その三
「ほっちゃんっ、ちょっと行ってくるから荷物見ておいてっ」
「センパイ、また食べるんですかぁ? 太っちゃいますよぉ」
三杯目のきつねうどんを買いに行こうと立ちかけた私へ、ほっちゃんは小首をかしげながら、目の前のとんかつ定食から箸を遠ざけた。カロリーとしてみれば、ほっちゃんの方がよっぽど太りそうなものである。
「――なんかこの頃、食欲が増してさ。別に運動なんかしてないのに……なんでだろうねぇ」
「店長、最近言ってましたよ。人間、足りないものを埋めようとして、体からストレスが湧き出てくるって……。寝不足とかでお腹がすくんじゃありませんか?」
「むーう」
ぼんやりとした顔に似合わず痛いことを指摘する子である。実際、この二週間ばかり、私は満足な睡眠を得られていなかった。別段、眠る時間が短いというわけではない。要するに、気になることがあるために睡眠の質が下がっているのだ。
もちろんその気になることというのは、あの奇怪な三味線の音なのだが――。
「――実はねぇ、ここんとここんな目にあってんのよ」
きつねうどんをあきらめて椅子へ戻ると、私はこの二週間、睡眠を妨害しているあの奇妙な三味線の音についてほっちゃんへ打ち明けた。
「へえ、そんなことが起きてたんですかぁ。大家さんには相談したんですか?」
「いちおう相談はしてみたけど、お互いどうしたらいいかわからなくって頭抱えてるんだ。眠りが悪いせいで、ここんとこ音で目覚めても、起きる気力がわきやしない――」
話すそばから湧き上がるあくびにを噛み殺すと、向かいに座ったほっちゃんはしばらく目をぱちくりとまたたかせていたが、
「――やっぱりこれは、店長案件ですねえ」
「……そうなるかなあ、やっぱ」
ある意味で予想通りの答えを出し、私を安心させた。実際、今日にいたるまで幾度となく、真樹さんの元へ相談に行こうとは思っていた。ところが、そういう日に限って大学で課題が出たり、バイトの急なシフト変更の頼みなどが降ってくるので、ついつい後回しになっていたのだ。
「センパイ、たしかこの後講義が入ってましたよね。あたし、待ってますから一緒にお店に行ってみますか? 一人よりは気楽だろうし……」
「おっと、それなら待つこたぁないよ。――例によって、また休講なの。やんなっちゃう」
「じゃ、善は急げですね――」
話をまとめると、私はほっちゃんの昼食の済むのを待ち、大急ぎで駅前の真珠堂へと向かった。
「――ってなことがありましてね」
「なるほど、そいつぁ厄介だったねぇ」
ちゃぶ台を挟み、腕を組んだまま真面目な顔で話を聞いていた真樹さんは、そっと腕をほどくなり、千菅さん、と声をかけてきた。
「差し支えなければ今夜あたり、様子を見に行かせてもらえないだろうか。やっぱりこれは、誰かが現地で寝ずの番をしていた方がいいと思うんだよね――」
「あーっ、店長女の子を誘惑してるー、いけないんだー」
「こらっ、人聞きの悪いこと言うんじゃないの!」
大真面目な提案だったはずが、ほっちゃんの指摘にすっかり、その場は笑いの渦に飲み込まれてしまった。だが、疲れの残っていた私にとってみれば、却ってその方がありがたかった。
ひとしきり笑い終えたのち、真樹さんの荷造りが済むと、私はおごりだというのでタクシーを呼び、車のつくのを待った。
「真樹さーん、あと五分ぐらいで来るそうですよっ」
ほっちゃん共々、荷物の支度に二階へ上がった真樹さんへ声をかけると、階段の奥からありがとうっ、という声が返って来た。
「――わかったっ、悪いが下で待っててくれるかいっ」
「はーい」
そのまましばらく、居間でつくねんと腰を下ろしていると、天井が鈍い音を立て出した。大きな鞄でも出しているのだろうかと、気になって階段へ一歩足を載せた途端、
「……啓介さん、先輩に手を出したら、承知しませんからね」
「……わかってるよ」
「その代わり、私はいつでもいいですからね。待ってますから……」
「……うん」
いやに生々しい息遣いと、ささやくような吐息交じりの睦言に、私はすっかり驚いてしまった。
――なるほど、単なるバイトと店長の関係じゃなかったのかぁ。納得納得。
おじさんだっけ、と言った時にひどくおかんむりだった理由がわかると、私は居間へ引っ込み、ふたたびタクシーを待つことにした