その二
耳をくすぐるその音にふと目を覚ましたのは、ちょうど午前一時を過ぎたころだった。放り投げてあったスマホを手に取り、青白い画面に浮かぶ時刻をにらむと、私はそっと、掛け布団から上半身を出した。
「……三味線?」
コロリのシャン――。口で表すとざっとこんな具合の、かろやかな三味線の音が繰り返し、どこからともなく聞こえてくる。一瞬、テレビの消し忘れかとも思ったが、そっと開いたふすまの奥で、液晶画面は真っ黒い沈黙を守っている。
同居人のいない光月荘の中でないとすれば、これは窓の外から、ということになってくるが、
「なによっ、あれが嫌でわざわざ引っ越して来たってのに……」
その出所を探る気にならず、私は布団にもぐって天井のLEDをにらんだ。これというのも、その音色がこの前まで寝起きしていた居候先の叔父が弾く、実に下手な浪曲三味線を連想させてイライラしてたまらなかったのだ。
――叔父さんよりはうまいようだけど、時間考えてほしいよねぇ。
だが、幸いなことにこの程度で眠れなくなる、というようなデリケートさは私にはなかった。というのも、叔父のおかげで、私は三味線の音をちょっと聞くだけでも眠気を催すようになっていたのである――いつだか、芸能鑑賞の講義でえらい目にあったのは別の話だが――。
……どっかにまだ、お茶屋かお座敷でも残ってるのかなぁ。そんな話、聞いた覚えはないけれど。
そんなことを頭の中で巡らせているうちに、私の意識は夢の中へと遠のいていった。ゆっくりと眠りに落ちるその瞬間まで、三味線の音はあいも変わらず続いていた。
風呂上がりの熱気が抜けないままにアルコールが入ったせいか、朝になって布団を抜けると、裏側がやや湿っぽかった。寝汗の染みた面を表にして、明け放した窓際に干すと、ちょうど昨日、あの三味線の音の聞こえてきた方角へ目が向いた。
「――ん?」
と、アルミの手すりへ掛け布団をひっかけた私は、目線を下へ下ろしてあることに気づいた。内見の日、引っ越しの当日、何度となく見ていたはずのお向かいは、壁一枚残して取り壊し中の廃屋であったのだ。
「……バームクーヘンみたいに壊すんだなぁ」
光月荘よりちょっと背の高い、同業の建物だったらしいお向かいは、瓦屋根は跡形もなく、それでいながら器用に、こちらに面した外壁だけをキレイに残して崩されている。畳も柱も、床の間も茶の間も一緒くたに、重機のたてたツメでみごとに面影を失っている――。
「――じゃ、隣?」
身を乗り出し、今度は右手へ視線を向けたが、そちらは不動産屋の立て札が経った砂利引きの空き地だった。
「……いったい、どこから聞こえてきた音なんだ?」
どこかのお座敷で宴会でもあるのだろうと思って寝入っただけに、どうにも着地点のないのがむず痒くてたまらない。夏物の部屋着のままで腕を組み、眉を寄せて考えていると電話が鳴った。
「はい、もしもし――」
相手も見ないまま出た電話は、大村さんからのものだった。用事は実に他愛もない、古いから家鳴りなんかがひどくなかったかしら、というもので、私はなんともなかった、と簡単に答えておいた。
「あ、でも昨日、窓の外から三味線の音が聞こえてきて、それがちょっと大変でしたね。この辺って、まだお座敷があったりするんですか?」
話の流れで、昨夜のことをそっと話すと、向こうからは変ねえ、という声が戻って来た。
『最後まで残っていたお茶屋さんも、二十年くらい前に止めてしまったから……。昨日は別に、下にかすみさんとかが来ていたわけでもないし、変ねえ』
時々掃除に来るとかで、一階の隅にあのプリン頭の親戚用の部屋があるのを思い出した。だが、あの音の調子は、明らかに窓の外からのものだった。
「とにかく、また何かあったら連絡します。変な人がいるといけないですし……それでは」
自分からふっておいてなんなのだが、どうにもバツが悪くて、そこで話を端折ってしまった。そのまま、畳の上に置きっぱなしの鞄へ電話を投げると、午後の講義に出るための準備を粛々と始めることにした。
講義も済んで、夕方からのささやかなアルバイトも片付くと、私はすっかり人の減った下りの路面電車で、最寄りの停留所を目指した。時計の針は、ちょうど夜の十時を指している。
「いまからラーメンはちょっと太りそうだなぁ」
近くの工場の独身勢に人気だという、こってりスープが自慢のラーメン屋をかすめると、私は冷凍庫へ放り込んだ冷凍うどんとめんつゆを思い出し、小走りに家へ向かった。
「賄い、おにぎりだけじゃ足りないよなぁ……」
短時間とはいえ、飲食店のアルバイトというのは実に体力を消耗するのである。ともかく、
茹で上がった素うどんをどんぶりへ移し、テレビを見ながら手繰ると、どうにかお腹は満ちた。そのままリモコンを片手にチャンネルを変えていると、昼間一度は放棄した、例の三味線の音の出どころの謎が頭をかすめた。やることもない上に、番組も案外面白いのがやっていないので、ちょうどいい暇つぶしにはなった。
「近くにお座敷やお茶屋はない。向かいやその隣も廃屋。……当然、下には誰もいない。こりゃ、どういうこっちゃろ」
上の空のまま、チャンネルをコロコロ変えていると、突然、スピーカーからコロリンシャン、という三味線の音が飛び出してきた。思わずのけぞってリモコンを放り投げ、画面を指の隙間からのぞき込む。
「――なんだぁ、NHKか」
NHKのEテレだとわかると、私を襲ったささやかな恐怖はいとも簡単に氷解した。各地に残る風物詩を紹介する番組で、岡山のほうで撮影した、辻三味線とかいうののVTRが流れていたのだ。しばらく画面に映る、ホットケーキを半分に折ったような編み笠と、色とりどりの着物の柄の鮮やかさを見つめていると、私の頭をある考えがよぎった。
「……もしかして、こーいうのが来てたのかな」
店から聞こえてこないのに外から音がするなら、もうこれしかなかった。誰か酔狂な人間が、わざわざ人の睡眠を促しに三味線を弾きに来ている――こう考えれば納得はゆく。
「どうしよっかな、起きて見張ってて、文句言ってやろうかな」
半ば深夜テンションに入りかけていた私は、一度サッシの錠を上げて、窓の外を見下ろした。街灯が二つ、ちょうどその真ん中にある例の廃屋のあたりが音の出どころだと見当をつけると、私は鍵をかけないまま窓を閉め、カーテンを閉じた。
「見てろぉ、今夜は絶対に正体掴んでやる……」
鼻音荒く息巻くと、私は景気づけにと冷蔵庫をあさり、奥の方でよく冷えていた缶チューハイの缶を開けた。ただただ待つばかりではつまらないというだけだったのだが、案の定、一本が二本になり、都合チューハイを三本開けた私は、アルコールの力でぐっすりと眠り、朝を迎えたのだった。