだったらどんなに良かったことか……」
重いため息を吐くと、真樹さんは窓を指さし、こう続けた。
「外で弾いてた女は、ちょうど街灯の間にいたんだ。ところがどうだ、曇り空で月明りもない中を、その姿はまるで、自分自身がぼんやり青白く、光り輝いていたんだよ」
「――えっ?」
すぐに事情が呑み込めず、私はしばらく呆然としていたが、そのうちに真樹さんの言葉の意味が分かって、背筋へ妙なものの走る感覚を覚えた。
要するに、本来なら明かりを受けて見えるべきはずのその三味線弾き自体が、蛍か何かのように輝いていたのだということではないか――。
「酒に酔って妙なものが見えたのかと思って、何度も目をこすったよ。でもやっぱり、目の前にそいつはいる。そのうちに僕は、見えてはいけないものがそこにいるんじゃないかと、そう思い出した。うっかりすると、こっちが取り込まれかねない」
涼しい朝だというのに、真樹さんの額は私の背中のように汗が玉のように躍っている。
「そう思うと、僕は一か八か、そっとカーテンを抜け出て部屋の明かりを点けた。――その直後だったよ。うるさいくらい聞こえていた三味線の音が、ぴたりと止んだのは」
そう言って立ち上がると、真樹さんは錠の上がったままになっていたサッシを滑らせ、私を手招いた。おずおずと窓際へ寄ると、話の通り、二つの街灯が間を開けて、例の廃屋を挟むように控えている。
「――このど真ん中にいるんじゃ、当然両方の光を受けて見えた、というのは無理がある。そう思わないかい?」
「え、ええ……」
現実を目の当たりにして、私はますます体温の下がるのがわかった。直接見ていなかった、迷惑ながらも眠気を呼ぶだけと思っていた三味線の主が、まさか人ならざるものだとは、つゆほどにも思わなかったのである。
「真樹さん、なんでそんなのがうちに……」
泣きたいのをこらえながら顔を向けると、真樹さんがそっと、ハンカチを差し出した。我慢していたものがあふれて、慌てて目元を抑えた。しばらく経つと、こちらの落ち着いたのを見計らい、真樹さんは君のせいじゃないよ、と肩をたたいてくれた。
「おそらく、大家さんも預かり知らない事情が、尾瀬井町のこの一角にはあるのかもしれない。うまいこと話をつけるのに協力するから、とりあえず前向きに、退去の算段を建てた方が賢明だと思う」
「あ、ありがとうございます」
正直なところ、五万円で手に入れた我が家を失うのはちょっと惜しかった。だが今は、人ならざる奇怪なものに取り入られて命を落とす方がよっぽど惜しかった――。