その二
ところが、肝心の大教室へ来てみると、入り口の前には大きく、「講師急病のため休講」という札がかけてあった。
「なんだよぉ、単位があぶねえからって殊勝な気で来たのに……損したなぁ」
「うちで麻雀やんねえか? メンツが足りなくって困ってたんだよ」
「ねーねー、ボウリングしにいかない?」
講義が休みと聞いて喜ぶ者、不真面目な同級生へ軽蔑の眼差しをくれる者を一べつすると、私は左肩にかけたリュックの紐を握ったまま、大教室を後にした。
――家に帰って、おばさんと夕飯の支度でもしてよっかなぁ。
とは言っても、まだ午後の一時にもなっていないのではちょっと気が早い。どこかで時間をつぶすには、懐具合が悪すぎた。
「――桜の木の下で、昼寝でもしてよっかなぁ?」
だが、青桜をとっくに過ぎ、うっかりすると紅葉になりかねない気候ではこちらが風邪をひきかねない。どうしたものかと迷いながら廊下を歩いていると、向こう側から私の名前を呼ぶ声がした。見れば、研究室の助手をしている院生の先輩だった。
「千菅さん、あなた告知見た?」
「ええっ、なんのことですか……」
理学部でもないのに、年中白衣を着ている女の先輩が、眼鏡越しにおやおや、と言いたげな目をくれる。聞けば、先だってのゼミのコンパの会費が、計算ミスでずいぶん徴収されていたから返金があるのだという。
「あんなガタガタの屋形船で、一人頭八千円なんておかしいと思ったのよ。学生割引だとかで半額戻るらしいから、帰りがけなら事務員さんに言ってもらってらっしゃい」
「――じゃ、四千円ですか」
後輩に見栄を張った直後の四千円は、使いようによるがなかなかの大金には違いなかった。すぐさま事務さんの元へ向かい、分厚い帳簿へサインをすると、薄手の封筒に収まった千円札が四枚、私の手元へやってきた。
「儲けた儲けた……」
封筒の中身を財布に押し込み、駐輪場に停めてあった自転車にまたがると、私は悠々たる調子で大学をあとにした。今はもう、振ってわいたこの臨時収入で何をしようか、それだけで頭がいっぱいだった。
――甘いの食べてもいいなぁ。映画なんかしばらく行ってないし、そういうのもいいかもなぁ……。
そんなことを考えながら、電車通りの赤信号でつかまると、下半身からある感覚が頭の方へと伝って来た。急ぎ足で出たせいで、さっきのうどんがすっかり消化されてしまったのである。
……また学食っていうのもなんかシャクだなぁ。あそこも、あそこも、この時間はそろそろ麺が切れてるころだろうし。
後輩との話題にも出たラーメンを食べるにしても、行くアテがまるで見当たらない。それにだいいち、下って来た坂をまた戻るのは億劫だった。
「このまま、駅前まで出よっかなぁ」
ここから先の平坦な道筋を行けば、傘岡の駅前までは十分もかからない。四千円を元手に、何か新しい店を開拓するのもよさそうな、そんな気が沸き上がって来た。
運よく、駅前の居酒屋のランチタイムに間に合うと、私は分厚いマグロの赤身が載った鉄火丼を、先刻の穴埋めとばかりに平らげた。そして、同じ並びにある「伊右衛門」という喫茶店に入った私は、フルーツのたっぷり乗ったプリンアラモードを、名物だというコーヒー片手にゆっくりと味わうことにした。
――まさか、叔父さん家の反対側に、こんなお店があったとはねぇ。
土地勘がいくらかある場所に、こんな静かな店があったとは驚きだった。よく外国の映画に出てくるようなスタイルのこの店は、壁材が分厚いせいか外の音がまるで聞こえてこない。まさに「静謐」という文字を体現したような、そんな雰囲気の店だった。
……大学のカフェ、ただただ安いしうるさいだけだもんなぁ。
購買部に毛の生えたような、大学のカフェを思い出すと、私は残しておいたメロンへフォークを突き立てた。
優雅な時間も終わり、世間で言うところのおやつ時に店を出た私は、自転車を押しながら家へと向かった。と、小さな交差点を二、三本渡った時、私の視界に奇妙なものが飛び込んできた。
貸間あります。一万円より。要相談。
町内会のものらしい、あちこち錆のまわった掲示板に子供の書初めのようなものが貼り付けてある。いたずらかとも思ったが、他のポスターと同じように掲示の許可を得たらしい判子がついてある。
「……一万円の貸間、ねぇ」
アパートである、という書き込みがないところを見ると、今の私の居候とさほど変わらないのかもしれない。ともかく、左下に添えてある電話番号に、いくらか面白半分でかけてみると、意外な答えが返ってきた。
『ええ、一万円です。敷金や礼金は、ふた月ずつで……。お部屋の方は六畳が三間なんですが……よかったら一度お越しになりませんか』
六畳が三間ということは、全部で十八畳。それが一万円というのはとんでもない安さである。電話に出たおばあさんの声に、怪しげな雰囲気がないのを悟ると、私は内見の日取りを約束し、待ち合わせ場所を確かめてから電話を切った。
「……たった五万で、一人暮らしがスタートするのかぁ」
降ってわいた幸運に、私はすっかり舞い上がっていた。