突然の災い
インターホンが鳴る。
玄関に誰かが来た。
キッチンの小さなモニターに玄関に立つ二人の男が映っている。
面識のない人間の訪問に、少し緊張感が。
カメラのレンズに向かって笑みを浮かべている二人。
どちら様ですかとインターホン越しに尋ねる坂井千夏に、一人が答える。
『私、弁護士の村上と申します。桑嶋稔様の事で、少しお話が有りまして・・』
弁護士と名乗る男から離婚した夫の名前を聴いて、胸の奥が訳もなく騒ぐ。
もう一人は、名乗ることもなく、相変わらずニヤニヤしている。
不快だと思いながらも、彼女はエプロンを外し、玄関のドアを開けた。
開いたドアの向こうから春の陽光が差し込んで来た。
千夏は、その眩しさに一瞬だけ眼を閉じた。
弁護士だという村上と名乗る男は、千夏に突然の訪問を謝罪しながら、名刺を渡した。
名刺に目を落としながら、千夏が尋ねる。
『それで、桑嶋のどのような件でしょうか。』
光沢のある紺のスーツ、派手なネクタイにメタルフレームの眼鏡をかけた村上という弁護士は、軽く眼鏡に手をかけてから、千夏の質問に答えた。
『実はですね、御主人は、あっ失礼しました。以前の御主人の桑嶋稔様が・・・その前にご紹介しておきます、こちらの方は鳴海様とおっしゃいます。幾つかの会社を経営なさっていらっしゃいまして、不動産や金融、飲食業なども・・・』
ここで初めて鳴海が口を開いた。
『先生、私の商売のことはその辺で。』
その声は、野太く澱んでいて千夏は怖いと思った。
千夏が顔を向けると、その顔からはモニター越しに見た笑顔は消えていた。
千夏の中に嫌な思いが拡がっていく。
村上は、手間のかかる話にもなるので中で話せないかと言い、千夏は仕方なく二人を居間へ通した。
二人に紅茶を出す時も、彼女の手許は微かにふるえている。
それは、千夏の不確かな不安だったが、何かが迫って来ていることへの心の揺れは確かなものだ。
『それで桑嶋のどのようなお話なんでしょう・・・何かご迷惑をお掛けしているということなんしょうか。』
千夏は、不安の中に自ら飛び込むような思いで、話を切り出した。
桑嶋との15年以上の結婚生活を振り返っても、桑嶋が弁護士の介在するようなトラブルを起こすことなど想像することが出来ない。
仮に、病院絡みで問題が有ったとして、病院には顧問弁護士も居るし、渉外担当の人間もいる。
離婚してかなりの年月の経った元妻の処になど噂すら届かないはず、ましてや桑嶋は再婚もしている。
私の前に座って居る男達との間に、今の家族には知られたくないようなトラブルを起こしたと言うことなのだろうか。
それにしても、何故、桑嶋本人から連絡が来ないのだろう。
千夏の胸の中のぼんやりとした嫌な思いが、色合いを濃くして拡がっていくような感じがした。
『一ヶ月ほど前の事なんですが、桑嶋さんがあるモデルさんとトラブルを起こしまして。』
『トラブル?』
『そのトラブルを解決する為のお金を鳴海社長が立替えた訳です。』
弁護士の村上は、順を追って話を始めた。
桑嶋が、難しい病気に苦しむ資産家の相談に乗った事が、始まりだった。
その資産家は、桑嶋の専門外の病気に罹っていた為に友人の医師を紹介し、資産家は無事に完治する事が出来た、それから交流が始まった。
一年ほど前の事だ。
資産家と桑嶋は、彼が健康を回復するにつれて、ゴルフや釣りなど資産家の趣味に桑嶋が付き合うかたちで交流は深まっていく。
桑嶋は、開業医の息子という裕福な家庭に育ち、早くから父親の後を継ぐことが決められていた。
そして、それは桑嶋自身も望んだ事だった。
品行方正な学生時代を過ごし、難関の国立大の医学部を優秀な成績で入学し、首席で卒業した。
大学病院に数年勤務したあと、父親の経営する病院の副院長として迎えられ今に至っている。
堅物と云う訳では無いが、真面目な性格で社会で揉め事を起こすようなタイプでは無い。
