その一
「先輩、あんまりため息ついてると幸せ逃げちゃいますよぉ」
「――これがつかずにいられますか、っての!」
向かいに座ったとぼけ顔の後輩・陰山蛍にたしなめられた私は、空になったどんぶりの中へ箸を放り投げた。懐の寒いところに、うっかり見栄を張って後輩に昼をおごった私は、先ほどまでさみしく、一番安いきつねうどん――金一七〇円也――を手繰っていた。
「ほっちゃん、あなた下宿だったっけ。それとも実家?」
「実家ですよぉ。――あ、そういえば……」
とぼけた顔の造りにわりに聡い神経をしている彼女が、こちらの顔をまじまじのぞき込む。
「気になってたアパート、費用がかなりついたんでしたっけ?」
「そうなの! 敷金礼金、仲介手数料合わせてざっと三十万……! 仲介業者がボッてるわよ、あれは」
入学以来、親戚の家に居候をしていた私は、春先から不意に芽生えた独立の欲求と、その願望を満たしてくれない市内の不動産事情にすっかり参ってしまっていた。安いところは遠く、近いところは高くつく――当然と言われたら当然なのだが、いくらなんでも暴利のような、そんな気がしてならなかった。
「この頃、沼垂は工業特需で転入者が多いですからねぇ。ちょっと高いお値段にしても、入る人がいるんじゃないでしょうか」
「だからって、いくらなんでもあれはひどいわよ。だからって、四畳半の風呂なしなんて、昔の歌みたいなところには住めないし……」
「銭湯通いはちょっと手間かかりそうですもんねぇ」
実際、贅沢を言わなければ安いアパートはいくらでもあった。しかし、内見に行ってみると、写真よりも荒れ方がひどかったり、近くが消防署でひっきりなしのサイレンがやかましかったりと、なかなかに難しい。
「お風呂とトイレが別々。こぎれいで、そんなに交通の便が悪くなければ……って、贅沢なのかなあ」
「いくつか犠牲にしないと、今は難しいのかもしれませんねぇ。――ごちそうさまでしたぁ」
ナポリタン定食のおまけにくっついていた小さなあんみつを食べ終えると、彼女はうやうやしく、私に頭を下げてきた。
「先輩、今度お礼させてください。美味しいラーメンでも一緒に行きましょうよ。こってりしたの、付き合いますよぉ」
お盆片手に返却口へ差し掛かったところで、彼女がかわいい提案をしてくれた。そう言えばこの頃、好物だというのに全然食べていない。
「――そうだねぇ。じゃあ、あたしはこれで。このあと講義?」
返却口を離れ、小さなトートバックを肩にかけなおした彼女へ尋ねると、彼女はちょっと微笑んで、
「これから、夕方までバイトなんです。古本屋さんって、話しましたっけ?」
そういえば、そんなようなことを聞いた記憶がある。
「うん、聞いてたと思う。まあ、頑張ってな」
「はぁい、行ってきます」
小動物のような後輩の後姿を見送ると、昼休み明けに控えている一般教養を受けるべく、私は重い足取りで大教室へと向かうのだった。