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三味線の聞こえる窓 ~安い下宿と辻三味線~  作者: ウチダ勝晃
第一章 尾瀬井町の安い部屋
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その四

 大村さんの親戚だという、やさぐれた感じの女性の運転で喫茶店を出ると、私と真樹さんは大手通を西へまっすぐ走り、大きなスーパーのある交差点で右へ曲がった。たしか、このまま直進すると水ノ堰という工場地帯に近い町へ出るはずだ。路面電車の停留所もあるから、まあまあ交通の便は悪くなさそうだが――。

「大村さん、その家って、この近くにあるんですか」

「ええ、そうですよ」

「あー、じゃああたしの調べ方が悪かったんでしょうね。水ノ堰の辺りじゃいい部屋、もう空きがないって言われたことがあったんですよ」

「あら、そうでしたの。――かすみさん、そこを左でお願いね」

 運転を仰せつかっていたかすみさんへ大村さんが指示を出すと、ベントレーは軽く車体をゆらしながら、折り返しの電車が戻ろうとする横を器用にかすめていった。

「――なんかこの辺、道が細いですね」

 通りから数メートルもしないうちに、私は周りの様子が変わって来たことに気づいた。車のすれ違いがやっとの幅の道筋に、それでいていやに高く見える軒先――。ちょうど、テレビでよく見る京都の町のようなところを、ベントレーは器用に走り抜けていた。

「昔からこの辺りは道が細くって、運転が大変なんですよ。――そろそろスピード、ゆるめてちょうだいね」

 後部座席から身を乗り出した大村さんの言葉に、かすみさんはへいへい、とだるそうに返し、少しだけ道幅の広いところでアクセルをゆるめた。

「お待たせしました。こちらがお話ししたお家ですのよ――」

「……ええっ」

 真樹さんにウィンドガラスを下ろしてもらった私は、目の前の光景にすっかり驚いてしまった。時代劇に出てきそうな木造の三階建て、それこそ旅館かなにかのような建物がそこに控えていたのであるから――。

「――これはすごい、傘岡空襲の生き証人じゃありませんか」

「あら、よくご存じですのね」

 私と大村さんの間に挟まれていた真樹さんが、目を輝かせてつぶやく。あとから聞いたところによると、法律の関係で、今は木造三階建ての建物を作るのはちょっと難しいのだという。そうなればおのずと、そうした家は戦前戦中――いわゆる傘岡空襲以前の建物、ということになってくる。

「もともとは亡くなった主人の実家だったんですけれど、土地が土地でございましょう? 手放すのも取り壊すのも手間で、細々、かすみさんのご家族なんかに手入れをお願いしてたんですのよ」

「――なるほど、そういうことでしたか。じゃあ、言ってしまえばこの家は、一種の節税として千菅さんにお貸しなさると、そういうわけですか」

「ええ、そういうわけですの。別段、隠すつもりもございませんから……」

「あ、あの……」

 真樹さんと大村さんの間でだけいやにスムーズに会話の弾むのに耐えかね、私はそっと手を上げた。

「土地が土地で、っていうのは、いったいどういうことなんでしょうか? 治安が悪そうには見えないですけれど……」

 私が置いてけぼりになっていたことに気づいて、大村さんはまあまあ、と困った顔をしてみせる。

「ごめんなさい、説明が足りなくって……。どうかしら、真樹さんの方がお詳しいようだから、お願いしてもかまいませんか?」

 大村さんの頼みを、真樹さんはええ、いいですよ、と簡単に引き受けた。

「この辺は昔、越州の祇園と呼ばれた一大花街・尾瀬井遊郭があったあたりでね。戦後もある時期までは非常に盛んだったんだが、昭和三十四年に売春防止法が施行されてから、すっかりその賑わいを失ってしまったんだ。再開発をするにも、どうも駅から距離があっていまいちだし、だいいち元が花街ということで買い手もいい顔をしない。そんなわけで半世紀ばかりで、この尾瀬井町は傘岡の街の影にずっと収まっているという具合なのさ」

 真樹さんの説明に、私はすっかり驚いてしまった。この傘岡、ひいては沼垂県にそんな華やかな場所があったというのが、にわかには信じがたかったのだ。

「まあ、最近は水ノ堰の工場地帯に人が増えてるから、借り上げ社宅や、小さなラーメン屋、コンビニなんかは出来てきているんだがね。女子大生の一人暮らしにはいささか不向きと思われているから、不動産屋も気兼ねしたんだろうなぁ。大村さん、この建物、元はお茶屋か何かだったんじゃありませんか」

 真樹さんの問いに、大村さんはそのとおりですわ、と答える。なんでも一時期、とある大手化学メーカーの男子寮にしていたこともあったらしいのだが、住人のあまりの粗雑さに耐えかねて、とうとう契約を打ち切ってしまったのだという。

「ですから、私としては千菅さんのような学生さんに借りていただいた方が何かと安心、というわけなんですの。それで、かすみさんの町内の掲示板に、ああやって告知を出したわけでして……」

「――なんだあ、そういうわけだったんですね。いろいろ考えすぎて損しちゃいましたよ」

 ある程度事情も分かると、私は全身が心地よい解放感にくるまれるのを覚えた。

「まあ、ここで立ち話もなんですから、ひとまず中をご覧になってくださいな。かすみさん、鍵の方をお願いしますね」

 頭頂部がプリンになったかすみさんが先頭に立ち、私たちはようやっと、内見を始めることになった。入ってみれば、畳がいくらか日に焼けていること、窓のサッシが木製であること以外は全く気にならず、印象はどんどんいい方向へ傾いていった。

「いかがかしら? ちょっと古いことが問題ですけれども……」

 三階の窓から一望できる、越州平野と武蔵川の広々とした眺めを見ていた私に、大村さんがにこやかに尋ねる。

「うらやましい光景だね。僕の家じゃ、見えるのはせいぜい新幹線の高架くらいだ。――疑念も晴れたし、ここで決めるのがちょうどいいんじゃないかい?」

「――お願いしますっ、是非とも住まわせてくださいっ」

 微笑む真樹さんに後押しされ、私は下宿館・光月荘の三階、ワンフロアをまるまる借りることに決めたのだった。そろそろ本格的な秋が訪れそうな、ある晴れた水曜日のことだ。


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