古書店・真珠堂にて
真樹さんの紹介で新しい部屋へ移ってから、ちょうど一か月が経った。今までと違い部屋は小さく、駅前の雑踏がいくらか伝っては来るものの、あの忌まわしい思い出のある三層楼に比べたらはるかにマシだった。
「……そういえば、顔出してないなぁ」
その日、祝日で講義がないのをいいことにだらだらと過ごしていた私は、あれ以来真樹さんのところへ顔を出していないことを思い出した。ご近所さんであり、目と鼻の先にいるというのに、あの日荷物を移してから、一度もお礼らしいお礼を言えていない。
「……お店、やってるかな?」
このまま何もしないままというのも気がひける。そう考えると、私は急いで服を替え、駅前のデパートで化粧缶におさまったクッキーを一つ買い求めた。そして、その足でゆったりと真珠堂へ向かうと、私はぴっちりと閉め切られたサッシをそっと滑らせた。
「いらっしゃい――」
帳簿をつけていたらしい真樹さんがそっと顔を上げる。
「真樹さん、ご無沙汰してます」
「――やあ、君だったか」
まあ上がってきなよ、という真樹さんの申し出に、私は手土産のクッキーを差し出しながら、お邪魔します……と呟いた。
「新居の住み心地はどうだい」
「おかげさまで、ものすごく快適です……その、遅くなりましたけれど、ありがとうございました」
どうにかこうにか遅くなっていたお礼を伝えると、真樹さんはならよかった、とにこやかに微笑むのだった。
「――そういえば、あの光月荘だけれどね。いろいろあったのを大家さんが気にされて、早くて年明けから取り壊しを始めるそうだ。貴重な建物ではあるが、あんなことがあったんじゃあ気味が悪いだろうしねえ」
「そうでしたか……」
ほんのわずかな間とはいえ、嫌な目に遭ったとはいっても、光月荘自体の雰囲気は嫌いではなかった。少しばかり寂しいような気がしてしばらく俯いていると、真樹さんがこんなことを口にした。
「正直なところ、僕自身は取り壊しのほうはもう少し待ってもらいたかったんだけれどね」
「ど、どういうことですか?」
私の問いかけに真樹さんは、どう考えても、あの建物自体に曰くがあることになるんだ、と肩をすぼめながらつぶやいた。
「あれ以来、あの奇妙な三味線弾きの正体を探ろうと古い新聞をずいぶんあたってみたんだがね。お座敷とか、それこそ芸妓に関わるような事件の記録がまるで見当たらなかったんだ。そうなるとやはり、あの建物の中で、世間に知られない何かしらがあった結果が一連の騒動の正体なんじゃないか――そういう風になるんだよ」
「なるほど……」
当事者としてあまり深掘りをする気にもならなかったが、かといって何があったかわからないままというのは歯に物が挟まったようで気持ちが悪い。真樹さんの推察は、そこへあてがわれた爪楊枝のようなありがたみがあった。
「まあしかし、こんな結末を迎えるような相手だ。触らぬ神に祟りなし、ってことになるのかもしれないね」
「……かもしれませんねぇ」
と、あたりさわりのない相槌を返したところで、私はあることに気が付いた。
あの晩、ガラス越しに相手の姿を見ていた真樹さんは当然、三味線の音色を聞いていたわけである。ではなぜ、あの哀れなかすみさんとその友人たちのように彼は飛び降りなかったのか――。
おそるおそる尋ねてみた私に、真樹さんはあっけらかんとした調子で答えた。
「残念ながら、人ならざる相手と言ってもさほど三味線の方の腕前は良くなかったようでねぇ。親類の端唄の師匠が弾いてるのをよく耳にしてたから、聞きほれるような代物ではなかったのさ。かすみさんみたいな聞きつけない人には、どう聞こえたか知れないけれどね……」
「なるほどなぁ……」
かたや耳が肥え、かたや聞くたびに眠くなる。思えば奇妙な組み合わせの真樹さんと私があの三味線弾きと対峙したのは不幸だったのか、それとも幸運だったのか――。今もってその結論は出ていない。
ただひとつ確かなことは、下宿代はケチってはいけないということ、だろうか。