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その二

 後日、最初にあった喫茶店で大家さんへ相談をすることとなった私は、事情の一切合切を打ち明けた。とはいっても、さすがに幽霊かお化けの類いがいる、というわけにはゆかず、協議の上、「迷惑な三味線弾きが現れて、明かりを点けるとどこかへ逃げてしまった」という具合にぼかして伝えることになったのだが――。

「――というわけで、僕が一喝したら逃げていきましてね。当分は現れないかもしれませんが、逆恨みで昼に来やしないか、それが心配なのです」

「それで、すごく申し訳ないんですが、やっぱりあのお屋敷、退去させていただけないかと思いまして……」

 真樹さんのアシストもあり、どうにか本題を切り出した私は、一息付けるべくぬるくなったオレンジジュースへ口をつけた。幸いなことに、大家さんは一人暮らしの女子大生が物騒な目に遭ったことを気にかけてくれて、家賃やその他もろもろはすべて返金する、と申し出てくれた。

「――にしても、変な人がうろついてるだなんて、物騒な世の中になりましたわね。三味線を弾いてるだけだろうと思っても、何をするかわかりませんもの」

 セイロンティーの熱いところを含みながら、大家さんはしきりに怖いわね、とつぶやく。

「全くです。まあ、そのうちに三味線弾きの正体はわかると思いますが、どうも奇妙な取り合わせですね。――だって、役者が揃い過ぎてやしませんか。元の花街に三味線弾きがいるっていうのは」

 真樹さんの指摘に、大家さんもそうですわねえ、と返す。

「わざわざお着物まで用意して、ってなると、手間がかかりますもの。いったい何がしたいのかしら」

「社会はどうも、複雑怪奇でいけませんね。――いや、どうも今日は急にお呼びして申し訳ありませんでした。撤退の支度を相談せねばなりませんから、僕らはこれで失礼します」

「また何か変なことがあったら、遠慮なくおっしゃってくださいね」

 和やかな調子で場が開けると、私は真樹さんと大家さんのベントレーを見送り、それから喫茶店を出た。心なしか、外を流れる空気がやけに新鮮に感じられる。

「――よかったじゃないか、うまいこと収まって。前みたいに引き揚げも手伝うから、今のうちに部屋だけきれいにしとくんだね」

「ありがとうございました。まあ、一人暮らしはつまづいちゃったけれど……」

 これでまた親戚の元へ逆戻り、かと思われたが、真樹さんの口から意外な言葉が飛び出た。なんでも、同じ町内にある学生向けアパートに急な空き部屋が出来たとかで、そこの大家さんが借り手を探しているのだという。聞けば、家賃は相場ぐらいだが、なんと敷金礼金がないとのことで――。

「――おっかしいなぁ、そんないい物件があったなら、どうして見つけられなかったんだろう」

 いい部屋がないかとずいぶん探し回ったのを思い出して真樹さんへ尋ねると、すぐにタネが割れた。なんのことはない、浪人生たちが近場の予備校への通いやすさをいいことに集まる、ほぼほぼ浪人専用のような物件だったためである。

「親元を離れてせっせこ勉強してると、ほんのささいな買い物に出る時間も惜しい、って場合があるからね。駅前のわりに静かだからっていうんで、空いてもすぐに部屋が埋まってしまうらしい。ま、数人の例外はあるようだが……」

「なるほど、それじゃわかんないわけですね。――ちなみに、どこの不動産屋さんで管理してます?」

 まだ引っ越しも済まないうちから気が早いとも思ったが、そんなにいい条件の部屋を他人が放っておくはずがない。やや焦りながら尋ねると、真樹さんはおやおや、と肩をすくめてこちらを見つめた。

