その三
小さいながらもサービスの行き届いたビジネス旅館での一夜が明けると、食後の朝風呂も相まって、私の気分はすっかり良くなっていた。同時に、あんなどんちゃん騒ぎくらいでカッカすることもなかったな、という妙な反省が湧いてもいたのだが。
「お世話になりましたぁ――」
番頭さんと女将さんへお礼をしてから宿を出ると、私はラッシュアワーの喧騒がいくらか薄れた、傘岡駅前の市電乗り場へと向かった。と、
「あれっ、千菅さんじゃないか。どっか出かけるのかい」
「あ、真樹さん!」
後ろから声をかけられると、そこには買い物袋を持った真樹さんが、いつものようなラフ格好で控えていた。どうやら、駅の中にあるスーパーからの帰り道らしい。
「ちょっといろいろあって、一晩だけ駅前の旅館にいたんですよ。三味線弾きをたたき出してやる、って、大家さんの親戚の人が乗り込んできて――」
「――おい、それ本当かい」
言い切らないうちに真樹さんがぐいと距離を縮めてきたので、私は肩から提げたバッグを落としそうになった。
「え、ええ……」
「――なんともないといいが、どうにも気になるな。千菅さん、悪いがちょっと、一緒に行かせてくれないか。道中の車代は出すよ」
なんだかよくわからないが、真樹さんの表情がひどく真剣だったので断りにくく、私は彼と一緒に、ロータリーからタクシーを拾うことにした。
タクシーが尾瀬井町の小さな通りへ近づくにつれ、私と真樹さんは窓外の様子のおかしなことに気づいた。普段、十時を回れば人の通りが少ないはずの一帯が、ひどく賑やかなのだ。
「――お祭りなんて、この辺でやってましたっけ?」
「そんな呑気な物だったらいいんだが……僕はさっきから、いやな気がしてならんのだよ」
腕を組んだまま、まだ夏棒のままの運転手さんの後姿をにらむ真樹さんの顔には笑みの一つも浮かんでいない。そのうちに、車は道をふさぐ黒山の人だかりを前に歩みを止めてしまった。
「お客さん、迂回しましょうか」
困った顔で振り向く運転手さんに、真樹さんは迷わず、
「いや、ここで大丈夫です。ありがとうございました」
メーターを見てから運賃を出すと、彼は私の手を引き、そっと人だかりのほうへ連れて行ってくれた。そして、大勢の目線の先にあるものへ目をくれると、やっぱりか、とため息交じりにつぶやくのだった。
「……どうやら、予想以上に最悪なシナリオが現実になったらしい」
「……えっ」
大勢の目線の先にいったい何があるのか――。それが分かった途端、私は血の気が引くのが分かった。さほど温かくもないというのに、二階の窓のサッシが全開になっている光月荘の周囲には、錆びた鉄棒のような鼻を刺す悪臭が漂っていたのだから……。