その四
近くのラーメン屋で夕食を済ませ、お酒などを買い込んでアパートに戻ると、ちょうど時計が八時を差したところだった。三味線の音を待っている、ということ以外は、実に充実した夜だと、つくづく身の上を呪った。
「すまないね、ラーメンどころかお酒までごちそうになって……」
チューハイやビールの缶が入った袋を持ってくれていた真樹さんが私へ申し訳のなさそうな目を向ける。
「いいんですよぉ、お礼らしいお礼が出来そうにないし、これくらいはしないと……」
彼女さんにつつかれますからね、とは流石に言わなかったが、まさかほっちゃんがあれほどの熱を帯びた愛の持ち主とは思わなかっただけに、これくらいはしておかねばと思ったのは事実だった。
「汚いとこですけど、まあ、ゆっくりしてってください」
部屋の明かりをつけ、座布団を軽くはたいてやると、真樹さんはにこやかに、
「ハハ、ありがとう。別に、今すぐ気を張ってなくちゃいけないってことはないだろうからね。オセロを持ってきたから、ゆっくり遊んでようじゃないか」
片手に持った小ぶりなボストンバックを畳の上に下ろすと、中から折り畳み式のオセロのセットが姿を出した。と、それに引っ付いて転がり出た小さな何かが、コロコロとテーブルの下を回って、私の膝にぶつかった。
見ればそれは、金属製の小さな刃がついた真新しいセロハンテープだった。
「あれっ、どうしてこんなものが?」
拾い上げたテープを渡しながら尋ねると、真樹さんは窓を一べつして、
「――ああ、これかい。ここの家、すりガラスだったのを思い出してね。こいつがあれば便利だろうと思ったんだ。窓を開ける音で逃げられたら厄介じゃないの」
「なるほどぉ」
そういえば、すりガラスにテープを貼ると向こうが透けて見えたのを、小学校の時に見た記憶があった。ともかく、深夜までは十分に時間がある。買い込んだおつまみやビール、チューハイを広げると、私は真樹さんとのんびり、勝負を始めたのだった。
だが、例によって私は、勝った負けたと喜んで繰り返すうちに酔いが回り、オセロの盤を前に船を漕ぎだしてしまった。
「おいおい、大丈夫かい」
「大丈夫ですよぉ、まだまだ宵の口ですから……」
そういいながら視線をくれた目覚ましの針がぐにゃりと曲がって見えたところで、私の記憶は舞台の暗転のように暗がりへ落ち込んでしまったのだった。
瞼をなでるような明るさに目を覚ますと、いつの間にか寝室で、布団に収まっていた。
「真樹さん、運んでくれたのかぁ……」
どおりで、肌寒いと着込んでいたパーカーもそのままなのわけだ。下着がうっすら汗ばんでいるような、そんな感じをむず痒く感じていると、ふすまの向こうから真樹さんが話しかけた。
「やぁ、目が覚めたかい。鍵、拝借したよ」
「えっ、鍵?」
そっとふすまを開けると、ハンドタオルを首からさげた真樹さんが、ちゃぶ台の上のコンビニの袋を指さした。
「他人の家の台所を漁る趣味はなくてね、ちょいとばかし買い出しに行ってきたんだ。コロッケパン、食べる?」
ゆでたまごや総菜パン、牛乳やジュースの小さなパックを出しながら話しかける真樹さんに、私はすっかり申し訳ない気持ちになってしまった。
「すいません、一緒に見届けるつもりだったのに。酔って寝ちゃったんですね」
コロッケパンをちぎりながら、私は昨晩の失態を真樹さんへ詫びた。心なしか、真樹さんの表情も硬い。
「――あの、もしかしなくても、怒ってらっしゃいます?」
おそるおそる尋ねると、真樹さんは意表を突かれたような顔でこちらを覗き込んだ。
「いやあ、ごめんごめん。そうじゃないんだよ。ただ……」
「ただ……?」
牛乳パックを握る手が心なしか力んで見えたところへ、真樹さんは思いがけないことを口にした。
「悪いことは言わない、この家から一刻も早く退去することだね」