「気づかなかったのかい。――大家さんが直々に僕なんかへ話をするってことは、どういうことだと思う?」

「――あ!」

 真樹さんのいたずらっぽい微笑みですぐにわかった。不動産屋に頼んでいない、大家さんが直々に管理をしている物件なのだ。

「今から行ったら、たぶんお茶でも飲んでるくらいだと思うし、僕も頼まれごとの履行が出来て都合がいいや。どうする?」

「ぜ、是非とも!」

 これを断る理由が見当たらなかった私は、真樹さんへ深々と頭を下げたのだった。

 その日のうちに簡単な内見とあいさつを済ませ、親にもちょっとしたトラブルが原因の転居の旨を伝えると、私は軽い足取りで帰途についた。まだ具体的な時期こそ決まっていないものの、馴染みかけたこの部屋ともお別れというのはいささか寂しいものがある。

「せめて最後くらい、ピカピカにして出て行かなきゃなぁ……」

 殊勝な気持ちを胸に抱き、敷きっぱなしになっていた布団を畳み、押し入れへ戻しかけた時だった。おそらく転居以来初めて聞くであろうけたたましい呼び鈴の音に、私は一瞬、それが何の音なのかわからず立ち尽くしてしまった。

 二度目の呼び鈴でやっと、自分を呼んでいる音なのだとわかると、私は大慌てで階段を降り、玄関の戸を開けた。

「――あれっ?」

「こんばんは」

 夕闇迫る尾瀬井町の下宿にふらりと現れたのは、大家さんの親類・かすみさんだった。

「ど、どうかしたんですか?」

 家賃の集金には相当間がある。いったい何の用だかわからずその場に立ち尽くしていると、

「――悪いけど、ちょいと上がらせてもらうよ」

「あ、ちょっと!」

 こちらの制止をよそに、しびれを切らしたらしいかすみさんは階段を上がり、慣れた調子で二階の部屋――ちょうど真樹さんが怪しい三味線弾きを見かけたのと同じ窓を乱暴に開けた。

「かすみさん、いったいどうしたっていうんですか」

 後を追った私に気づくと、かすみさんはぎょろりとした目をこちらに向けて、窓の外を指さした。

「あそこかい? 変なのがいたっていうのは……」

 どうやら、大家さん経由で事情が伝わっているらしい。隠すこともないだろうと、そうです、と返答すると、意外な答えが返って来た。

「安心しな。その変な三味線弾きはあたしがおっぱらってやるよ」

「……へ?」

 わけがわからずにかすみさんの顔を覗き込むと、彼女は不機嫌そうに、

「――そんなチンケな奴のせいで、あたしの金づるがなくなってたまるか、ってんだ」

 と、後ろ手で窓を閉めながら言い放った。

「安心しな、今夜はあたしが寝ずの番して見張ってやるから。自分のことは勝手にやってるから、あんたは好きに過ごしてな」

「で、でも……」

 転居の手筈がまとまっていることを改めて伝えようとしたが、初めて会った時以来、ガラの悪さからやや警戒していた彼女ともめごとを起こすのも嫌で、私はそのまま自分の部屋へ戻ることにした。

 ところが、そろそろ夕飯時という七時過ぎになると、階下が急にやかましくなり出した。襖をあけて階段から様子を探ると、かすみさんの仲間らしい、ちょっと風体の良くなさそうな一団が大荷物を抱えて二階へ入ってくるではないか。

 ――このぉ、こっちの気も知らないで!

 元来そこまで部厚くできていない構造なのもあって、気にしないようにすればするほど、階下の騒ぎが畳越しに伝わってくる。しかし、あんなガラの良くない一団へ怒鳴るような度胸の持ち合わせはあいにくとない。

 ……しょうがない、どっかの旅館に避難だ。

 駅前に出れば、大小さまざまなビジネス旅館がある。そのどれかに避難して、明日の朝ゆっくりと帰ってくればいい。そう決心すると、私はネットで調べた朝食付きの安い宿へ予約を入れ、最低限の荷物を持って部屋を出た。

 ……わざわざいう事、ないよなぁ。

 襖の向こうで始まっている、下世話な会話に割って入る気も起きない。玄関の戸をそっと開けて鍵を下ろすと、私はいささか重い足取りで電車道の方へと出た。

 心地の良い、雲一つない夕空に、ぼんやりとした月の浮かぶ晩のことである。


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