《モデルとトラブル》という言葉が千夏には引っ掛かった。
そんな世界の人と桑嶋が。
村上の話しを聴きながら、千夏は思った。
村上の話は、核心の部分になった。
桑嶋は資産家の家にも招かれて、しばしば訪れていたらしい。
そして、モデルと知り合うことになる。
しかも、そのモデルという女性は、資産家の娘だった。
桑嶋と資産家の親娘の交流は続き、驚いたことに娘と桑嶋は男女の関係になったというのである。
やがて、二人の関係は資産家の知るところとなる。
資産家の年齢が、桑嶋よりも一回り近く若いこともあって、娘の年齢は二十代半ばだった。
ここまでの話を聞いても、千夏には信じ難い事だった。
あの桑嶋が、自分の娘よりも歳の若い知人の娘と関係を持つなどとは、有り得ない。
『それで、その女性の父親から慰謝料とかの・・・』
『そうじゃあ有りません。むしろ父親の方ではなく、娘さん本人からですね。』
『請求されている金額って・・・』
『1億ですね。』
『えっ』
桑嶋が若い女性と揉め事を起こしたという話もそうだが、千夏には、請求されている金額の方が、もっと現実味が感じられなかった。
『あの〜、1億円ということですか、慰謝料が。』
『そうですね。1億円です。』
海外のスターの離婚などでは、億を超える金額が話題になったりもするが、日本の、一般の男女問題の解決に1億円などと、千夏は聞いたことがなかった。
相手のモデルという女性が一般人と言えるかどうかは考えものだし、桑嶋も高額所得者ではあるが、ハリウッドのセレブとは比べ物にならない。
『私が、世間知らずなのかもしれませんけど、少し常識を超えた金額じゃありません。』
千夏の言葉に、村上は口もとに下卑た笑みを浮かべた。
『依頼人が1億円と言い、相手も承諾してます。世間の相場は、この場合は関係ありませんから。』
千夏の中に疑念が一気に膨らんだ。
紅茶を運んだトレイの縁を掴む千夏の手に力が入った。
途方もなく馬鹿げた金額を聞かされた時点で、目の前の二人が、悪意の企みを隠し持っていることを確信した。
偽物だ。
とにかく、二人を帰さなくてはならない。
どうすればいのだろうか、千夏には口実が見当たらない。
桑嶋は、どうしているのだろう。
『あの、桑嶋は今何処に居るんですか、病院には出てないんですか。』
『桑嶋さんは、病院にも今の奥様にも、今回の事は知られたくないって言うんですよ。まあ、それでは私どもも困りまして、桑嶋さんには少し旅行に行ってもらってます。』
『旅行って、どういうことですか。』
『鳴海さんも慈善事業をやってる訳じゃあないですからね、担保も保証人もなしでお立て替えしてる訳ですから。返済のめどが立たない間に桑嶋さんにいなくなられても困りますし・・・あっ、ご心配なさらないで下さい、乱暴な事はしてませんし、箱根のホテルで、温泉を楽しんでらっしゃいますよ。』
『とにかく、桑嶋と直接話さなくては、どうするこうするを、私からは申し上げられません、それに私が責任をとる話ではないと思うんですね。』
『奥さんに責任を、なんて言ってないですよ。元の旦那の窮地を救ってあげて下さいと申し上げているんです。』
『とにかく、お話は判りました。今日のところはお引き取り下さい。あとは桑嶋と話してから。』
村上は鳴海と顔を見合わせてから、『奥さん、判りました、今日は帰ります。桑嶋さんの携帯も繋がりますから、よく聞いてみて下さい。ただ、あんまり永くは待てませんよ。桑嶋さん、あと二日で箱根から戻ってもらいますから、その時にはこの話のケリはつけてもらいます。そうでないと桑嶋さん、面倒なことになりますよ。』
最後のこの言葉が、村上という人間の正体を現していた。
村上が本当に弁護士だとしても、善良な弁護士でない事は判った。
千夏は、さっきまでの、不安な思いも吹き飛んで、冷静な自分になってい