静かな予兆
足を洗った小田尊の日常は穏やかに過ぎて行った。
それまでの生活と比べると違和感は色々な場面で感じてはいたが、その度にこれが当たり前で今迄の自分の生きて来た世界が普通ではなかったからだと自分に言い聞かせていた。
尊が、いわゆる堅気になってから二ヶ月が過ぎた。
桜の季節もすでに終わり、街は少しづつ夏へ向かっている。
会長のから提供されたマンションは、独り暮らしには広過ぎたために直ぐに手放す事にして市ケ谷に2LDKの部屋を借りた。
尊はマンションを返却しょうと申し出たが、会長の佐々木は承諾しなかった。
お前のために手に入れたものだから住まないなら、売るなりなんなり好きにしろと言い、尊はその言葉に従った。
車を購入し、家具や身の回りの物を買い揃えたが、その費用はマンションの売却で手にした現金で充分事が足り一千万ほどの現金が残った。
会長のもうひとつの心遣いのニ億円と併せると、尊の年齢を考えても特別に贅沢な暮らしでもしなければ残りの人生の生活に困ることのない金額だった。
何か仕事をと考えてはいたが焦ることはないと思い直し、社会に馴染む為の時間をとることにした。
市ケ谷に住むようになった事もあって、尊が徳田の店に通う頻度は著しく増え、
今では日課に成っている。
徳田の店までは、ゆっくり歩いて30分。
長い刑務所暮らしで身体を動かす事が日課と成っていた尊にとっては、丁度良い散歩コースに成っている。
昼過ぎに部屋を出て、街の風景を楽しみながら、のんびりと徳田の店に向かう。
店に着く頃には、昼食の時間帯も終わり、客達の姿も疎らだ。
カウンターに座り、徳田が特別に用意した昼食を食べる。
これも尊の日課に成っている。
その昼食の時間は昔話に花が咲く、尊にとって懐かしい時間でもあった。
その日も何時ものように出された昼食を平らげ徳田の淹れた珈琲を啜っていた。
『そういえば、尊は坂井のこと忘れたのか?』
徳田は、唐突に切り出した。
忘れてはいない。
忘れる訳がない。
頭の中の隅の方に常に千夏のことは居続けていた。
だが尊は黙っていた。
『返事がないってことはさ、忘れる訳が無いってことだよな。』
黙ったままの尊の口許が、微かに弛んだ。
徳田は、問わず語りに坂井千夏についてを語り始めた。
『お前達が、誰からも幸せそうに見えたのは、三年の夏の臨海学校の辺りからだ。
人の目も気にしないでいる二人を見て皆んなが刺激されるように成って、あっちでもこっちでも仲良くやる奴等が増えてきて、彼女のいない俺なんか淋しい思いをさせられたよ。
そんな二人がいつの間にか一緒にいる処を見なくなって、卒業の頃はまったく話しもしないようになってしまった。
皆んな気にはなってたんだけど、聞くに聞けないっていう感じだった。
坂井の方も女子の仲間に尊の話は一切しなかったようだった。
二人に何があったんだろうって、おまえのいない処ではよく話題にしたもんだよ。』
『俺も、何故なんだか、判らない。今だって判らない。』
徳田の話が一区切りした時、尊はポツリと言った。
徳田は、尊の前のカップに珈琲を注ぎ、遠くを見るようにしながら、『進学して、お互いの学校も変ってしまうし、おまえ達が会うこともなくなった。
そのうちにおまえは、変な事件に巻き込まれて、被害者だとばかり思っていたら加害者だと言われて、本当に驚いたよ。
最初の懲役が終わっても、神楽坂には帰って来ないし、
風の噂でヤクザになったって聞いた時にはもう理解に苦しんだよ。
坂井千夏の方は大学を卒業して二年ぐらい経った頃だったか、結婚するという噂が流れた。
その後直ぐに、何処かのホテルで医者の息子と盛大な婚礼をあげたという話があって、横浜で暮らしていたらしい。』
いたらしいという徳田の最後の言葉に尊は反応した。
『坂井は、今どうしているんだ。』
『それも、知らないのか。』
『知らない。どうしてるんだ。』
『無理もないか、あっちの世界に足突っ込んでから、俺とも会わなくなったもんなあ。』
徳田は、また記憶を辿るように自分の知っている坂井千夏の情報を頭の中で整理するように語り始め、尊は黙って聴いている。
『坂井千夏は、結婚して子供をひとり産んだ。女の子だ。その娘が十歳になった頃に離婚した。理由はよく知らない。それで実家に帰って来た。
その娘も結婚し、千夏の両親も亡くなって、今はもう独り暮らしだと思う。
近くに居るとは言っても、会うこともないので最近の彼女が如何して居るのかは判らない。』
徳田の話が終わると、『じゃあ、そろそろ行ってみるよ。』
と言って、尊は立ち上がった。
『気になるなら、誰かに確認するぞ。』
徳田の言葉に尊は振り返らなかったが左手を肩のあたりまで上げただけだった。
その左手の小指の先は欠損していた。
徳田はそこに視線を向け、尊がヤクザだったことを思い出した。
尊はドアの外に消え、店の中に徳田が一人残った。
せっかく堅気になれた尊が平穏な余生を送ってくれることを願い、何か予兆があった訳でも不安材料があった訳ではないが、とにかく平穏を願わずにはいられなかった。